夫婦としての時間が、いつから少なくなっていったのか。
はっきり覚えている人は、意外と多くありません。
子どもが生まれて。
毎日が忙しくなって。
気づけば、「お父さん」と「お母さん」として過ごす時間の方が長くなっていく。
今回、マリの相談室に来てくれたのは、40代のご夫婦でした。
結婚17年目。
中学生の娘さんがひとり。
家族仲は悪くありません。
会話もある。
一緒に食事もする。
けれど、夫婦としての“夜の時間”は、もう何年も止まったままでした。
「嫌いになったわけじゃないんです」
そう話したのは、奥さんの方でした。
「でも……もう、どうやって夫婦に戻ればいいのか分からなくて」
セックスレスという言葉は、どうしても「性」の問題として扱われがちです。
けれど実際には、そこにはもっと静かで、複雑な感情が重なっています。
安心。
疲労。
照れ。
老い。
諦め。
そして、“家族”になったあとの距離感。
今日は、そんなご夫婦のお話を、ゆっくり聞いていこうと思います。

「家族」にはなれた。でも、「夫婦」に戻れなくなった

カフェの奥の席。
向かい合って座るご夫婦は、とても穏やかに見えた。
言い争っているわけでもない。
空気が険悪なわけでもない。
むしろ、長年連れ添った人同士の静かな落ち着きがあった。
マリ:今日は、おふたりで来てくださったんですね
妻:はい……こういう話、ひとりでは整理できなくて
夫:僕も、ちゃんと話した方がいいかなと思って
夫は少し照れくさそうに笑う。
マリ:ありがとうございます。無理に結論を出さなくても大丈夫なので、今の気持ちを少しずつ聞かせてください
少し間が空いたあと、妻がゆっくり口を開いた。
妻:……もう、何年もしてないんです
妻:最後がいつだったか、正確には覚えてないくらいで
妻:でも、喧嘩してるわけじゃないんです
妻:仲は悪くないし、家族としては普通だと思います
妻:ただ……夫婦としては止まってる感じがして
夫は黙ったまま、その言葉を聞いていた。
マリ:自然と減っていった感じなんでしょうか
夫:……そうですね
夫:子どもが小さい頃は、毎日バタバタで
夫:夜泣きもありましたし、仕事も忙しくて
夫:「今は仕方ないよね」って感じだったんです
夫:でも、そのまま戻らなかったというか……
妻:気づいたら、「お父さん」「お母さん」になってたんですよね
妻:娘のこととか、学校のこととか、家計のこととか
妻:そういう話はするんです
妻:でも、“夫婦”としての話をする時間が、なくなっていって
マリ:なるほど……
妻:最初は寂しかったんです
妻:「最近ないね」って軽く言ったこともありました
妻:でも、夫も疲れてましたし、無理に言うのも違う気がして
妻:そのうち、自分からも言わなくなりました
マリ:そうだったんですね
夫:……正直、僕もどうしたらいいか分からなくなってました
夫:嫌いになったわけじゃないんです
夫:むしろ大事な存在なんですけど
夫:今さら急に“恋人”みたいになれなくて
妻:……分かるんです
妻:だから余計につらいんですよね
妻:拒絶されたわけじゃない。でも、求められてもいない
妻:なんというか……女性として終わった気がする時があって
その言葉に、夫は少し苦しそうな表情を浮かべた。
夫:そんなふうに思わせてたんだなって……今、思いました
夫:でも僕も、応えなきゃって考えると、逆にプレッシャーになってしまって
夫:年齢のこともありますし、仕事で疲れてる日も多いですし
夫:「ちゃんとできなかったらどうしよう」って、どこかで思ってた気がします
夫婦の間に、静かな沈黙が落ちる。
そこには怒りよりも、長い時間の中で言えなくなってしまった気持ちが滲んでいた。
セックスレスは、「性」の問題だけではない

マリは、おふたりの言葉をゆっくり受け止めるように頷いた。
マリ:今のお話を聞いていて感じるのは……おふたりとも、相手を嫌いになったわけではないんですよね
マリ:むしろ、ちゃんと大切に思っている
夫:……はい
妻:そうだと思います
マリ:だからこそ、難しいんですよね
マリ:セックスレスって、「性欲があるかないか」だけの問題として見られやすいんですけど
マリ:実際には、もっと色々な感情が重なっていることが多いんです
マリ:安心、疲労、老い、照れ、自己肯定感——そういうもの全部が関係してくる
夫婦は静かに耳を傾けている。
マリ:特に、お子さんがいるご夫婦は、「夫婦」より先に「親」になる時間が長いんですよね
マリ:子ども中心の生活が続く中で、お互いを“異性”として見る時間が、少しずつ減っていく
マリ:それ自体は、とても自然な流れなんです
妻:……たしかに、ずっと親でした
妻:娘のことで毎日いっぱいでしたし、「夫婦の時間を作ろう」なんて考える余裕もなくて
夫:僕も、仕事と家庭を回すことで精一杯だったと思います
マリ:そうですよね
マリ:だから今回のことは、「愛情がなくなった」というよりも、“夫婦としての時間”だけが止まった状態に近いのかもしれません
少し静かな時間が流れる。
妻:……でも、やっぱり寂しかったんです
妻:求められなくなると、「女性として見られてないのかな」って思ってしまって
妻:年齢のこともありますし、体型も変わりましたし
妻:「もうそういう対象じゃないのかな」って、時々考えてしまってました
夫はゆっくり息を吐いた。
夫:……僕は逆でした
夫:応えなきゃいけない、ちゃんとしなきゃって考えるほど、逆に怖くなってしまって
夫:疲れてる日も多かったですし、年齢的な変化も感じてましたし
夫:だから、「その空気になる前に避けてしまう」みたいなことも、正直ありました
マリ:なるほど……
マリ:奥さんは、「求められないことで傷ついていた」
マリ:ご主人は、「応えられないかもしれない不安」を抱えていた
マリ:つまり、おふたりとも苦しかったんですよね
マリ:ただ、その苦しさを話題にすると、相手を傷つけそうで言えなかった
マリ:だから、“触れないこと”より、“触れない理由を話せなくなったこと”の方が大きくなっていったのかもしれません
妻は小さく目を伏せた。
妻:……たしかに、ずっと避けてました
妻:話したら気まずくなりそうで
夫:僕もです
夫:今さらどう話せばいいのか、分からなくなってました
では、どう向き合えばいいのか

マリは少し間を置き、やわらかく言葉を続けた。
マリ:まず、お伝えしたいのは……「セックスレス=夫婦失格」ではないということです
マリ:長く一緒にいるご夫婦ほど、こういう悩みは珍しくありません
マリ:特に、お子さん中心の生活を何年も続けてきたご夫婦は、“夫婦に戻るタイミング”を失いやすいんです
夫婦は静かに頷く。
マリ:だからまず、「自分たちはおかしいんだ」と責めすぎなくていいと思います
妻:……そう言ってもらえると、少し安心します
夫:僕も、どこかで「ちゃんとできない自分が悪い」って思ってたので
マリ:そうですよね
マリ:でも実際には、おふたりとも「相手を傷つけたくない」が先に来ていた気がするんです
マリ:奥さんは、拒絶されるのが怖かった
マリ:ご主人は、期待に応えられないかもしれないのが怖かった
マリ:つまり、“拒絶”ではなく、“不安”で止まっていたんですよね
夫は少し驚いたような表情を浮かべた。
夫:……たしかに、そうかもしれません
夫:避けていたつもりはなかったんですけど、結果的に避けてたんだと思います
妻:私も、「どうせまたタイミング合わないだろうな」って、最初から諦めるようになってました
マリ:そうやって、“触れない前提”が続くと、今度は空気そのものが止まってしまうんです
マリ:だから大事なのは、「急に元に戻そう」としないことかもしれません
マリ:何年も空いていた関係を、突然恋人みたいに戻すのは、やっぱり難しいですからね
妻:……はい
マリ:ただ、「夫婦としての会話」を少し増やしていくことはできると思います
マリ:子どもの話や生活の話ではなくて、最近疲れてることとか、昔の話とか、小さいことでいいんです
マリ:“父母”ではなく、“ふたり”として話す時間を、少しずつ戻していく
マリ:そうすると、止まっていた空気が少し動き出すこともあります
妻は静かに夫の方を見る。
妻:……なんだか、「戻らなきゃ」って思いすぎてたのかもしれません
夫:僕もです
夫:ちゃんとしなきゃって考えるほど、逆に動けなくなってました
マリ:そうですよね
マリ:だからまずは、「触れる」「触れない」だけで関係を判断しないこと
マリ:そして、お互いが何を怖がっていたのかを、少しずつ知っていくことが大事なのかもしれませんね
余韻
夫婦は、時間をかけて「家族」になっていきます。
子どもを育てて。
生活を回して。
仕事や家事に追われながら、毎日を一緒に越えていく。
その積み重ねは、とても大切なものです。
でもその途中で、「夫婦」である時間だけが、少しずつ後ろに下がってしまうことがあります。
セックスレスという言葉は、ときどき「愛情がない関係」のように語られます。
けれど実際には、嫌いになったわけではなく、
むしろ大切だからこそ、傷つけるのが怖くなって、何も言えなくなってしまう夫婦も少なくありません。
触れない。
誘えない。
話題にできない。
その静かな距離は、ある日突然できるものではなく、
長い時間の中で、少しずつ積み重なっていくものなのかもしれません。
ただ——
本当に夫婦を遠ざけるのは、「触れないこと」そのものではなく、触れない理由を、お互いに話せなくなること。
もし今、ふたりの間に止まった空気があるなら。
無理に昔へ戻ろうとしなくてもいいのだと思います。
恋人の頃と同じ形には戻れなくても、
今のふたりに合う“夫婦の近さ”を、もう一度探していくことはできるかもしれません。
長い時間をかけて、ふたりはちゃんと「家族」になった。
だからこそこれからは、“お父さん”と“お母さん”の奥にいる、「夫」と「妻」を、少しずつ思い出していく時間が必要なのかもしれません。
※「マリの相談室」は、実際によくある悩みや感情をもとに構成した、こいこと。編集部による創作相談企画です。



