休日の午後。
ミユは友達のユイと、駅近くのカフェに来ていた。
ユイ:あ、来た来た。
ミユ:ん?
ユイが入口に向かって手を振る。やってきたのは、一人の男性だった。
ユイ:紹介するね。彼氏のタクミ。
タクミ:初めまして。
ミユ:あ! 例の彼氏さん!
ユイ:例のって何(笑)
ミユ:だって前から話聞いてたもん。初めまして、ミユです!
タクミも笑って頭を下げた。
三人で席につく。最初こそ少しだけぎこちなかったけれど、話してみればタクミは気さくな人だった。
ミユ:へぇ、料理するんだ。
タクミ:たまにね。一人暮らし長かったから。
ミユ:すごっ。何作るの?
タクミ:そんな大したものじゃないよ。パスタとか。
ミユ:十分じゃん! あたしなんて疲れてると納豆ご飯で終わるよ(笑)
ユイ:ミユ、それ料理じゃない(笑)
ミユ:洗い物少ないから優秀なんだって!
三人で笑う。
ユイが席を外している間も、特に空気が変わることはなかった。
ミユ:そういえばユイちゃん、タクミくんとこの前映画行ったって言ってた。
タクミ:ああ、行った行った。
ミユ:いいなー。あれ、あたしも観たかったやつ。
タクミ:面白かったよ。
ミユ:やっぱり? 今度観よ。
そんな話をした。
ミユにとっては、本当にそれだけだった。
友達の彼氏だから、感じよく話す。話題を振られたら答える。知らないことがあれば聞く。面白ければ笑う。
いつものミユだった。
帰り道。
ミユ:タクミくん、いい人だね。
ユイ:でしょ?
ミユ:うん。ユイちゃんと合ってると思う。
ユイ:ありがと。
ミユは、その日のことを特に気にも留めなかった。
友達と会って。
その彼氏を紹介されて。
三人でお茶をした。
ただ、それだけの休日。
――だと思っていた。
数日後。
ユイから、一通のメッセージが届くまでは。
「人の彼氏に、思わせぶりな態度取らないで」

数日後。
仕事を終えて帰宅したミユは、ソファに座りながらスマホを眺めていた。
その時、ユイからメッセージが届いた。
ユイ:この前はありがとね。
ミユ:こちらこそ! 楽しかったー!
すぐに返信する。
ところが。
しばらく経っても、既読がついたまま返事が来ない。
ミユ:……ん?
数分後。
もう一度、スマホが鳴った。
ユイ:あのさ。
ユイ:ちょっと言いにくいんだけど。
その二行を見ただけで、ミユの背筋が少し伸びた。
ミユ:な、なに……?
ユイ:この前、タクミと話してた時。
ユイ:ちょっと距離近くなかった?
ミユ:……え?
続けてメッセージが届く。
ユイ:すごい笑ってたし、タクミのこと色々聞いてたし。
ユイ:私が席外した時も、二人ですごく楽しそうに話してたじゃん。
ミユは画面を見つめたまま固まった。
ユイ:私が気にしすぎなのかもしれないけど。
ユイ:人の彼氏に、思わせぶりな態度取らないでほしい。
ミユ:…………。
もう一度読む。
やっぱり同じことが書いてある。
ミユ:えええええ!?
思わず声が出た。
ミユ:思わせぶり!?
ミユ:あたしが!?
まったく身に覚えがない。
慌てて返信する。
ミユ:ごめん! そんなつもり全然なかったよ!
ミユ:普通に話してただけなんだけど……。
しばらくして。
ユイ:うん。ミユがそういうつもりじゃないのは分かってる。
ユイ:でも、私はちょっと嫌だった。
ユイ:ごめんね。
そこでやり取りは終わった。
ミユ:……。
怒られたわけではない。
ユイだって、自分が気にしすぎなのかもしれないと言っている。
だからこそ。
ミユは簡単に「知らないよ」とも思えなかった。
ミユ:あたし……何した?
ここから。
ミユの一人反省会が始まった。
ミユ:笑ったのがダメ?
ミユ:でも面白かったら笑うよね?
ミユ:料理のこと聞いたから?
ミユ:いや、それ普通の会話じゃん。
ミユ:映画の話?
ミユ:「あたしも観たかった」って言ったから!?
あの日の会話が、頭の中で次々と再生されていく。
考えれば考えるほど分からない。
ミユ:じゃあ……。
ミユ:友達の彼氏とは、どう喋るのが正解なの?
その夜。
ミユの脳内反省会は、なかなか閉会しなかった。
意識し始めたら、普通が分からなくなった

翌日。
編集部に出勤したミユは、まだ昨日のことを引きずっていた。
ミユ:思わせぶり……。
ミユ:思わせぶりってなんだ……。
パソコンに向かいながら、小さくつぶやく。
そこへ。
リク:ミユさん。
ミユ:はいっ!
思わず背筋が伸びた。
リク:昨日の原稿なんですけど、ここだけ確認してもらっていいですか?
ミユ:…………。
リクを見る。
そして。
なぜか椅子ごと少し後ろへ下がった。
ミユ:そこに置いてください。
リク:え?
ミユ:確認しますので。
リク:……はい。
リクが原稿を机に置く。
ミユ:ありがとうございます。
リク:ミユさん。
ミユ:はい。
リク:今日、なんでそんなに距離あるんですか?
ミユ:適切な距離です。
リク:昨日まで適切じゃなかったんですか?
ミユ:分かんないの!
リク:ええ……。
リクは困惑しながら自分の席へ戻っていった。
その十分後。
今度はケンジがやってきた。
ケンジ:ミユ、これ誰のか知らない?
手には、持ち主不明の充電ケーブル。
ミユ:知らないです。
ケンジ:そっか。
ミユ:…………。
ケンジ:…………。
ミユ:以上です。
ケンジ:なんだよ今日(笑)
ケンジまで去っていく。
ミユは机に突っ伏した。
ミユ:無理だぁ……。
昨日から意識しすぎて。
男性と話すたびに、自分の表情や声や距離が気になる。
笑ったら思わせぶり?
楽しそうに話したら思わせぶり?
質問したら思わせぶり?
相手の目を見て話したら、それも?
ミユ:もう分かんない。
ミユ:いっそのこと……。
ガバッと顔を上げる。
ミユ:彼女いる男の人とは、必要最低限しか喋らない!
近くにいたリクが振り返った。
リク:急にどうしたんですか。
ミユ:安全策!
リク:何のですか。
ミユ:人間関係の!
リク:たぶん安全じゃないと思いますけど……。
ミユ:だよねぇ……。
言った本人も、もう分かっていた。
それでは何かがおかしい。
でも。
じゃあ、どこまでなら普通なのか。
その答えも分からない。
仕事を終えたミユは、編集部を出た。
少し歩いて。
いつもの帰り道とは違う方向へ曲がる。
ミユ:こういうときは……。
ミユ:ワニオだな。
途中のパン屋に寄る。
自分の分を一つ。
そして。
当たり前のように、もう一つ。
紙袋にパンを二つ入れてもらって。
ミユは、いつもの公園へ向かった。
「そんなつもりじゃない」と「嫌だった」は、両方ほんとう

いつもの公園。
池のほとりのベンチには、今日もワニオがいた。
ミユ:ワニオー!
ワニオ:こんにちは。
ミユはワニオの隣に座ると、紙袋からパンを取り出した。
ミユ:はい。ワニオの分。
ワニオ:ありがとうございます。
ワニオはいつものように受け取る。
ミユも自分のパンを取り出した。
一口食べる。
そして。
ミユ:あたし、人の彼氏に思わせぶりな態度取ったらしい。
ワニオ:そうでしたか。
ミユ:もうちょっと驚いてよ!
ワニオ:驚いています。
ミユ:顔がいつもと一緒なんだよ(笑)
ミユは、ユイから言われたことを全部話した。
よく笑っていたこと。
タクミにいろいろ質問したこと。
ユイが席を外している間も普通に話していたこと。
そして。
自分には、まったくそんなつもりがなかったこと。
ミユ:ほんとに普通に喋ってただけなんだよ。
ミユ:ユイちゃんの彼氏だよ?
ミユ:あたしがどうこうなりたいとか、そんなのゼロだからね。
ワニオ:なるほど。
ミユ:なのに「思わせぶり」って言われたらさ。
ミユ:もう何が普通なのか分かんなくなって。
ミユ:今日なんてリクくんと喋るとき、椅子ごと離れちゃった。
ワニオ:リクさんは何かしたのですか。
ミユ:何もしてない。
ワニオ:とばっちりですね。
ミユ:それは本当にそう(笑)
ワニオはパンを一口食べる。
ワニオ:ミユさんは。
ワニオ:スーパーの試食くらい、普通に接したつもりだったのですね。
ミユ:……ん?
ワニオ:特別な意味はなく。
ワニオ:勧められたので、普通に受け取っただけです。
ミユ:人の彼氏を試食に例えるのやめて!?
ワニオ:彼氏は試食ではありません。
ミユ:分かってるよ!(笑)
思わず笑ってしまった。
さっきまで頭の中でぐるぐるしていたものが、少しだけ軽くなる。
ミユ:でもさ。
ミユ:あたしが普通にしてただけなら。
ミユ:やっぱり気にしすぎなのかな、ユイちゃんが。
ワニオはすぐには答えなかった。
池を泳ぐカモを少し眺めてから。
ワニオ:それも。
ワニオ:少し違うような気がします。
ミユ:え?
ワニオ:ミユさんに、思わせぶりなつもりはなかった。
ワニオ:これは本当なのでしょう。
ワニオ:ですが。
ワニオ:ユイさんが、それを見て嫌な気持ちになった。
ワニオ:それも、本当なのだと思います。
ミユは黙った。
ミユ:……両方ほんとう?
ワニオ:はい。
ワニオ:「そんなつもりじゃない」と「私は嫌だった」は、ケンカしなくても同じ場所にいられます。
ミユ:……。
ワニオ:どちらかを嘘にしなくてもいいのではありませんか。
ミユは手に持ったパンを見つめた。
ミユ:そっか。
ミユ:あたしが悪かったか、ユイちゃんが気にしすぎか。
ミユ:どっちか決めなきゃって思ってた。
ワニオ:人の気持ちは。
ワニオ:勝ち負けを決める大会ではありませんので。
ミユ:急に大会にするな(笑)
ミユはもう一口、パンを食べた。
ミユ:でもさ、ワニオ。
ミユ:だったらあたし、これからどうすればいいの?
ミユ:誰かの彼氏と喋るたびに、笑いすぎないようにして、質問しすぎないようにして、距離まで測って……。
ミユ:そんなの疲れちゃうよ。
ワニオは静かにうなずいた。
ミユ:あたしの普通って。
ミユ:変えた方がいいのかな。
変えるのは、自分全部じゃなくていい

ワニオは少し考えてから、ミユを見た。
ワニオ:ミユさんは。
ワニオ:ユイさんに言われるまで、自分の話し方で誰かを困らせようと思っていましたか。
ミユ:思ってないよ。
ワニオ:タクミさんに好かれようとしていましたか。
ミユ:してない!
ワニオ:では。
ワニオ:ミユさん全部を作り直す必要はないと思います。
ミユ:……全部?
ワニオ:よく笑うことも。
ワニオ:人の話に興味を持つことも。
ワニオ:楽しく話そうとすることも。
ワニオ:それだけで悪いことにはならないと思います。
ミユは少しホッとした顔をした。
ミユ:じゃあ、今まで通りでいいの?
ワニオ:それも少し違います。
ミユ:どっちなの!?
ワニオ:全部変える必要はありません。
ワニオ:ですが。
ワニオ:今回知ったことを、全部忘れる必要もありません。
ミユ:あ……。
ワニオ:ユイさんは、恋人と友達が親しそうにしていると少し不安になる人なのかもしれません。
ワニオ:それを知ったのなら。
ワニオ:次に三人で会うとき、ほんの少しユイさんの気持ちを意識する。
ワニオ:それくらいでいいのではありませんか。
ミユ:ほんの少し?
ワニオ:はい。
ワニオ:三人でいるのなら、三人で楽しく話す。
ワニオ:ユイさんを置いていかない。
ワニオ:必要以上にタクミさんとの距離を縮めない。
ワニオ:ですが、タクミさんだけを避ける必要もありません。
ミユ:……それならできそう。
ミユは少し考えた。
ミユ:でもさ。
ミユ:誰にどう思われるか全部考えてたら、普通に喋れなくならない?
ワニオ:なりますね。
ミユ:即答(笑)
ワニオ:誰からも誤解されないように生きるのは。
ワニオ:たぶん、とても忙しいです。
ミユ:忙しいって表現なんだ(笑)
ワニオ:朝から晩まで。
ワニオ:「これは大丈夫でしょうか」「あれはどう見えるでしょうか」と確認し続けなければなりません。
ミユ:うわぁ……。
ミユ:絶対やだ。
ワニオ:ですから。
ワニオ:誤解されない人になるために、ミユさんではなくなる必要はありません。
ミユは少し黙った。
池の水面を風が揺らしている。
ワニオ:ただ。
ワニオ:大切な人から「私は嫌だった」と言われたとき。
ワニオ:「そんなつもりじゃないから知らない」と終わらせない。
ワニオ:それで十分なのではありませんか。
ミユ:そっか。
ミユ:自分を全部変えるんじゃなくて。
ミユ:相手のことを一個知ったって考えればいいのか。
ワニオ:はい。
ミユ:じゃあ。
ミユ:彼女いる男の人とは必要最低限しか喋らないルール、廃止します。
ワニオ:良かったです。
ワニオ:人口のおよそ半分との国交が回復します。
ミユ:国交断絶してたの、あたし!?(笑)
ミユは笑った。
いつもの笑い方だった。
さっきまでなら、こんなふうに笑うことさえ「大丈夫かな」と考えていたかもしれない。
でも。
今は少しだけ分かった。
自分らしくいることと、相手を気遣うこと。
どちらかを捨てなくてもいいのかもしれない。
「そんなつもりじゃなかった」だけで終わらせない

数日後。
仕事帰りのミユは、ユイと二人で会っていた。
駅近くのカフェ。
あの日、タクミを紹介された店とは別の場所を選んだ。
ユイ:ごめんね。急に呼び出して。
ミユ:ううん。
注文したアイスティーをストローで少しかき混ぜる。
今日は最初から、話すことを決めてきた。
ミユ:あのさ。この前のことなんだけど。
ユイ:……うん。
ミユ:あたし、本当にタクミくんにそういうつもりなかった。
ミユ:ユイちゃんの彼氏だから、普通に仲良く話そうって思ってただけ。
ユイ:うん。
ミユ:でも。
ミユは少しだけ言葉を選んだ。
ミユ:ユイちゃんが嫌だったって言ってるのに、「そんなつもりなかったから」で終わらせるのも違うかなって。
ミユ:嫌な気持ちにさせたなら、ごめんね。
ユイは少し驚いたような顔をした。
それから、アイスティーのグラスに視線を落とした。
ユイ:……私もごめん。
ミユ:え?
ユイ:あのメッセージ送ったあと、ちょっと言い方きつかったかなって思ってた。
ユイ:ミユがタクミ狙ってるとか、本気で思ってたわけじゃないんだ。
ミユ:そうなの?
ユイ:うん。
ユイ:ただ……楽しそうに二人で話してるの見たら、なんかモヤッとしちゃって。
ユイ:自分でも面倒くさいなって思うんだけど。
ミユ:面倒くさくはないよ。
ユイ:いや、ちょっとは面倒くさいでしょ(笑)
ミユ:ちょっとだけね(笑)
ユイ:おい。
二人で笑った。
その笑いで、少しだけ空気が戻った。
ユイ:ミユってさ。
ユイ:昔から誰とでもすぐ喋れるじゃん。
ミユ:そうかな。
ユイ:そうだよ。初対面でも普通に笑うし、相手の話にもめっちゃ反応するし。
ミユ:……それ、また思わせぶりって話?
ユイ:違う違う(笑)
ユイ:そういうところ、ミユのいいところだと思ってる。
ユイ:だから私も、あれ全部やめてほしいわけじゃない。
ミユ:……そっか。
少しだけ嬉しかった。
あの日から。
自分の人懐っこさそのものが、誰かを傷つけるものなんじゃないか。
そんなふうに考えていたから。
ミユ:じゃあ次から。
ミユ:タクミくんにだけ真顔で喋るのは?
ユイ:それ絶対やめて(笑)
ミユ:ダメなの!?
ユイ:私が変なこと言ったみたいになるじゃん!
ミユ:じゃあどうすりゃいいのよ!(笑)
二人はまた笑った。
きっと。
これからも、全部の感覚が同じになるわけではない。
ミユが「普通」だと思う距離と、ユイが「ちょっと近い」と感じる距離。
そこには、少しくらい違いがあるのだろう。
でも。
違いがあることと、友達でいられないことは別だった。
カフェを出て、二人で駅へ向かう。
その途中。
タクミ:あれ? ユイ?
ミユ:……!
向こうから、仕事帰りらしいタクミが歩いてきた。
一瞬。
ミユの頭の中に、あの謎ルールがよみがえる。
――彼女のいる男性とは、必要最低限しか喋らない。
でも。
すぐに消した。
ミユ:タクミくん、こんばんは!
タクミ:こんばんは。この前ぶり。
ミユ:仕事帰り? お疲れさまー。
普通に笑う。
普通に話す。
そして、隣のユイを見る。
ユイも普通に笑っていた。
ミユ:……。
それでいいのだと思った。
誰からも誤解されない人には、なれないかもしれない。
でも。
誤解されたときに、相手の話を聞ける人にはなれる。
そして。
誰かに何かを言われるたびに、自分のいいところまで全部捨てなくてもいい。
翌日。
いつもの公園。
ミユ:ワニオー!
ワニオ:こんにちは。
ミユ:昨日ね、タクミくんと普通に喋れたよ!
ワニオ:それは良かったです。
ミユ:もう彼女いる男の人でも普通に喋る!
ワニオ:人口のおよそ半分との国交が、正式に回復しましたね。
ミユ:まだその設定続いてたの!?(笑)
ミユは笑いながら、紙袋を開けた。
ミユ:はい。今日もパンあるよ。
ワニオ:ありがとうございます。
池では、カモがいつも通り泳いでいる。
ミユも。
いつものミユに戻っていた。
ほんの少しだけ。
誰かの「普通」も想像できるようになって。



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