昼休み。
編集部には、お弁当の匂いとキーボードを叩く音がゆっくり混ざっていた。
ミカコはコーヒーを片手に、公開されたばかりの記事を眺めている。
タイトルは、
「長野で出会った一杯。蕎麦好きがたどり着く場所。」
数日前に公開した取材記事だった。
そこへ、サンドイッチを持ったミユが近づいてくる。
ミユ:
ミカコさーん!
ミカコ:
なに?
ミユ:
長野の記事読んだよ!
ミユ:
もう、お蕎麦食べたくなっちゃった。
ミカコが笑う。
ミカコ:
それなら成功ね。
ミユ:
でもさ、びっくりした。
ミユ:
行きつけのお蕎麦屋さんの店主さんと二人で長野まで取材に行ったんでしょ?
ミカコ:
ええ。
ミカコ:
いい取材だったわ。
ミユ:
あたしだったら絶対、恋が始まるやつだって思っちゃう。
ミユ:
でも記事読んだら、ちゃんとお蕎麦の記事だった。
ミユ:
そういう雰囲気にならないのが、ミカコさんっぽい!
ミカコは肩をすくめる。
ミカコ:
蕎麦を食べに行ったんだから、蕎麦の記事になるでしょ。
ミユ:
まぁ、それもそうなんだけどね。
ミユは笑いながら席へ戻っていく。
ミカコはコーヒーをひと口飲んだ。
記事には書かなかったことがある。
長野で食べた蕎麦のことじゃない。
でも、それはまだ記事にする話じゃなかった。
仕事を終えたあと、
ミカコは自然と「蕎麦屋 琴」へ向かっていた。


今日も蕎麦屋 琴へ
仕事を終えたミカコは、駅とは反対方向へ歩いていた。
向かう先は決まっている。
暖簾をくぐると、木の香りと蕎麦つゆの香りが静かに迎えてくれた。
昼の混雑は終わり、
店内には穏やかな時間が流れている。
カウンターの向こうで、ヤブタが顔を上げた。
ヤブタ:
来たね。
ミカコ:
来た。
ヤブタ:
今日はちょうど新しい蕎麦が届いたんだ。
ミカコ:
それは運がいい。
ヤブタは嬉しそうに頷く。
ヤブタ:
長野の帰りに予約してきたやつ。
ミカコ:
あのおじいさん、ちゃんと送ってくれたんだ。
ヤブタ:
「また二人で来い」って言ってた。
ミカコは思わず笑った。
ミカコ:
覚えられてたんだ。
ヤブタ:
蕎麦の話しかしない客だったからな。
ミカコ:
そっちもでしょ。
ヤブタ:
否定はしない。
二人で笑う。
どちらも大きな声ではない。
でも、その笑い方は前より自然だった。
ヤブタがざる蕎麦をカウンターへ置く。
ヤブタ:
今日は何も考えず食べて。
ミカコ:
無理。
ミカコ:
仕事だから。
ヤブタ:
また記事にする?
ミカコ:
たぶんね。
ヤブタ:
じゃあ、美味しく作らないとな。
その一言に、
ミカコは静かに箸を手に取った。

蕎麦以外の話も、するようになった
ざる蕎麦を半分ほど食べた頃。
ヤブタが湯呑みにお茶を注いだ。
ヤブタ:
最近、編集部は忙しい?
ミカコは箸を置く。
ミカコ:
それなりに。
ミカコ:
毎日誰かが恋愛で悩んでるから。
ヤブタ:
大変だな。
ミカコ:
でも飽きない。
ミカコ:
同じ悩みに見えても、人が違うと答えも変わるから。
ヤブタは静かに頷く。
ヤブタ:
それ、蕎麦も似てる。
ヤブタ:
同じ粉でも、その日の湿度とか気温で全然変わる。
ミカコ:
職業病だね。
ヤブタ:
そっちもでしょ。
二人で笑う。
話題は蕎麦から始まる。
でも最近は、それだけじゃなくなっていた。
休日の過ごし方。
好きな音楽。
子どもの頃によく食べていたもの。
どちらから聞くわけでもなく、
気づけば自然と話している。
ヤブタ:
そういえばさ。
ヤブタ:
長野で帰りに寄った道の駅、ソフトクリーム食べてたじゃん。
ミカコ:
食べた。
ヤブタ:
蕎麦食べた直後に。
ミカコ:
デザートは別腹。
ヤブタ:
分析しないんだ。
ミカコ:
あれは感覚で食べるもの。
また笑いがこぼれる。
ミカコはふと思う。
ヤブタと話していると、
会話を続けようと頑張らなくていい。
沈黙があっても苦にならない。
それは案外、珍しいことなのかもしれなかった。
また来週
蕎麦を食べ終えると、
ヤブタが空になった蕎麦猪口を下げる。
ヤブタ:
今日も全部分析した?
ミカコ:
途中でやめた。
ヤブタ:
珍しい。
ミカコ:
美味しいものは、考えすぎないほうがいいこともある。
ヤブタは笑った。
ヤブタ:
長野で覚えた?
ミカコ:
そうかも。
店の外は夕暮れだった。
二人で暖簾をしまう。
住宅街に夕飯の匂いが流れていた。
ヤブタ:
そういえば。
ヤブタ:
隣町に、新しい蕎麦屋ができたらしい。
ミカコ:
へぇ。
ヤブタ:
評判だけ聞いた。
ヤブタ:
まだ行ってない。
少しだけ間があく。
ヤブタ:
今度、一緒に行く?
ミカコは答える前に、
空を見上げた。
夕焼けがゆっくり色を変えている。
ミカコ:
いいよ。
ミカコ:
でも、期待しすぎないで。
ヤブタ:
蕎麦?
ミカコ:
店。
ヤブタ:
俺は期待する。
ヤブタ:
ミカコと行く店、今のところ外れないから。
その言葉に、
ミカコは珍しく返事をしなかった。
ただ、小さく笑った。
それだけで十分だった。
帰る方向は違う。
交差点で手を振って別れる。
ヤブタ:
また来週。
ミカコ:
また来週。
恋人でもない。
友達とも少し違う。
名前をつけるには、まだ早い。
でも、
来週また会うことだけは、
二人とも当たり前のように思っていた。



