蕎麦好きな二人|ミカコ、行きつけの蕎麦屋で店主と出会う

平日の午後二時過ぎ。

昼のピークはとっくに終わっていた。

暖簾をくぐると、店の中は静かだった。

木のカウンター。

壁に貼られた手書きの品書き。

窓から入る柔らかい光。

客は誰もいない。

ミカコは少しだけ口元を緩めた。

ミカコ:
やっぱりこの時間ね。

蕎麦屋 琴。

駅から少し離れた住宅街の端にある店。

決して有名店ではない。

SNSで頻繁に話題になるわけでもない。

行列もできない。

でも、蕎麦は驚くほど美味しい。

ミカコはそんな店が好きだった。

静かで。

余計な演出がなくて。

ただ、美味しい。

それだけで十分だった。

席に座ると、奥の厨房から店主が顔を出した。

三十代後半くらいだろうか。

白い作務衣。

少し日に焼けた顔。

派手さはないが、穏やかな雰囲気の男だった。

店主:
いつものですか?

ミカコは少し驚く。

常連というほど通っているつもりはなかった。

ミカコ:
覚えてたんですか。

店主:
覚えますよ。

店主:
蕎麦を食べる前に、毎回三十秒くらい観察する人ですから。

ミカコは思わず笑った。

ミカコ:
そんなに見てました?

店主:
見ますね。

店主:
珍しいんで。

そう言って店主も少し笑った。

その笑い方に嫌味はなかった。

ただ純粋に面白がっている感じだった。

しばらくして、ざる蕎麦が運ばれてくる。

細く整った蕎麦。

艶のある表面。

鼻を近づけると、ほのかに香りが立つ。

ミカコは箸を持った。

そしていつも通り、

少しだけ観察してから最初のひと口を食べた。

その様子を、カウンターの向こうから店主――ヤブタが静かに見ていた。

目次

蕎麦好きは、蕎麦好きがわかる

ざる蕎麦をじっくり味わうミカコ。

最初のひと口を食べる。

蕎麦の香りが静かに抜けていく。

ミカコは何も言わない。

ただ、ゆっくり噛む。

蕎麦を飲み込んでから、

少しだけつゆを口に含んだ。

その様子を、ヤブタは厨房から見ていた。

しばらくして、

湯呑みを持ったままカウンターの近くへやってくる。

ヤブタ:
今日の蕎麦、どうです?

営業トークみたいな聞き方ではなかった。

本当に気になっている感じ。

ミカコは少し考える。

ミカコ:
香りが少し強いですね。

ヤブタ:
ああ。

ヤブタ:
今日のは長野です。

すぐ返事が返ってくる。

ミカコは少しだけ目を上げた。

ミカコ:
やっぱり。

ヤブタが笑う。

ヤブタ:
やっぱり、ですか。

ミカコ:
いつもより輪郭がはっきりしてる気がして。

ヤブタ:
その表現、面白いですね。

ミカコはふんわり肩をすくめた。

ミカコ:
食べ物を分析するの、職業病みたいなものなんで。

ヤブタ:
いや。

ヤブタ:
分析じゃなくて、ちゃんと味わってる人の食べ方ですよ。

その言葉に、

ミカコは少し意外そうな顔をした。

褒められたのかもしれない。

でも、

お世辞っぽさはなかった。

ただの事実みたいに言われた。

だから妙に残る。

ヤブタはカウンターにもたれながら続けた。

ヤブタ:
蕎麦好きな人って、だいたいわかるんですよ。

ミカコ:
そうなんですか。

ヤブタ:
ええ。

ヤブタ:
写真撮る人もいるし、

ヤブタ:
サッと食べる人もいる。

ヤブタ:
でも、本当に好きな人は最初に少し眺める。

ミカコは思わず笑った。

ミカコ:
また見てたんですね。

ヤブタ:
見ますよ。

ヤブタ:
気になるんで。

その言い方が妙に素直だった。

だから嫌な感じがしない。

むしろ面白い。

気づけば、

蕎麦の話は止まらなくなっていた。

産地。

つゆ。

好きな店。

旅先で食べた蕎麦。

気づけば二人とも、

最初よりずっとよく笑っていた。

信州そば

師匠の店

師匠の店へ行かないかと誘うヤブタ。満更ではないミカコ。

気づけば、ざる蕎麦は食べ終わっていた。

湯呑みに残った蕎麦湯から、まだ湯気が立っている。

店内は相変わらず静かだった。

昼営業と夜営業の間。

時計を見ると三時を回っている。

ミカコ:
営業、大丈夫なんですか。

ヤブタ:
何がです?

ミカコ:
ずっと喋ってましたけど。

ヤブタが笑う。

ヤブタ:
この時間は暇なんで。

ヤブタ:
それに、蕎麦の話できる人あんまりいないんですよ。

それはミカコも同じだった。

友人と食事の話はする。

美味しい店の話もする。

でも蕎麦だけで一時間近く話したことはない。

ミカコ:
まぁ、普通はしませんね。

ヤブタ:
ですよね。

二人とも笑った。

不思議と居心地が悪くない。

会話が途切れても気まずくならない。

ミカコは空になった蕎麦猪口を見ながら尋ねた。

ミカコ:
蕎麦って、どこで修行したんですか。

ヤブタの表情が変わる。

誇らしさと敬意が混ざった顔だった。

ヤブタ:
長野です。

ヤブタ:
師匠の店があって。

ヤブタ:
今でも年に何回か行きます。

その言い方から、

今でも大切な存在なんだと伝わってきた。

ミカコ:
そんなに美味しいんですか。

ヤブタ:
悔しいですけど。

ヤブタ:
まだ敵わないですね。

即答だった。

職人らしい答えだった。

ミカコは少し興味を引かれる。

ヤブタがここまで言う店。

一度食べてみたい。

そんな考えが顔に出ていたのかもしれない。

ヤブタがふっと笑った。

ヤブタ:
今度行きます?

ミカコは顔を上げる。

ミカコ:
長野まで?

ヤブタ:
長野まで。

ミカコ:
蕎麦のために?

ヤブタ:
蕎麦のために。

間髪入れず返ってくる。

その真面目さがおかしくて、

ミカコは声を出して笑った。

ミカコ:
いいですね。

ミカコ:
行きましょう。

返事は思ったより早かった。

ヤブタも少し驚いた顔をしている。

けれど、そのあと嬉しそうに笑った。

蕎麦の約束だった。

たぶん、それだけの。

今はまだ。

たぶん、蕎麦の話をしに行く

店を出るミカコ。店主と交換した連絡先をみて優しい表情。

店を出る頃には、外の日差しが少し傾いていた。

昼と夕方の間。

住宅街は静かだった。

ミカコは店の前で立ち止まる。

手には、さっき交換した連絡先。

蕎麦屋の店主。

それだけだ。

それだけのはずだった。

スマートフォンの画面を見て、

ふと笑う。

ミカコ:
長野か。

自分で言って、自分で少し驚いた。

冷静に考えると妙な話だ。

今日まともに話したばかりの相手。

名前を知ったのも今日。

なのに、長野まで蕎麦を食べに行く約束をしている。

いつもの自分なら、まずやらない。

もっと警戒する。

もっと様子を見る。

少なくとも、その場で返事はしない。

それなのに。

今日は不思議なくらい自然だった。

ヤブタと話している時間が。

蕎麦の話をしている時間が。

心地よかったからかもしれない。

無理に話を合わせる必要がなかった。

気を遣いすぎることもなかった。

ただ好きなものの話をしていただけ。

それだけなのに、

妙に楽しかった。

ミカコはスマートフォンをしまう。

そして、駅へ向かって歩き始めた。

恋だとか。

運命だとか。

そんな大げさな話ではない。

たぶん。

本当にたぶん。

ただ、

また会って話したい人ができた。

今は、それで十分だった。


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