ケンジとマリ、冬の入り口の夜

外の風は冷たくて、木枯らしの音がビルの隙間を抜けてゆく。 その夜、BAR「恋古都」のカウンターには、ケンジとマリの姿があった。
マリはグラスを指で転がしながら、ふっと笑う。
「ねぇケンジ。最近、ユキノちゃんとよく一緒に飲みに行ってるんでしょ?」
ケンジは眉ひとつ動かさず、バーボンを口に含んだ。
「あいつ、話してみると面白いんだよ。勝ち気でさ、でもどこか抜けててよ。」
「へぇ……楽しそうじゃない。」
「いや、そういうんじゃねぇよ。なんか……前に向かってるって感じがしてさ。 再婚も考えてるみたいだし、ちょうどいい相手紹介しようかと思ってる。」
マリの手が止まる。 振り向いたその瞳には、ケンジが見えていない何かを見抜くような静けさがあった。
「……紹介? 誰を?」
「トモキ。昔の取引先の後輩だよ。真面目だし、エリートコースだし、 ユキノみたいな子にはちょうどいいさ。」
マリはため息と一緒にグラスを置いた。
「ケンジ、それでいいの?」
「何がだよ。」
「だって……あなた、ユキノちゃんのこと、気になってるんじゃない?」
ケンジの瞳がわずかに揺れた。だがすぐにいつもの調子で笑い飛ばす。
「あいつは真剣な相手を探してるんだよ。俺じゃダメだろ。 年も離れすぎてるしさ。」
「年齢なんて関係ないわよ。 あなたがいつまでも“軽い恋愛しかできない”って思い込んでるだけでしょ。」
「俺はそういうの、いいんだよ。」
短い沈黙が落ちる。 ケンジはグラスを見つめ、マリはその横顔を見つめていた。
マリは静かに、しかしどこか寂しげに言う。
「……ケンジ。自分の幸せを最初から諦める癖、そろそろやめなさいよ。」
ケンジは返事をしなかった。ただ、氷が溶けていく音だけが二人の間に残った。
ケンジとユキノ、ふたりで歩く夜
編集部を出たのは、すっかり街が冷え込んだ頃だった。 ケンジとユキノは、自然と同じ方向へ歩き出す。
「ケンジさん、今日も仕事落ち着きました?」
「まぁな。お前は?」
「わたしは……ほどほど、ですかね。」
そんな他愛のない会話が、不思議と心地いい。 ふたりで歩く夜道は、誰かと歩くより静かで、でもひとりより温かい。
「この時間の空気、好きなんですよね。」 ユキノは息を白くさせながら言った。
「冬って、静かにしてても許される感じしません?」
ケンジは少し笑った。 「たしかに。お前、そういうこと言うのうまいよな。」
「え、褒めてます?」
「褒めてるさ。……多分。」
ふたりが同時に笑う。 その笑い声は控えめで、でもどこか親しさを含んでいた。
近くの居酒屋の暖簾が揺れた。 ケンジは何気なく横目で見て、言葉を投げる。
「軽く飲むか?」
「あ、行きます。」 返事は驚くほど自然だった。ふたりにとって、それが当たり前のように。
店に入ると、温かい光が迎えてくれた。 カウンターに並んで座り、ビールの泡を眺めながら話す。
「ケンジさんってさ、意外と優しいんですね。」
「なんだよ、意外って。」
「だって普段、説教臭いじゃないですか。」
「おい。」
ユキノはくすっと笑う。 ケンジは少しだけ照れくさそうに横を向いた。
恋愛とは違う。 でも、肩の力が抜けるような安心感がふたりの間に流れていた。
帰り道、ストリートピアノの前で
店を出ると、夜はすっかり冷え込み、風が頬を刺すほどだった。 駅へ向かう途中、照明に照らされたストリートピアノがひっそりと置かれている。
ユキノが立ち止まった。 「あ、これ……弾けるやつですよね。」
ケンジはふと思い出したように言った。 「なぁ、この前の曲。弾いてみろよ。」
「え、ここでですか?」 ユキノは少し頬を染めて笑う。
「いいだろ。人も少ないし。」
ユキノは短く息を吸い、そっとピアノ椅子に腰かけた。 キーに触れた指先は、普段の勝ち気な雰囲気とはまるで違う。
そして音が落ちた。
静かで、透明で、冬の空気と溶け合うような音だった。 ケンジはその最初の一音で、思わず息を止める。
――あぁ、こいつ、こんな顔するんだ。
勝ち気で、明るくて、言いたいことははっきり言う。 ケンジが知っているユキノはそんな女だ。
でも今目の前にいるのは、 普段は誰にも見せることのない“音だけに向き合うユキノ”だった。
横顔は静かで、目元はかすかに陰を宿し、 それでも前を向こうとするしなやかな強さがあった。
その姿は、ケンジの胸にかすかな痛みを落とす。
――眩しいな。
気づけばそんな言葉が喉まで上がっていた。 彼は黙って飲み込む。
音がゆるやかに広がり、駅のタイルに反射して消えていく。 悲しいようで、明るいようで、どちらとも言えない曲。
曲が終わると、ユキノは少し照れくさそうに振り返った。
「どうでした?」
ケンジは正直に言葉が出てこなかった。 代わりに、静かに答える。
「……不思議な曲だな。悲しくも聞こえるし、明るくも聞こえる。」
ユキノは目を細めて笑った。 「じつは、これ……わたしの曲なんです。」
その一言で、ケンジの胸の奥が小さく震えた。
――こいつ、こんな音を持ってたのか。
その気づきは、まだどんな感情なのかわからない。 けれど、確かにケンジの世界の色を変えはじめていた。
「雪散る」という名の曲
鍵盤から手を離したユキノは、少し照れたように肩をすくめた。
「どうでした?」
ケンジはまだ余韻のなかにいた。 音が胸に滲んでいて、すぐに言葉にできない。
「……お前、作曲なんてできたのか?」
「できるってほどじゃないですよ。趣味みたいなものです。」
「でも、いい曲だな。」 その言葉は思わず漏れた本音だった。
ユキノは少しだけ視線を落として言う。
「曲名、あるんですよ。」
「なんだ?」
「『雪散る(ゆきちる)』っていいます。」
ケンジは瞬きをした。 「雪が……散る、か。」
タイトルを口にすると、胸の奥にひやりとした風が通り抜けた。
「なんだか切ない名前だな。 なんか……終わりみたいで。」
ユキノは不思議そうに首をかしげた。
「そう感じました? わたしは、冬の終わりに雪が散って、 そのあと春が来るイメージでつけたんですけど。」
ケンジは少し驚いたように彼女を見る。
「へぇ……同じ音でも、そんなふうに捉えるのか。」
ユキノはピアノのふたをそっと閉じながら微笑む。
「音もタイトルも、人によってぜんぜん違って聞こえますよ。 その人の今の気持ちを映すみたいに。」
ケンジはその言葉を胸の奥で反芻した。 音が気持ちを映す―― それは、音楽に背を向けてきた自分が一番よく知っていることだった。
「……たしかに。お前の音は、なんか……妙に刺さるんだよ。」
「え、刺さるっていい意味ですか?」
「悪くねぇよ。」
ユキノは照れ隠しのように前髪を整えた。 ケンジもまた、言葉にしきれない感情が胸に浮かんでいた。
『雪散る』――それは同じメロディなのに、 二人にまったく違う景色を見せていた。
夜風の中で、ふたりが見つけた余韻
ピアノから離れ、ふたりは駅へ向かって歩き出した。 冬の夜風が吹き抜け、ユキノの髪がふわりと揺れる。
「寒いですね。」 ユキノが手をこすり合わせる。
ケンジは自分のマフラーを少し緩めて、 「ほら」と軽くユキノの背に当てて風をさえぎった。
「あ、すみません……ありがとうございます。」 ユキノは小さく頭を下げた。
ほんの数秒のこと。 でも、ユキノはその仕草に気づいたあと、 冬空を見上げて、ぽつりと言った。
「わたし、あの曲…… いつか、誰かと一緒に弾ける日が来るといいなって思ってて。」
「へぇ。」
「ひとりで弾くと、なんとなく“足りない”気がするんですよね。 でも、どんな楽器と合わせたいのかはよく分からないんですけど。」
その言葉にケンジは一瞬だけ息を呑んだ。 しかし表情には出さず、ただ歩調を合わせて横に並ぶ。
駅の改札前に着くと、ユキノはバッグを抱え直し、 少し照れたように微笑んだ。
「ケンジさん。今日は、ありがとうございました。」
「なんだよ急に。」
「なんとなく……です。」 ユキノはそう言って笑った。
笑顔は強気なのに、どこか不器用で、 ピアノを弾いていたときとは違う柔らかさがあった。
それが、ケンジには妙に眩しく見えた。
「じゃあ、また。」 ケンジが軽く手をあげる。
ユキノは小さく頭を下げて改札へ消えていった。
ケンジはしばらくその背中を見つめていた。 冬の駅前は人の気配が薄く、静かだった。
「……足りない、か。」
ユキノの言葉を思い返しながら、 ケンジは胸の奥にかすかなざわめきを覚える。
曲の名前も、音も、人も。 同じものでも、誰が触れるかでまったく違う意味を持つ。
ケンジの胸のなかで、 『雪散る』という曲が、ゆっくりと形を変えていった。


