雪散る─第5話:迷いの音

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幸せを手放す男

カフェの窓際の席は、 午後の光がやわらかく差し込んでいた。

「同い年なんですね。」

トモキが、少し意外そうに言う。

「ええ。 ケンジさんから聞きました。」

ユキノは微笑んだ。

「年下だと思ってました。」

「よく言われます。」 トモキは肩をすくめる。

それから自然と、 話題はケンジのことに移っていった。

「あの人、 昔から不思議なんです。」

トモキはコーヒーをかき混ぜながら言う。

「人のことは、 本当によく見てる。」

「困ってる人がいたら、 放っておけない。」

ユキノは、 その言葉に静かに頷く。

「でも…… 自分のことになると、 途端に雑になるんですよ。」

「雑?」

「ええ。」

トモキは少し苦笑した。

「幸せになろうとしない、 っていうか……」

「あえて、 自分がしんどい方を選ぶ。」

ユキノの胸に、 小さな違和感が重なる。

「たとえば?」

「前に勤めてた会社も、 突然辞めました。」

「待遇も悪くなかったし、 評価もされていた、周りも引き止めたんですけど。」

「気づいたら、 フリーのライターになってて。」

トモキは、 どこか納得できないような表情を浮かべる。

「楽な道じゃないのに、 そっちを選ぶんです。」

「まるで……」

言葉を探し、 トモキは続けた。

「自分を苦しめてないと、 落ち着かないみたいで。」

ユキノは、 何も言えなくなる。

ケンジの笑顔。 冗談。 何気ない優しさ。

その裏側に、 そんな選択が積み重なっていたことを、 はっきりと理解してしまったからだ。

「……心配なんですね。」

ユキノがそう言うと、 トモキは迷わず頷いた。

「はい。」

「尊敬してますし、 大切な先輩です。」

「だからこそ、 このままでいいとは思えない。」

トモキは、 ふとユキノを見た。

その視線には、 もう答えを知っている人の静けさがあった。

ユキノは、 何も言わなかった。

ただ、 ケンジのことを考えていた。

優しさと、 あえて選び続ける苦しさ。

その両方を抱えた人を、 自分はどう見ているのか――

まだ、 言葉にはできなかった。

優しい後輩

トモキは、カフェを出てからもしばらく歩き続けていた。

胸の奥に、 ずっと引っかかっていた記憶がある。

――ケンジが、 ユキノを紹介すると言った日のことだ。

「ちゃんとしたやつだから。」

そう言いながら、 ケンジは少しだけ言葉を選んでいた。

いつもなら、 そんな言い方はしない。

トモキは、そのとき思ったのだ。

――ああ、この人、 もう特別になりかけているんだな、と。

ケンジは、 誰かを大切にするときほど、 一歩引く癖がある。

踏み込みそうになると、 自分から距離を取る。

幸せが近づいた瞬間に、 あえて手を離す。

トモキは、 それを何度も見てきた。

だからこそ、 ユキノを紹介されたとき、 ただの善意だとは思えなかった。

――譲ろうとしている。

そう感じてしまったのだ。

ケンジの幸せを願っている。

同時に、 幸せになろうとしない その在り方を、 誰よりも心配している。

「……ほんと、難しい人だよ。」

トモキは、 誰に向けるでもなく呟いた。

その夜、 ユキノはひとり、 部屋の灯りを落としていた。

ソファに座り、 膝を抱える。

ケンジのことを考えないようにして、 失敗する。

惹かれている。

それはもう、 誤魔化せない。

でも――

この人と恋に落ちても、 幸せな恋になる気がしなかった。

一緒にいれば、 きっと穏やかで、 きっと優しい。

それでも、 どこかで必ず、 置いていかれる。

「……私が、 変えられるのかな。」

幸せになろうとしない人を。

自分を罰するように生きている人を。

そんな役割を、 背負っていいのだろうか。

答えは出ない。

出ないのに、 心だけははっきりしていた。

幸せになれなさそう。

それでも――

惹かれてしまう。

ユキノは、 その矛盾を抱えたまま、 目を閉じた。

言葉にならない拒絶

夜のBAR恋古都は、 まだ客も少なかった。

カウンターに並んで座るケンジとトモキは、 グラスを傾けながら、 他愛のない話をしていた。

仕事のこと。 昔の取引先のこと。

ケンジは相変わらず、 軽口を叩きながら場を和ませる。

けれどトモキは、 ずっと別のことを考えていた。

「……ケンジさん。」

グラスを置き、 トモキは声を落とす。

「ユキノさんのこと、 どう思ってますか?」

一瞬だけ、 ケンジの動きが止まった。

それはほんの一瞬で、 すぐに何事もなかったように笑う。

「どうって?」

「いい人だろ。」

「真面目だし、 頭もいいし。」

「……それだけですか。」

トモキの声は、 確認に近かった。

ケンジは、 氷の溶けたグラスを回す。

「それで十分だろ。」

しばらく、 沈黙が落ちた。

トモキは覚悟を決める。

「ケンジさん。」

「……逃げてませんか。」

ケンジは、 ゆっくりと息を吐いた。

「何からだよ。」

「幸せから、です。」

言葉は、 もう引っ込められなかった。

「あの人、 ケンジさんのこと、 大切にしようとしてます。」

「それが分かってるから、 あえて距離を取ってるんじゃないですか。」

ケンジは、 すぐには答えなかった。

しばらくして、 苦笑する。

「……お前は、 本当に面倒なこと言うな。」

怒ってはいなかった。

否定もしていない。

それが、 何よりの答えだった。

「俺はさ。」

ケンジは、 カウンターの向こうを見つめる。

「誰かの人生を 背負えるほど、 ちゃんとした人間じゃねぇんだよ。」

「幸せにするって言葉、 軽々しく使えるほど、 立派に生きてねぇ。」

トモキは、 何も言えなかった。

「だから。」

ケンジは、 少しだけ笑う。

「いいんだよ、 これで。」

それは、 自分に言い聞かせる声だった。

トモキは、 それ以上踏み込まなかった。

踏み込めば、 きっと壊れる。

壊れるのは、 ケンジなのか、 それとも自分なのか。

その答えを、 トモキは知りたくなかった。

夜に残る音

ケンジは、 そのまま家へ戻った。

特別な理由があったわけではない。

ただ、 今夜は一人でいたかった。

玄関の灯りをつけ、 靴を脱ぐ。

部屋は静かで、 その静けさが、 逆に胸に残った。

ジャケットを椅子にかけ、 グラスに水を注ぐ。

ひと息ついた瞬間、 ふと、 ある言葉がよみがえった。

――いつか、 誰かと一緒に演奏したいんです。

駅の片隅で、 ユキノがそう言ったときの声。

強がっているようで、 どこか素直だった。

ケンジは、 その言葉を思い返しながら、 ソファに腰を下ろす。

どういう意味だったのか。

誰と、 という話だったのか。

そこまで考えて、 それ以上はやめた。

考えすぎると、 余計なものまで 見えてしまう気がしたからだ。

トモキの声も、 ふと頭をよぎる。

――前に進んでも、 いいんじゃないですか。

ケンジは、 小さく息を吐いた。

前に進む、 という言葉の意味が、 今はまだ、 はっきりしなかった。

部屋の隅に置いてある ギターケースに目が向く。

迷った末、 ケンジは立ち上がり、 それを開いた。

久しぶりに触れる 弦の感触。

チューニングの音が、 夜の空気に ゆっくりと溶けていく。

低く、 落ち着いたリズム。

意識したわけではない。

けれど、 その音は、 以前どこかで耳にした旋律と 自然に重なっていった。

重ねようとしたわけでも、 合わせようとしたわけでもない。

ただ、 指がそう動いた。

ケンジは、 自分が何を弾いているのか、 考えなかった。

考えれば、 名前をつけてしまいそうだったから。

音だけが、 部屋に残る。

それでいい。

答えは、 今夜出さなくてもいい。

窓の外は、 真冬の空気が満ちていた。

雪は、 降るのだろうか。

冷たい空気が、 少しずつ近づいている気がした。

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