【ミサキ様が通る!】マリさんの10年前をたどってみた

マリの過去を探り昔の記事を見つけるミサキとユウカ。後ろには仕事をするマリ。
目次

ユウカ、調べちゃった

マリの昔に興味津々。マリが書いた10年前の記事を見るみさきとユウカ。

「ミサキ。」

「何?」

「ちょっと調べちゃった。」

編集部。

パソコンに向かっていたわたしの横から、ユウカが顔を出した。

嫌な予感がする。

この女が「調べちゃった」と言う時は、だいたい頼んでもいないことを調べている。

「何を?」

「マリさん。」

……。

わたしはキーボードから手を離した。

「見せて。」

「食いつくの早っ。」

仕方ないじゃない。

この前の会員制BAR。

小説家や編集者、アーティストが集まる場所で、わたしとユウカは珍しく完全に空気に飲まれた。

そこへ遅れてやってきたマリさん。

本人はいつも通り。

なのに、映画化作品まである有名小説家が向こうから挨拶に来た。

店のマスターまで、わざわざ席までやってきた。

そして、なぜかケンジさんの名前まで出てきた。

そのたびに事情を聞いたけれど。

「昔ちょっとね」

「知り合いだったの」

「色々あったのよ」

以上。

あれだけ何かありそうだったのに、わたしたちが持ち帰った情報はほぼゼロだった。

「で、何を調べたの?」

「別に大したことじゃないよ。マリさんが昔書いてた記事。」

「ああ。」

なるほど。

それくらいなら、わたしもちょっと気になる。

……ちょっとよ。

別に人の過去を暴いてやろうとか、そんな悪趣味なことを考えているわけではない。

ただ。

あれを見せられて、何も気にするなという方が無理じゃない?

ユウカが自分のノートパソコンをこちらへ向けた。

「これ。」

画面には、今はもう更新されていない古いWebメディアの記事が表示されている。

公開日は、およそ十年前。

その下。

ライター名。

マリ。

「本当にマリさん?」

「プロフィールも見つけた。同じ人。」

「へえ。」

記事を読む。

今の文章とは少し違う。

でも。

なんとなく分かる。

言葉の選び方。

人を見る時の距離感。

必要以上に決めつけないところ。

確かにマリさんだ。

「これだけじゃないよ。」

ユウカが別のタブを開く。

人物インタビュー。

次はカルチャー系の記事。

さらに別の媒体にも名前がある。

「結構書いてるじゃない。」

「でしょ?」

「じゃあ普通に昔からライターだったのね。」

ちょっと拍子抜けした。

もっと謎めいた何かが出てくるかと思ったけれど。

十年前のマリさんもライター。

今もライター。

以上。

終わり。

「……で?」

「何?」

「これだけ?」

「ミサキ、残念そうじゃん。」

「別に。」

「絶対なんか出てくると思ってたでしょ。」

「思ってない。」

「嘘。」

うるさい。

わたしはユウカのパソコンを返そうとした。

ところが。

「でもね。」

ユウカが言った。

「ここからなんだよ。」

「何が?」

「もうちょっと古いの探してみたの。」

嫌な顔をしておこう。

一応。

「あなた暇なの?」

「昨日ちょっと夜更かしした。」

「何やってるのよ。」

「気になるじゃん。」

まあ。

気持ちは分かる。

「それで?」

「十年くらい前までは結構出てくるの。古い記事とか、プロフィールとか。」

「うん。」

「でも、それより前が全然出てこない。」

「別に普通じゃない?」

わたしは言った。

十年以上前なら、今ほど何でもネットに残っている時代でもない。

消えたサイトだって山ほどある。

「別名義だったかもしれないし。」

「私もそう思った。」

「会社員だったとか。」

「それもある。」

「じゃあ何も不思議じゃないじゃない。」

「うん。」

ユウカが頷く。

それから。

ちょっと楽しそうに言った。

「だから、当時マリさんと仕事してた人も探してみた。」

「……あなた。」

「何?」

「ちょっと調べたって言ったわよね?」

「ちょっとだよ。」

「あなたの『ちょっと』、信用できなくなってきたんだけど。」

ユウカが笑う。

「でも十年前だからね。昔の媒体そのものがなくなってたり、編集やめてる人も多くて。そんなに見つからなかったよ。」

「それでいいのよ。」

わたしたちは探偵じゃない。

ただのライターである。

……人の過去を調べている時点で、若干怪しいけど。

「何人かは話聞けそう。」

「連絡したの?」

「した。」

「行動力どうなってるのよ。」

「ミサキも来る?」

「行かない。」

即答した。

ユウカがわたしを見る。

わたしもユウカを見る。

数秒。

「……いつ?」

「来週。」

「予定見とく。」

「来るんじゃん。」

仕方ないでしょ。

別にマリさんの過去を暴きたいわけじゃない。

ただ。

十年前のマリさんが、どんな人だったのか。

それくらいなら。

ちょっとだけ、聞いてみたい。

10年前のマリを知る人たち

昔のマリの知り合いたちの証言がバラバラ。

それから数日。

わたしとユウカは、十年ほど前にマリさんと仕事をしていた人たちの話を聞いてみた。

……こう書くと。

完全に身辺調査である。

違うのよ。

そんな大げさなものじゃない。

昔の仕事仲間に、当時どんな人だったのか聞いてみただけ。

本人に内緒で。

……。

やっぱり若干まずい気がしてきたわね。

「ミサキ、今さら罪悪感?」

「あなたはないの?」

「ちょっとある。」

「あるんじゃない。」

まあいい。

聞くといっても、別に個人的な事情を根掘り葉掘り探るつもりはない。

当時のマリさんがどんなライターだったのか。

それくらい。

それくらいのはずだった。

ところが。

最初に話を聞いた、当時同じ媒体で書いていたという元ライターの女性は言った。

「マリさん? 懐かしい。会社員からライターになった人じゃなかったっけ?」

会社員。

初めて具体的な情報が出た。

「どんな会社だったんですか?」

ユウカが聞く。

「そこまでは知らないなあ。」

「本人から聞いたんですか?」

「……どうだったかな。誰かが言ってた気もする。」

急激に信頼度が下がった。

まあ、十年前の仕事仲間だ。

そんなものかもしれない。

次。

当時その媒体に関わっていた編集者。

「ライターになる前? アート関係じゃなかった?」

今度はアート。

「会社員じゃなくて?」

「会社員?」

「そう聞いた人がいたんですけど。」

「へえ。そうなの?」

こっちが聞いてるのよ。

「なんでアート関係だと思ったんですか?」

「なんでだろう。そういう人と知り合いが多かったのかな。」

「本人が言ってた?」

「いや……たぶん言ってない。」

またしても。

証言としては弱い。

さらに別の人。

「え? マリさん、あの時がライター初めてだったの?」

「そうなんですか?」

「いや、俺が聞きたいんだけど。」

だから。

なんで全員こっちに質問するのよ。

「最初から普通に書けてたから、前にもどこかでやってたんだと思ってた。」

「文章を書く仕事を?」

「うん。でも本人から聞いたことはないな。」

「じゃあ、それも想像?」

「そうなるね。」

話を聞けば聞くほど。

情報が増えているはずなのに。

何も分からなくなっていく。

会社員だった。

アート関係だった。

以前から文章を書いていた。

いや、ライターはあれが初めてだった。

人脈が広かった。

でも、何の人脈なのかは知らない。

どれも、誰かが嘘をついている感じではない。

単純に。

みんなマリさんについて、それほど詳しく知らないのだ。

仕事では普通に話す。

飲みに行ったことがある人もいる。

仲が悪かったわけでもない。

それでも。

「そういえば。」

最初に話を聞いた女性が、少し考えてから言った。

「マリさん、自分の昔の話ってあんまりしなかったかも。」

「やっぱり?」

ユウカが聞く。

「隠してる感じじゃないのよ。聞けば普通に答えてたと思う。でも、自分から『昔こういうことしてて』みたいな話はしなかったなあ。」

なるほど。

わたしは妙に納得した。

それ。

今とまったく同じだ。

別の人からも似たような話が出た。

「そうだね。プライベートを秘密にしてる人って感じでもなかったけど、自分の経歴を語るタイプじゃなかった。」

「何してた人なのか、俺も知らないな。」

「仕事はちゃんとしてたよ。」

「人当たりもよかった。」

「でも、妙に肝が据わってた気はする。」

その言葉に、少しだけ引っかかった。

「肝が据わってた?」

「うん。取材相手が偉い人でも、あんまり態度変わらないっていうか。」

それも。

今と同じ。

前回のBARを思い出す。

わたしとユウカが文化人たちに囲まれて妙にお行儀よくなっている横で。

マリさんだけが。

いつものマリさんだった。

「……ねえ。」

帰り道。

ユウカが言った。

「何?」

「結局、何が分かった?」

わたしは考えた。

「十年前もマリさんだった。」

「それだけ?」

「それだけ。」

「会社員説は?」

「伝聞。」

「アート関係説。」

「推測。」

「前からライター説。」

「思い込み。」

ユウカが笑った。

「全滅じゃん。」

「全滅ね。」

ただ。

一人だけ。

当時の人たちから何度か名前が出てきた人物がいた。

マリさんが書き始めた頃のWebメディアを立ち上げた編集長。

その人なら、もう少し詳しいかもしれない。

幸い、今も連絡を取れる人がいた。

ユウカがスマホを見る。

「会ってくれるって。」

「いつ?」

「来週。」

「そう。」

「行く?」

「行く。」

今度は即答した。

ユウカが笑う。

「もう隠さなくなったね。」

「何が?」

「マリさんの昔、めちゃくちゃ気になってるじゃん。」

「……うるさい。」

だって。

ここまで何も分からないと、逆に気になるじゃない。

一番詳しそうな元編集長

マリを一番知っていそうな当時の編集長に会うミサキとユウカ。

翌週。

わたしとユウカは、都内の喫茶店にいた。

待ち合わせの相手は、十年ほど前にマリさんが書いていたWebメディアの元編集長。

当時はまだ三十代。

出版社を辞めたばかりで、小さな編集プロダクションを立ち上げ、その最初の仕事のひとつとしてWebメディアを運営していたらしい。

今はその会社も人に任せて、別の仕事をしている。

「いやあ、懐かしい名前だね。マリさんか。」

席につくなり、元編集長は笑った。

「覚えてます?」

ユウカが聞く。

「覚えてるよ。初期から書いてもらってたからね。」

ようやく。

ちゃんと覚えている人に会えた。

ここまでが長かった。

会社員だった。

アート関係だった。

前から文章を書いていた。

いや、あれが初めてだった。

全部ふわふわ。

今度こそ、もう少しまともな話が聞けそうだ。

「当時のマリさんって、どんな人でした?」

わたしが聞く。

元編集長は少し考えた。

「今は知らないけど、穏やかな人だったよ。」

……。

「終わり?」

「え?」

「もっと何かないんですか?」

「ミサキ、圧が強いって。」

ユウカが止める。

だって。

わざわざここまで来て、十年前も穏やかでしたで終わったらどうするのよ。

元編集長が笑った。

「でも、本当にそんな感じだったよ。落ち着いてて、話しやすくて。仕事もちゃんとしてた。」

「新人だったんですよね?」

「たぶんね。」

「たぶん?」

嫌な予感がする。

「少なくとも、うちに来た時は『ライターとして本格的に仕事するのは初めて』みたいな話だったと思う。」

「それ以前に書いてたとかは?」

「知らないな。」

また。

わたしはコーヒーを飲んだ。

この一週間で「知らないな」を何回聞いたんだろう。

「でもね。」

元編集長が続ける。

「新人っぽくはなかった。」

「文章が上手かった?」

「それもあるけど、仕事の仕方かな。」

少し考える。

「変にビクビクしないんだよ。」

その言葉で。

わたしは少し興味を持った。

「どういうことですか?」

「たとえば、こっちが原稿に修正入れるでしょ。」

「はい。」

「納得できれば普通に直してくれる。でも納得できない時は、『ここを変える理由、聞いてもいいですか?』って普通に聞いてくる。」

「……それ、普通じゃないですか?」

「そう。普通なんだよ。」

元編集長が笑った。

「でも駆け出しの頃って、編集から赤字入ったら全部『分かりました』って直しちゃう人も多いからね。」

なるほど。

「マリさんは違った?」

「別に喧嘩するわけじゃないよ。理由を聞いて、納得すれば『分かりました』って直す。納得できなければ、自分はこう思うって話す。」

「面倒じゃなかったですか?」

ユウカが聞いた。

「全然。」

即答だった。

「むしろやりやすかったよ。感情的にならないし、人の話も聞くから。」

それから、少し笑う。

「ただ、芯は強かったね。」

その言葉。

今日までに何度か聞いた。

「偉い人を取材しても、あんまり変わらなかったな。失礼なことはしないけど、必要以上に持ち上げたりもしない。」

「怖くなかったんですかね。」

「どうだろう。聞いたことない。」

わたしは。

前回のBARを思い出した。

有名な小説家。

アーティスト。

編集者。

そんな人たちに囲まれても。

マリさんだけは、いつも通りだった。

十年前から、あの人はあの人だったらしい。

「じゃあ。」

わたしは聞いた。

「マリさんって、どうやってここで書くようになったんですか?」

「どうやって?」

「編集長が見つけたんですか?」

「いや。」

元編集長が首を振った。

「俺が見つけたんじゃないんだよ。」

ユウカがわたしを見る。

わたしもユウカを見る。

少しだけ。

話が変わった。

「じゃあ、応募してきたとか?」

「それも違う。」

「紹介?」

「そう。」

元編集長が頷いた。

「俺、出版社辞めて独立したばっかりだったでしょ。人も全然足りなくて。」

「はい。」

「その時、前にいた出版社の上司から連絡が来たんだよ。」

「何て?」

「人探してるなら、一人会ってみないかって。」

それが。

マリさん。

「その上司の知り合いだったんですか?」

ユウカが聞く。

「いや。」

また首を振る。

「その人も、マリさんとはほとんど面識なかったはず。」

「……じゃあ誰の紹介なんですか?」

わたしが聞く。

元編集長は。

「それがね。」

少し記憶を探すように、視線を上へ向けた。

「さらに別の人から頼まれたらしいんだよ。」

「誰です?」

「確か……」

しばらく考える。

「アート関係の人だったと思う。」

……。

ユウカを見る。

ユウカも、わたしを見ていた。

またアートが出てきた。

マリを連れてきたのは誰?

マリを紹介したのはアート界の大物だったらしい。

「アート関係って……どの辺ですか?」

ユウカが聞いた。

「画家とか?」

「いやあ、そこまでは覚えてないな。」

元編集長は申し訳なさそうに笑う。

「俺、その人とは直接会ってないんだよ。」

「名前は?」

「それもなあ……。」

「男性? 女性?」

「ごめん。そこも記憶が曖昧。」

……。

「何なら覚えてるんですか?」

思わず言ってしまった。

「ミサキ。」

ユウカが笑いながら止める。

仕方ないじゃない。

ようやく何か出てきたと思ったら、肝心なところだけ全部ない。

元編集長は少し考えてから言った。

「ただ、結構な人だったと思うよ。」

「結構な人?」

「アートの世界じゃ、それなりに名前の知られた人。」

「それなりってどれくらい?」

「だから俺も詳しくないんだって(笑)」

「使えないわね……。」

「ミサキ、聞こえてる。」

「聞かせたのよ。」

元編集長が声を出して笑った。

「でも、前の上司がその人から頼まれたっていうのは覚えてる。」

出版社にいた頃の上司。

その人のところへ、アート界の誰かからマリさんの話が持ち込まれた。

そして。

人手を探していた元編集長のところへマリさんがやってきた。

「じゃあ、そのアート関係の人が、マリさんにライターの仕事を紹介したかったんですか?」

「結果的にはそうなんだけど……。」

元編集長が首を傾げる。

「確か最初は違ったんだよな。」

「何がです?」

「その人、自分のところでマリさんに働いてほしかったらしいよ。」

わたしとユウカが同時に黙った。

また。

知らないマリさんが出てきた。

「アート関係の仕事を?」

「たぶん。詳しくは知らないけど。」

「マリさん、アートの仕事してたんですか?」

「それも知らない。」

「じゃあ、なんで誘われたんですか?」

「知らない。」

「…………。」

「ごめん(笑)」

この人、本当に肝心なところは何も知らない。

でも。

一つだけ分かった。

その人物は。

マリさんを自分のところに置きたいと思うくらいには、彼女を評価していた。

「それでマリさんは?」

ユウカが聞く。

「断ったらしい。」

「断った?」

「うん。」

「アート界の大物から誘われたのに?」

「らしいね。」

「理由は?」

「知らない。」

もう。

そこは聞かないことにした。

「でも、その人は怒らなかったんですね。」

わたしが言う。

自分の誘いを断った相手。

普通なら、そこで終わってもおかしくない。

ところが。

わざわざ別の仕事まで探している。

「むしろ気に入ってたんじゃないかな。」

元編集長が言った。

「自分のところが嫌なら仕方ない。でも仕事は探してるみたいだから、何かないかって。それで出版社にいた俺の上司に話が行った。」

「ずいぶん面倒見のいい人ですね。」

ユウカが言う。

「そうだね。」

「その人とマリさん、どういう関係だったんだろう。」

「それを知りたいのよ。」

わたしは腕を組んだ。

会社員だったという話。

アート関係だったという話。

そして今度は。

アート界の大物に、なぜかかなり評価されていたという話。

バラバラだった証言の中で。

初めて少しだけ、線がつながった気がする。

でも。

つながった先にいる人物の顔が見えない。

「それで、前の上司はマリさんに会ったんですか?」

「一応会ったみたい。」

「そこで仕事を紹介してもらった?」

「いや。」

元編集長が笑った。

「俺のところに回ってきた。」

「なんで?」

「ちょうど俺が独立して、人を探してたからっていうのもあるけど。」

少し間を置く。

「たぶん前の上司、若干ビビったんだと思う。」

「マリさんに?」

ユウカが驚く。

わたしも驚いた。

十年前のマリさんは。

さっき聞いた限り、今とそれほど変わらない。

穏やかで。

人当たりがよくて。

でも芯は強い。

そんな人を。

なぜ怖がるのか。

「マリさん、何かしたんですか?」

「いや、何もしてないよ。」

「じゃあなんで?」

「会う前にね。」

元編集長が笑った。

「そのアート関係の人から、マリさんについて妙なことを聞かされてたらしいんだよ。」

「妙なこと?」

「うん。」

元編集長はコーヒーを一口飲んだ。

それから。

十年前に聞いた言葉を思い出すように、ゆっくり言った。

「今じゃずいぶん落ち着いたけど、牙が抜けたわけじゃないからね」

…………。

ユウカが瞬きをする。

わたしも。

何も言わなかった。

「あと、確か……。」

元編集長が続ける。

「穏やかそうだからって雑に扱うと、痛い目見るよ。気をつけて」

……。

それを聞かされた出版社の上司は。

こう思ったらしい。

「そんな人、俺のところに連れてこないでくれよ」

そして。

独立したばかりの元部下を思い出した。

「ちょうど人探してる奴がいるから、そっち紹介しようって。」

元編集長が笑う。

「要するに俺、ちょっと押し付けられたんだよ。」

ユウカも笑った。

わたしも少し笑った。

でも。

頭の中では。

別の言葉が引っかかっていた。

今じゃずいぶん落ち着いた。

今じゃ。

ということは。

その人は。

落ち着く前のマリさんを知っている。

牙が抜けたわけじゃない

マリの過去を聞いて色々思考するミサキ。

「……牙?」

最初に口を開いたのはユウカだった。

「マリさんに?」

「そう聞いたって話だけどね。」

元編集長は笑っている。

まあ、そうなる。

わたしたちが知っているマリさんと、牙という単語。

あまり結びつかない。

いつも穏やかで。

人の話をよく聞いて。

誰かが失敗しても、まず怒るより先に「大丈夫?」と言うような人。

編集部で声を荒らげているところなんて、わたしは見たことがない。

「実際、会ってみてどうだったんですか?」

ユウカが聞いた。

「牙、ありました?」

「見てないなあ(笑)」

「噛まれませんでした?」

「噛まれてないよ。」

何の話よ。

元編集長は少し考えた。

「だから俺も、最初はちょっと身構えてたんだよ。」

出版社時代の上司から紹介された女性。

その上司も、さらに上の――というか、別世界の大物から頼まれている。

しかも事前情報が。

「牙が抜けたわけじゃない」

である。

「怖いですよね。」

ユウカが言う。

「怖いよ。何が来るんだって思ったもん。」

「それでマリさんが来た。」

「そう。」

「どうでした?」

「普通。」

即答。

「普通?」

「普通っていうか、感じのいい人だったよ。ちゃんと挨拶して、話も聞くし。別に態度が大きいわけでもない。」

元編集長が笑う。

「俺も途中から、何を警戒してたんだろうって思った。」

「じゃあ、そのアート関係の人が大げさに言っただけじゃないですか?」

ユウカが言った。

「それはあるかもね。」

元編集長も頷く。

「ただ、さっき言ったみたいに芯は強かったよ。」

「そこは今も同じですね。」

わたしが言う。

「そうなんだ?」

「はい。」

マリさんは優しい。

でも。

何でも受け入れる人ではない。

嫌なものは嫌と言う。

違うと思えば違うと言う。

誰かに合わせるためだけに、自分の考えを曲げるところもあまり見ない。

それを大げさに「牙」と呼んだ。

そう考えれば。

別に不思議な話でもない。

……はずなんだけど。

「ミサキ?」

ユウカがわたしを見る。

「何?」

「さっきから黙ってない?」

「考えてるの。」

「何を?」

わたしは元編集長を見る。

「その言葉、本当にそんな感じだったんですよね?」

「どの言葉?」

「今じゃずいぶん落ち着いたけど、って。」

「うん。正確に一字一句同じかは分からないよ。十年前だから。でも、そんなニュアンスだったと思う。」

「……やっぱり。」

ユウカが首を傾げる。

「何?」

「そこよ。」

「どこ?」

「牙じゃない。」

わたしが気になったのは、その前。

「今じゃずいぶん落ち着いた」

という部分だった。

「あ。」

ユウカも気づいた。

「そっか。」

「そう。」

十年前。

元編集長が初めて会ったマリさんは、すでに穏やかだった。

周囲の人たちの証言も同じ。

少し芯は強い。

でも、基本的には落ち着いた女性。

それなのに。

そのアート界の人物だけは。

「今では」

と言った。

「つまり、その人……。」

ユウカが言う。

「もっと前のマリさんを知ってるってこと?」

「そういうことになるわよね。」

しかも。

「牙が抜けたわけじゃない」

という言い方。

それは。

少なくとも、その人の中では。

昔のマリさんには、もっと分かりやすく牙があった。

そんな意味にも聞こえる。

「その人、マリさんといつ頃から知り合いだったんですか?」

ユウカが聞く。

「それは分からないな。」

「どうやって知り合ったんでしょう。」

「知らない。」

「マリさんの何を評価して、自分のところで働いてほしかったんですか?」

「それも知らない。」

「名前は?」

「覚えてない。」

「何の人?」

「アート関係。」

「だからアートの何ですか?」

「そこまでは……。」

「男? 女?」

「それも……。」

ユウカが椅子にもたれた。

「何にも分かんないじゃん。」

「だから最初からそう言ってるだろ(笑)」

元編集長が笑う。

わたしも。

思わず笑ってしまった。

結局。

ここまで来ても同じだった。

十年前のマリさんについては、少し分かった。

穏やかだった。

仕事はきちんとしていた。

芯が強かった。

ライターとして書き始めたのも、おそらくこの頃。

でも。

その入口に。

正体の分からない人が一人立っている。

マリさんを以前から知っていた。

かなり評価していた。

自分のところで働かせたがっていた。

断られても別の仕事を世話した。

そして。

十年前よりさらに昔のマリさんを知っているらしい。

「……誰なのよ。」

思わず口から出た。

元編集長が笑う。

「俺に言われても。」

「そこ思い出してくださいよ。」

「無茶言うなあ。」

「大物なんでしょ?」

「だったと思う。」

「だったと思うって。」

「だって俺、直接会ってないんだもん。」

もう。

本当に。

何なら覚えてるのよ。

「まあでも。」

元編集長が笑いながら言った。

「マリさん自身には聞かないの?」

わたしとユウカは。

同時に黙った。

そして。

前回のBARで、穏やかに笑っていたマリさんを思い出した。

たぶん。

聞いたところで。

簡単には教えてくれない。

調べる前より、分からなくなった

牙が抜けたわけじゃない。という印象的な言葉をメモに残すミサキ。

喫茶店を出ると。

わたしとユウカは、しばらく無言で歩いた。

今日こそ何か分かると思っていた。

十年前のマリさんを知っている元編集長。

しかも、ライターとして仕事を始めた頃から知っている人。

これ以上ないくらい有力な証言者だった。

実際。

分かったことはある。

十年前のマリさんは、すでに今とそれほど変わらなかった。

穏やかで。

感じがよくて。

仕事もきちんとしていて。

ただ、芯は強い。

そして。

おそらくライターとして本格的に仕事を始めたのも、その頃。

ここまではいい。

問題は。

そのマリさんを連れてきた人である。

「ねえ。」

ユウカが言った。

「何?」

「結局、アート界の大物って誰なんだろうね。」

「知らないわよ。」

「画家かな。」

「知らない。」

「ギャラリーの人とか?」

「知らないって。」

「でもマリさんを自分のところで働かせたかったんでしょ?」

「らしいわね。」

「マリさんは断った。」

「らしいわね。」

「それでも別の仕事を探してあげた。」

「らしいわね。」

ユウカが少し黙る。

「……かなり気に入られてたんじゃない?」

「でしょうね。」

そこは、わたしも同じことを考えていた。

ただの知り合いなら。

自分の誘いを断られたあとに、わざわざ出版社の人間へ話を持っていくだろうか。

しかも。

その人は、マリさんについて。

「今じゃずいぶん落ち着いたけど、牙が抜けたわけじゃない」

と評していた。

その言葉が。

どうしても頭から離れない。

「マリさんに聞いてみる?」

ユウカが言った。

わたしは歩きながら考えた。

「何て?」

「十年前、アート界の大物に仕事紹介してもらったんですかって。」

「それだけで終わると思う?」

「じゃあ……その人って誰なんですか?」

「うん。」

「昔のマリさんって、どんな人だったんですか?」

「うん。」

「牙って何ですか?」

「そこまで聞いたら完全に身辺調査がバレるわね。」

「それは困る。」

「でしょうね。」

わたしたちは。

今度は、聞かれたマリさんが何と答えるかを想像した。

たぶん。

少し笑って。

「昔ちょっとね。」

終わり。

ユウカが言った。

「……やめとく?」

「やめましょ。」

即決だった。

そもそも。

今回だって、何か秘密を暴きたかったわけじゃない。

前回のBARで。

わたしたちの知らないマリさんを少し見た。

だから。

もうちょっとだけ知りたくなった。

それだけ。

そして十年前まで戻ってみたら。

そこにいたのは。

やっぱりマリさんだった。

今より少し若い。

ライターとしては駆け出し。

でも。

穏やかで。

人の話を聞いて。

納得できないことには、自分の意見を言う。

別に。

謎の女でも何でもない。

普通に仕事をしていた、一人の女性。

それで終わるはずだった。

なのに。

その少し前に。

彼女を知っている誰かがいる。

名前も分からない。

どんな人物なのかも分からない。

マリさんとどういう関係だったのかも分からない。

ただ。

その人だけは。

今のマリさんになる前の彼女を知っていたらしい。

「ねえ、ミサキ。」

「何?」

「調べる前より謎増えてない?」

「増えたわね。」

「失敗じゃん。」

「あなたが始めたのよ。」

「ミサキもノリノリだったじゃん。」

「最初だけね。」

「今日、私より質問してたよ。」

「気のせいよ。」

「絶対違う。」

うるさい。

わたしはスマホを取り出した。

「何してるの?」

「別に。」

メモを開く。

少し考えて。

一行だけ打った。

――牙が抜けたわけじゃない女。

「何書いた?」

ユウカが覗こうとする。

「見ないで。」

「怪しい。」

「人のスマホ覗く方が怪しいでしょ。」

「マリさんの過去調べてた人に言われたくない。」

「あなたもでしょ。」

スマホを閉じた。

別に。

何かを書くつもりなんて、まだない。

ただ。

その言葉だけは。

なぜか忘れたくないと思った。

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