その街の真ん中には、池がある。
大きくもなく、小さくもない。
ただ、昔からそこにある。
水はいつも静かで、 風が吹いても、あまり揺れない。
深さは、誰も知らない。
覗き込むと、 自分の顔が少し遅れて映る。
それが普通だと、 みんな思っている。
この街では、 感情を持ち帰らない。
悲しかった日は、 池に行く。
怒った日は、 池に行く。
どうしようもなくなった日は、 とりあえず池に行く。
そして、 なにかを落として帰る。
それだけで、 だいたい軽くなる。
理由は、 あまり考えなくていい。
昔からそうだから、 そういうものなのだ。
ナツメは、 その池のふちに座っていた。
虹色の毛が、 水面にゆっくり溶けていく。
しばらく見てから、 ぽつりと言う。
「ええなぁ、ここ」
「なんでも置いて帰れるんやろ?」
誰も答えない。
それも、 普通のことだった。
池の使い方
池には、 それぞれ決まった使い方がある。
悲しみは、 静かに沈める。
水面に手を入れて、 そのまま下へ押し込む。
底に届くころには、 だいたい忘れている。
怒りは、 浮かべる。
握ったまま水に触れると、 ぱっと離れて、 表面に広がっていく。
しばらく見ていれば、 どこかへ流れていく。
恋は、 少し扱いが違う。
水面にそっと置くと、 にじむように広がって、 形を失う。
完全に消えるわけではないが、 輪郭がぼやける。
それで十分だと、 みんな思っている。
誰も、 持ち帰ろうとはしない。
持っていると、 重くなるからだ。
置いていけば、 軽くなる。
それだけで、 日常はうまく回る。
ナツメは、 その様子を眺めながら、 しっぽをゆっくり揺らした。
「便利やなぁ」
「分別までしてくれるんか」
水面は、 なにも答えなかった。
軽くなる街
池を使う人が増えるほど、 街は静かになった。
泣いている人を、 あまり見なくなった。
怒鳴る声も減った。
誰かが失恋しても、 次の日には、 わりと普通に歩いている。
別れ話のあとでも、 昼にはパンを買いに行ける。
謝るべきことがあっても、 夜には少し眠れる。
みんな、 軽くなっていた。
軽いほうが、 暮らしやすい。
それは本当だった。
けれど、 何かが少しずつ薄くなっていった。
会話は短くなった。
思い出話は減った。
「あのとき、つらかったよね」
そういう言葉を、 誰も長く持たなくなった。
持たないほうが、 楽だからだ。
恋も、 軽くなった。
好きになって、 迷って、 苦しくなって、 それでも会いたいと思う。
そういう面倒な時間を、 池に置いて帰る人が増えた。
すると、 恋はきれいになる。
きれいで、 軽くて、 少しだけ浅くなる。
ナツメは橋の欄干に寝そべって、 街を見下ろしていた。
「ようできた街やな」
「みんな軽い」
それから、 少しだけ目を細める。
「軽すぎるけどな」
池の底
池の底を、 見たことがある人は少ない。
そもそも、 見ようとする人がいない。
感情は、 沈めれば終わるものだからだ。
それ以上、 確かめる必要はない。
水はいつも濁らない。
どれだけ落としても、 表面はきれいなままだ。
それが、 安心できる理由だった。
ただ、 ひとりだけ、 気にする人がいた。
毎日ではないが、 ときどき池を覗く。
長く、 じっと見ている。
何を探しているのかは、 誰にもわからない。
ある日、 その人は、 少し身を乗り出した。
水面が、 わずかに揺れる。
その瞬間だけ、 底が見えた気がした。
何かが、 溜まっている。
形にはなっていないが、 確かにそこにある。
沈んだはずのものが、 沈みきっていない。
積み重なっている。
そんな感じがした。
その人は、 何も言わずに顔を上げた。
そして、 そのまま帰った。
次の日も、 街は軽かった。
ナツメは、 池のふちで前足を水に入れる。
少しだけかき混ぜて、 すぐにやめた。
「……あんまり触らんほうがええやつやな」
戻ってくる感情
最初に気づいたのは、 誰だったか分からない。
ただ、 少し変なことが起き始めた。
何もないはずの朝に、 急に涙が出る。
理由はない。
思い当たることもない。
それでも、 止まらない。
別の誰かは、 夜中に目を覚まして、 胸を押さえた。
ひどく、 苦しい。
けれど、 何が原因なのか分からない。
知らない景色が、 頭の中に浮かぶ。
見たことのない部屋。
知らない人の声。
自分じゃない誰かが、 何かを失う瞬間。
その感覚だけが、 残る。
街のあちこちで、 似たようなことが起きた。
理由のない悲しみ。
行き場のない怒り。
触れたことのない恋しさ。
それらは、 少しずつ混ざりながら、 戻ってきていた。
池に行く人もいた。
もう一度、 沈めようとして。
けれど、 うまくいかなかった。
手を入れても、 重さが残る。
浮かべても、 離れていかない。
水面は、 いつもと同じなのに。
ナツメは、 少しだけ笑った。
「混ざったなぁ」
水面を見つめて、 小さく言う。
「これ、もう分けられへんで」
池の意味
池は、 変わっていなかった。
水は静かで、 濁りもない。
いつもと同じように、 何かを受け入れているように見える。
けれど、 前と同じではなかった。
誰かが、 言った。
「消えてなかったんじゃないか」
その言葉は、 すぐに流れていった。
確かめる人はいない。
確かめたくないのかもしれない。
それでも、 街のどこかで、 同じことを考える人がいた。
沈めたものは、 どこへ行ったのか。
浮かべたものは、 どこへ流れたのか。
恋は、 どこに残ったのか。
池は、 答えなかった。
ただ、 何かをためている気配だけがあった。
それは、 底のほうで、 静かに重なっている。
消えたわけでも、 なくなったわけでもない。
形を失って、 そこにある。
ナツメは、 水面をのぞき込む。
少しだけ、 自分の影が揺れる。
それから、 顔を上げて言う。
「捨てたんやなくて」
「置いてきただけやろ」
水面の向こう側
それからも、 街は続いた。
人は池に行く。
何かを持って、 何かを置いて帰る。
前と同じように。
けれど、 少しだけ違っていた。
水面に触れると、 ときどき、 見覚えのない感情が混ざる。
沈めたはずのものに、 触れることもある。
それでも、 人は手を離す。
重さを、 そのままにして。
池は、 何も言わない。
ただ、 受け取る。
それが仕事のように。
ナツメは、 いつもの場所に座っていた。
風が吹くと、 水面が少しだけ揺れる。
その奥に、 何かが動いた気がした。
ナツメは、 しばらく見てから、 小さくつぶやく。
「そのうち、あふれるで」
「……まあ、ちょっとずつやろけど」
それだけ言って、 立ち上がる。
しっぽで水をかすめると、 波紋がひとつ広がった。
それがどこまで届くのかは、 誰も知らない。

