好きな人の部屋は、少しだけ時計が遅れる

好きな人の部屋にいると、時間が少しだけ遅くなる。

そう思ったことがある。

時計の針が止まるわけではない。
スマホの時刻が狂うわけでもない。
ただ、帰らなければいけない時間だけが、遠くなる。

玄関に置いた靴の向き。
テーブルの上に残ったグラスの水滴。
カーテンのすき間から入ってくる、夕方みたいな光。

そういうものを見ていると、なぜか思う。

この部屋だけ、ほかの場所よりも少し遅れている。

あの人は、何も気づいていなかった。

わたしだけが、何度も時計を見た。
でも、その部屋には時計がなかった。

目次

窓の外の小学生

その部屋には、冷蔵庫の音がなかった。

一人暮らしの部屋って、もっと生活の音がするものだと思っていた。
モーターの振動とか、隣の部屋のテレビとか、遠くの救急車とか。

でも、そこは静かだった。

静かというより、音が少し遠かった。

あの人がコーヒーを淹れてくれている間、わたしは窓の外を見ていた。

マンションの下に、小学生が立っていた。

赤いランドセルだったと思う。
雨が降っていた気がする。
でも、ガラスは乾いていた。

その子は、ずっと同じ場所にいた。

待ち合わせかな、と最初は思った。

でも、帰る頃になっても、その子はまだいた。

だから少し気になって、
「下にいる子、ずっといるね」って言った。

すると、あの人は少しだけ困った顔をした。

そして、カーテンを閉めた。

「見ない方がいいよ」

その言い方だけ、なぜかよく覚えている。

冷めないコーヒー

コーヒーは、なかなか冷めなかった。

湯気がずっと細く揺れていて、
わたしは何回もカップを持ち直した。

猫舌だから助かったけど、少し変だった。

話している内容は、もう思い出せない。

たぶん好きな映画とか、仕事のこととか、
そういう普通の話だったと思う。

でも、あの部屋では、普通の話ほど輪郭が薄くなった。

言葉が全部、カーテンに吸い込まれていく感じがした。

あの人は、何度かベランダの方を見ていた。

閉まっているカーテンを。

だからわたしも、少し気になった。

「まだいるのかな」って聞くと、
あの人は返事をしなかった。

その代わり、テレビをつけた。

砂嵐だった。

でも、音だけは夕方のニュースだった。

駅前の事故の話をしていた気がする。
傘を持った人たちが映っていた。

わたしは、なんとなくスマホを見た。

通知が三件来ていた。

全部、母からだった。

「まだ帰ってこないの?」

時刻は、朝の4時だった。

帰る方法

わたしは急に怖くなった。

怖かった、というより、
「ここに長くいると帰れなくなる」って思った。

なぜそう思ったのかは分からない。

でも、その考えだけは、誰かに入れられたみたいに自然だった。

だから、バッグを探した。

床に置いたはずだった。
でも見つからなかった。

あの人は、少し困った顔で笑った。

「帰るの?」

その言い方が、少しだけ変だった。

引き止める感じではなく、
確認みたいだった。

わたしは頷いた。

すると、あの人は安心したみたいに目を閉じた。

そして、小さな声で言った。

「まだ帰れるんだ」

その瞬間、ベランダの方で音がした。

ランドセルを引きずる音だった。

わたしは反射的にカーテンを見た。

でも、閉まったままだった。

なのに、雨の匂いだけが部屋に入ってきた。

わたしは急いで玄関へ向かった。

靴は、ちゃんと二足あった。

でも、知らない白い靴が、その隣に並んでいた。

外は朝だった

ドアを開けると、外は朝だった。

眩しいくらい白い光が廊下に落ちていて、
わたしは少し安心した。

普通のマンションの匂いがしたから。

洗剤みたいな匂い。
誰かの朝ごはんの匂い。
遠くで掃除機の音。

ちゃんと現実に戻ってきた気がした。

だから、振り返らなかった。

振り返ったら駄目だと思った。

エレベーターを待っている間、
スマホを見た。

通知は消えていた。

母からのメッセージも、時刻も、全部。

画面には、知らないアプリだけが残っていた。

「帰宅記録」

開いたことのないアプリだった。

でも、その画面には数字が並んでいた。

38

41

52

67

全部、「帰宅失敗」と書かれていた。

わたしは、そこで初めて振り返った。

ドアの前に、あの小学生が立っていた。

赤いランドセルを背負ったまま、
わたしの部屋番号を見ていた。

でも、その階は七階だった。

あの子がいた場所は、地上だったはずなのに。

エレベーターは、なかなか来なかった。

好きな人の部屋は、少しだけ時計が遅れる

エレベーターが来た時、わたしは少し泣きそうになった。

普通の音がしたから。

モーター音。
開くボタン。
蛍光灯の白い光。

ちゃんと現実のものだった。

乗り込む直前、もう一度だけ後ろを見た。

廊下には誰もいなかった。

赤いランドセルも、白い靴も、雨の匂いも消えていた。

あの人の部屋だけが、静かに閉まっていた。

だから、全部疲れていただけなんだと思うことにした。

恋をすると、人は少し変になる。

時間の感覚がおかしくなったり、
相手の言葉を深読みしたり、
帰りたくなくなったり。

そういう話なんだと思った。

でも、家に帰ってから、少しだけ変なことがあった。

玄関に、知らない白い靴が置いてあった。

子ども用だった。

濡れていた。

母は、「そんな靴うちにないよ」って言った。

だから、わたしが間違えたんだと思う。

好きな人の部屋は、少しだけ時計が遅れる。

たぶん、帰るタイミングを失くしてしまうからだ。

わたしは帰れました。

帰れなかった人も、いるみたいです。

―― ヤイバ

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