蕎麦打ちのあとの正解は、もりそばだった|リクの誠実めし

昼休みの少し前。

パソコンに向かっていた僕に、声がかかった。

ミカコ
「リク、今週末空いてる?」

リク
「え?あ、はい。特に予定は」

ミカコさんが予定を聞いてくるのは、少し珍しい。

基本的にこの人は、無駄な動きをしない。

必要なことだけ、必要なタイミングで。

ミカコ
「じゃあ、蕎麦打ち体験行かない?」

……蕎麦打ち。

リク
「蕎麦、ですか?」

ミカコ
「そう」

ミカコ
「合理的だから」

出た。

この人の“合理的”は、だいたい断言から始まる。

リク
「体験って、結構手間かかりません?」

ミカコ
「手間じゃない」

ミカコ
「再現性の確認」

なるほど。

……なるほど?

ミカコ
「蕎麦はね」

ミカコ
「シンプルだから、誤魔化しが効かないの」

ミカコ
「だから面白い」

真顔で言う。

少しだけ、楽しそうに見えた。

リク
「ミカコさん、蕎麦好きなんですね」

ミカコ
「好きよ」

ミカコ
「合理的で、美味しくて、体にもいい」

ミカコ
「ランチとしてはほぼ完成形」

そこまで言うか。

でも。

ここまで迷いなく言われると、少し興味が湧く。

リク
「じゃあ、行きます」

ミカコ
「決まりね」

ミカコさんはそれだけ言って、またパソコンに向き直った。

会話は終わり。

余韻もない。

でも。

その短いやり取りの中で、ひとつだけ伝わった。

——たぶんこの人、蕎麦には本気だ。

目次

粉から始まる、静かで丁寧な時間

蕎麦打ち体験をするリクとミカコ。

週末。

駅から少し離れた場所にある、小さな体験工房。

暖簾をくぐると、ほのかに粉の匂いがした。

リク
「思ってたより、本格的ですね」

ミカコ
「体験って名前だけで、中身はちゃんとしてるわよ」

受付を済ませて、案内された作業台に立つ。

目の前には、大きな木の台と、ボウルに入ったそば粉。

シンプルだ。

余計なものがない。

ミカコさんが、粉を軽く触る。

ミカコ
「いい粉ね」

その言い方が、ちょっとだけ職人みたいだった。

リク
「もう分かるんですか?」

ミカコ
「なんとなく」

なんとなく、で済ませるあたりがこの人らしい。

指導の人の説明が始まる。

水を入れて、こねる。

少しずつ、均一になるように。

……これが難しい。

水の量が多いとベタつくし、少ないとまとまらない。

リク
「意外と繊細ですね」

ミカコ
「だからいいのよ」

ミカコ
「誤魔化しが効かないから」

どこかで聞いたようなセリフ。

でも、実際にやってみると、その意味が少し分かる気がした。

粉がまとまって、ひとつの塊になる。

それを今度は伸ばす。

均等に、薄く。

これも難しい。

端が厚くなったり、真ん中が薄くなったり。

でも。

この時間、嫌いじゃない。

無言で、手を動かすだけの時間。

余計なことを考えなくていい。

隣を見ると、ミカコさんは無駄な動きがひとつもなかった。

淡々と、同じリズムで作業している。

迷いがない。

完成形が見えている人の動きだった。

リク
「すごいですね」

ミカコ
「そう?」

ミカコ
「再現性よ」

やっぱりそれなんだ。

最後に、麺を切る。

細く、均等に。

……これが一番難しい。

どうしても太さがバラつく。

リク
「これ、性格出ますね」

ミカコ
「出るわね」

ミカコさんの麺は、綺麗に揃っていた。

僕のは、ところどころ太い。

それでも。

なんだか少しだけ、嬉しかった。

自分で作ったものが、ちゃんと形になっている。

シンプルだけど、ちゃんと“できた”感じがある。

ミカコ
「悪くないわね」

そう言って、僕の麺を見た。

少しだけ、口元が緩んでいた。

満足したリク、ちょっとズレる

体験が終わった。

打ちたての蕎麦は、その場で軽く試食できた。

シンプルなもりそば。

自分で打ったものを、すぐに食べる。

それだけなのに。

なんというか——

ちゃんと美味しかった。

麺の太さは揃ってないし、完璧ではない。

でも。

ちゃんと“蕎麦”だった。

リク
「……いいですね、これ」

ミカコ
「でしょ」

ミカコ
「シンプルなものほど、差が出るのよ」

少しだけ、誇らしそうに見えた。

外に出ると、空気が少し軽い。

体験のあとの、あの感じ。

何かをちゃんとやったあとの、ちょっとした満足感。

僕はそのまま歩きながら、自然に口を開いた。

リク
「ミカコさん」

ミカコ
「なに」

リク
「今日はありがとうございました」

リク
「よかったら、このあとご飯でも——」

言い切る前に、返ってきた。

ミカコ
「いらない」

即答だった。

リク
「え?」

ミカコ
「今食べたでしょ」

リク
「いや、あれは試食で……」

ミカコ
「同じよ」

歩きながら、ミカコさんは続ける。

ミカコ
「今夜のベストは“この蕎麦”なの」

ミカコ
「帰って、すぐに食べる」

ミカコ
「それ以上ないでしょ」

……なるほど。

なるほど、なんだけど。

リク
「でもせっかくですし、外でちゃんとしたお店とか——」

ミカコ
「それ、ノイズ」

強い。

ミカコ
「わざわざ状態の落ちた蕎麦食べる意味ある?」

ぐうの音も出ない。

ミカコ
「蕎麦はね」

ミカコ
「タイミングなの」

ミカコ
「一番いい状態で食べる」

ミカコ
「それが礼儀」

……礼儀か。

なんだか少しだけ、納得してしまう。

リク
「なるほど」

ミカコ
「でしょ」

ミカコ
「だから今日はもう終わり」

そう言って、あっさりと手を振る。

ミカコ
「じゃあね」

そのまま、反対方向に歩いていった。

……。

……なんというか。

正しい。

すごく正しい。

でも。

ちょっとだけ、余韻が残る。

僕はその場に少しだけ立ち止まった。

そして、静かに思う。

……たぶん。

今夜は誠実めしが必要だ。

今夜の誠実めし|もりそばと、少しだけのアレンジ

自分で手打ちした蕎麦を食べるリク。

帰宅。

袋をテーブルに置く。

今日持ち帰った蕎麦は、まだ少しだけ冷たい。

……。

ミカコさんの言葉を思い出す。

「今夜のベストは“今の蕎麦”」

「一番いい状態で食べる」

……なるほど。

でも。

今の僕には、もうひとつ必要なものがある気がした。

キッチンに立つ。

お湯を沸かす。

軽く湯通しして、麺を整える。

冷水で締める。

手のひらに伝わる、ひんやりした感触。

皿に盛る。

余計なことはしない。

もりそば。

シンプルで、いい。

つゆを用意する。

刻みネギを少しだけ。

それだけ。

椅子に座る。

静かな部屋。

誰もいない。

リク
「いただきます」

蕎麦を持ち上げる。

つゆに軽くつけて、すする。

……。

うん。

ちゃんと、美味しい。

今日打った麺。

少しだけ不揃いな太さ。

それが、なんだかちょうどいい。

さっきの時間を思い出す。

粉を触った感触。

無言で手を動かした時間。

ミカコさんの、無駄のない動き。

……。

正しいんだと思う。

あの人の言うことは、たぶん全部。

でも。

僕はもう一度、蕎麦を見た。

そして、少しだけ考える。

……もう一皿。

キッチンに立つ。

卵を取り出す。

割る。

黄身を落とす。

つゆに少し混ぜる。

そこに蕎麦を絡める。

……。

これも、いい。

さっきより少し濃い味。

でも、嫌じゃない。

むしろ。

かなりいい。

僕は箸を止めて、少しだけ考えた。

正しくやること。

一番いい状態で食べること。

それも大事。

でも。

少しだけ自分で崩すのも、悪くない。

もう一口、蕎麦をすする。

静かな夜。

今日のことを、ゆっくり思い出す。

……うん。

たぶん、これでいい。

翌日、編集部での確認作業

翌日、編集部。

パソコンを開いて、いつも通りの作業を始める。

特に変わったことはない。

でも。

ひとつだけ、昨日の続きみたいなものが残っていた。

リク
「ミカコさん」

ミカコ
「なに」

リク
「昨日、ありがとうございました」

ミカコ
「別に」

相変わらず、そっけない。

ミカコ
「で、食べた?」

質問はそこだった。

リク
「はい」

リク
「もりそばで」

ミカコさんは小さく頷く。

ミカコ
「そう」

それだけ。

評価も何もない。

でも。

なんとなく、間があいた。

僕は少しだけ迷ってから、続ける。

リク
「……あと」

ミカコ
「なに」

リク
「少しだけ、アレンジも」

ほんの一瞬だけ、視線が動いた。

ミカコ
「へえ」

それだけ言って、また画面に戻る。

否定も、肯定もない。

でも。

少しだけ、口元が緩んでいた気がした。

……たぶん。

あれでよかったんだと思う。

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