ナツメ式|忘れ物博物館

雨だった。

しとしと降る雨だった。

急ぐ理由もないので、 ナツメは路地を歩いていた。

虹色の毛並みは、 雨の日だけ少し重くなる。

本人は気にしていない。

気にしていないどころか、 少し楽しそうだった。

「雨いうんはええな」

「世界がちょっと静かになる」

そう言いながら、 濡れた塀の上を歩く。

途中で、 古い看板を見つけた。

見たことのない看板だった。

木製。

少し傾いている。

文字もかすれている。

それでも読めた。

『忘れ物博物館』

ナツメは立ち止まる。

「財布でも並べてるんか」

看板の下には、 小さな文字が書かれていた。

『入館料:思い出ひとつ』

ナツメは首をかしげた。

「ずいぶん曖昧な料金やな」

建物は、 古い洋館だった。

窓には雨粒。

壁には蔦。

今にも閉館しそうなのに、 なぜか潰れない店みたいな顔をしている。

ナツメは扉を押した。

鈴が鳴る。

チリン。

館内は静かだった。

少しだけ、 古本屋の匂いがする。

少しだけ、 雨漏りの匂いもする。

受付には、 ワニオがいた。

眼鏡をかけている。

なぜか蝶ネクタイまでしていた。

ワニオは帳簿から顔を上げる。

「いらっしゃいませ」

「本日はどのような忘れ物をお探しでしょうか」

ナツメは少し考えた。

「忘れたから来たんや」

ワニオはうなずく。

「皆さんそうおっしゃいます」

受付の横には、 古い木箱が置いてあった。

『思い出投入口』

と書かれている。

ナツメは箱を覗いた。

真っ暗だった。

「何入れたらええん」

ワニオは丁寧に答える。

「何でも結構です」

「忘れたい思い出でも」

「忘れたくない思い出でも」

「失くしたと思っていた思い出でも」

雨音が聞こえる。

ナツメは少し考えた。

それから、 小さな何かを箱に落とした。

コトン。

ワニオが帳簿に何かを書く。

「確かにお預かりしました」

ナツメは聞いた。

「何預かったん」

ワニオは首を振る。

「私にも分かりません」

「思い出は入れた本人しか分かりませんので」

ナツメは少し笑った。

「ええ商売やな」

ワニオは真顔だった。

「赤字です」

奥の廊下は薄暗い。

展示室の案内板が見える。

第一展示室。

『言えなかった言葉』

ナツメは、 ゆっくり歩き出した。

目次

第一展示室 言えなかった言葉

言えなかった言葉を眺めるソウタ。

展示室は、 思ったより広かった。

天井が高い。

窓はない。

どこからともなく、 薄い光だけが落ちている。

部屋の中には、 ガラスケースが並んでいた。

博物館らしい。

ただ、 展示物がおかしかった。

花でもない。

宝石でもない。

文字だった。

言葉が、 展示されていた。

ひとつ目のケース。

『好きでした』

小さな文字。

少し色あせている。

隣には、 説明文があった。

『卒業式の日に使用予定でした』

『未使用』

ナツメは、 しばらく眺めた。

「新品やな」

次のケース。

『ごめんなさい』

こちらは少し傷んでいる。

何度も使おうとして、 結局使われなかったらしい。

さらに奥へ進く。

『助けて』

『寂しい』

『行かないで』

『会いたかった』

部屋には、 たくさんの言葉が並んでいた。

どれも、 誰かの口から出るはずだったもの。

でも、 出なかったもの。

そのとき、 向こうからソウタが現れた。

なぜか来ていた。

この町では、 そういうことがある。

ソウタは、 ケースを見て立ち止まる。

「うわぁ」

「いっぱいあるねぇ」

ナツメは聞く。

「知り合いでもおるんか」

ソウタは首を振る。

「知らない」

「でも、なんか知ってる気がする」

そう言いながら、 一番奥のケースの前で止まった。

そこには、 たった一言だけ展示されていた。

『また会いたい』

言葉は、 少し光っている。

新品でもない。

古くもない。

今さっき置かれたようにも見える。

ソウタは、 ガラス越しにそれを見る。

「これ誰のだろう」

ナツメは答えない。

代わりに、 後ろからワニオの声がした。

「たぶん皆さんのものです」

ワニオは、 いつの間にか立っていた。

館長らしく、 静かに歩く。

「この展示室で一番人気です」

ソウタは笑った。

「人気なんだ」

ワニオはうなずく。

「人は案外」

「会えなかった人のことを忘れませんので」

部屋が少し静かになる。

雨音だけ聞こえた。

ナツメは、 『また会いたい』を見ながら言った。

「会えたら困る相手もおるけどな」

ワニオは少し考える。

それから、 丁寧に答えた。

「その場合は第二展示室ですね」

「失くした夢の隣です」

ナツメは眉をひそめた。

「ろくでもない予感しかしやん」

三人は、 次の展示室へ向かった。

第二展示室 失くした夢

展示物失くした夢のギターを眺めるケンジ。

第二展示室は、 少し暗かった。

第一展示室より広い。

そして、 静かだった。

誰も喋っていないのに、 誰かが諦める音だけが聞こえる。

そんな部屋だった。

天井から、 何かが吊るされている。

風もないのに、 ゆっくり揺れていた。

夢だった。

失くした夢が、 展示されている。

『プロ野球選手』

『漫画家』

『パン屋さん』

『世界一周』

どれも、 少し埃をかぶっていた。

ソウタは見上げる。

「夢って浮くんだね〜」

ワニオはうなずく。

「重すぎると沈みます」

「軽すぎると飛んでいきます」

「展示されるのは、 だいたい中途半端な重さの夢ですね」

ナツメは、 前足で近くの夢をつついた。

『海賊』

少し揺れる。

「海賊なりたかったやつおるんやな」

「意外と多いですよ」

ワニオは即答した。

奥のほうで、 誰かが立ち止まっている。

ケンジだった。

珍しく静かだった。

見上げている。

ひとつの夢を。

古いギターの形をしていた。

弦は少し錆びている。

でも、 まだ音が鳴りそうだった。

ナツメは近づく。

「知り合いか」

ケンジは苦笑した。

「まぁな」

しばらく沈黙。

すると、 ギターの夢が喋った。

「久しぶりだな」

ナツメは一歩下がった。

「喋るんかい」

夢は、 少し笑う。

「夢だからな」

ケンジも笑う。

「元気そうじゃん」

「そっちは?」

「まあまあかな」

夢と会話していた。

当たり前みたいに。

ワニオは帳簿に何かを書いている。

気にしていない。

この博物館では、 よくあることらしい。

しばらくして、 夢が聞いた。

「後悔してるか?」

ケンジは考える。

長く考える。

それから、 首を横に振った。

「してない」

少し間を置く。

「たぶん」

夢は、 それ以上何も言わなかった。

ただ、 少しだけ揺れた。

まるで、 笑ったみたいに。

ナツメは、 その様子を見ていた。

そして、 ぽつりと言う。

「夢いうんは」

「叶わんかったあとも生きとるんやな」

雨音が聞こえる。

どこか遠くで、 古いレコードが回る音もした。

ワニオは静かに言った。

「次は第三展示室です」

「送られなかったLINEの展示になります」

ナツメは、 嫌な予感しかしなかった。

第三展示室 送られなかったLINE

送られなかったLINEを見て切なそうなミサキ。

第三展示室に入った瞬間、 部屋が光った。

いや、 正確には違う。

スマホだった。

部屋中に、 スマホが浮いている。

天井にも。

壁にも。

床の近くにも。

数え切れない。

どれも、 小さく光っていた。

未送信。

未送信。

未送信。

そんな表示ばかりだった。

ナツメは、 少し嫌な顔をする。

「湿度高い部屋やな」

ワニオは頷いた。

「当館でも人気の展示室です」

「帰る人が少ないので困っています」

部屋の奥では、 ミサキが立っていた。

なぜか来ていた。

この博物館では、 そういうことがよくある。

ミサキは、 一台のスマホを見つめている。

腕を組み、 難しい顔をしていた。

ナツメが近づく。

「知り合いか」

ミサキは、 少しだけ眉をひそめる。

「違うわ」

「たぶん」

スマホの画面には、 一行だけ表示されていた。

『今日はありがとう』

送信時刻。

深夜2時13分。

未送信。

ずっと。

ミサキは、 しばらく見つめていた。

「バカね」

ぽつりと言う。

誰に言ったのかは分からない。

送らなかった誰かか。

送れなかった自分か。

たぶん、 両方だった。

少し離れた場所では、 ソウタが別のスマホを見ている。

「これ切ないな〜」

『好きです』

未送信。

「これも」

『好きでした』

未送信。

「これも」

『やっぱ好きです』

未送信。

ナツメは呆れた。

「送れや」

ソウタは真顔で答える。

「送れない時ってあるんだよ〜」

部屋の奥から、 小さな通知音が鳴った。

ピコン。

誰かが、 送ろうとしたらしい。

でも、 送れなかった。

だから、 ここへ来た。

ミサキは、 別のスマホを手に取る。

そこには、 短い文章があった。

『元気?』

たった三文字。

でも、 送られなかった。

ミサキは、 少し笑った。

「これ送れないの」

「人間って本当に面倒ね」

ワニオは、 丁寧に答える。

「送ったら終わることもありますので」

「送らなければ、 終わらないこともあります」

部屋が静かになる。

未送信の言葉だけが、 淡く光っていた。

ナツメは、 天井近くに浮いているスマホを見る。

そこには、 一行だけ書かれていた。

『会いたい』

未送信。

ナツメは、 少しだけ目を細める。

「人間いうんは」

「送らん方が長生きする言葉ばっかり作るんやな」

雨は、 まだ降っていた。

ワニオは案内板を指さす。

「次は第四展示室です」

「青春保管庫になります」

ナツメは小さくため息をついた。

「切ない展示室ばかりやな」

第四展示室 青春保管庫

青春が詰まった瓶に夢中の若者たち。

第四展示室の扉は、 少しだけ重かった。

ワニオが開ける。

中から、 夏の匂いがした。

蝉。

体育館。

放課後。

アイスの棒。

そんな匂いだった。

ナツメは、 立ち止まる。

「うわ」

「青春臭い」

ワニオはうなずいた。

「青春保管庫ですので」

部屋には、 無数のガラス瓶が並んでいた。

棚。

机。

床。

どこも瓶だらけだった。

それぞれの瓶の中で、 何かが動いている。

ナツメは、 近くの瓶を覗いた。

『文化祭前日の夜』

中では、 誰かが段ボールを切っていた。

楽しそうだった。

隣の瓶。

『初めて手が触れた日』

さらに隣。

『部活帰りの遠回り』

どれも、 少し光っている。

古いビー玉みたいに。

そのとき、 奥から声が聞こえた。

アカリだった。

「うわ〜!」

「見てこれ!」

アカリは、 瓶を抱えている。

『放課後の教室』

中では、 夕日が差し込んでいた。

ハルキもいる。

「これいいな」

「青春って感じする」

シュウは、 少し離れたところで腕を組む。

「全部キラキラして見えるけど」

「当時は普通だったと思う」

ワニオは、 静かに言う。

「青春は保存されると発酵しますので」

「多少美化されます」

ナツメは吹き出した。

「漬物か」

そのとき、 ツムギが現れた。

目が輝いている。

非常に危険な目だった。

「かわいい〜!」

「全部ほしい〜!」

大きなカゴを持っている。

瓶をどんどん入れ始めた。

『初恋』

『夏祭り』

『部活帰り』

『好きな人と目が合った』

どんどん入る。

アカリが慌てる。

「ちょっ!」

「持って帰ってどうするの!?」

ツムギは即答した。

「眺める!」

ナツメは、 それが一番怖いと思った。

ワニオは、 少しだけ困った顔をする。

「開封はおすすめしません」

「なぜや」

「賞味期限切れですので」

部屋が少し静かになる。

ツムギは、 抱えていた瓶を見る。

中では、 文化祭の準備が続いている。

好きな人が笑っている。

友達が騒いでいる。

全部、 まだ終わっていない。

だから綺麗だった。

ワニオは、 ガラス瓶を見ながら言う。

「青春は終わったから綺麗なのか」

「綺麗だから終わったことにするのか」

「いまだに分かりません」

ナツメは、 近くの瓶を見つめた。

『もう少しだけ一緒にいたかった日』

瓶の中では、 夕日が沈みかけていた。

ナツメは何も言わない。

少しだけ、 瓶を撫でる。

雨音が聞こえた。

ワニオは案内板を指差す。

「最後の展示室です」

「当館で一番静かな部屋になります」

そこには、 小さくこう書かれていた。

『まだ失くしていないもの』

最奥展示室 まだ失くしていないもの

最終展示室にいる虹色の猫と男性。

最後の展示室は、 廊下の一番奥にあった。

誰も騒いでいない。

誰も立ち止まっていない。

人気がない。

というより、 人が寄りつかない。

そんな部屋だった。

扉は白い。

何の飾りもない。

案内板だけが付いている。

『まだ失くしていないもの』

ナツメは首を傾げた。

「展示物あるんか」

ワニオは答える。

「あります」

「たぶん」

その返事は、 館長にしては頼りなかった。

扉が開く。

中は、 空っぽだった。

本当に空っぽだった。

展示ケースもない。

棚もない。

説明文もない。

窓だけがある。

雨粒が、 静かに流れていた。

ソウタが先に言う。

「何もないね〜」

ミサキも部屋を見回す。

「予算切れ?」

ワニオは首を振った。

「違います」

「まだ持っているからです」

静かになる。

誰も喋らない。

ワニオは続けた。

「言えなかった言葉は展示できます」

「失くした夢も展示できます」

「送られなかったLINEも」

「青春も」

「全部、持ち主の手を離れておりますので」

雨音が聞こえる。

ワニオは窓の外を見る。

「ですが」

「まだ失くしていないものは展示できません」

「持ち主の中にありますので」

ナツメは部屋を見回した。

空っぽだった。

でも、 少しだけ息苦しい。

何かがある気がする。

見えないだけで。

アカリは小さく言った。

「なんか変な部屋〜」

ハルキも頷く。

「何もないのにな」

ツムギは、 少し考えている。

いつもより静かだった。

ミサキは窓の外を見ていた。

ソウタも、 珍しく何も言わない。

ナツメは、 ワニオに聞いた。

「例えば何があるん」

ワニオは少し考える。

それから、 丁寧に答えた。

「また会いたい人」

「まだ諦めていない夢」

「誰にも言っていない本音」

「明日」

「希望」

「そういうものです」

部屋は静かだった。

雨も静かだった。

ナツメは窓辺へ歩く。

雨粒の向こうに、 街の灯りが見える。

ぼんやりしていた。

なんだか綺麗だった。

ナツメは、 しばらく黙っていた。

それから、 小さく言った。

「なるほどな」

「空っぽやなくて」

「持ち帰り禁止なんやな」

ワニオは、 少しだけ笑った。

「そうかもしれません」

雨は、 まだ降っていた。

閉館時間

気がつくと、 館内放送が流れていた。

どこから流れているのかは分からない。

少し古い音だった。

『まもなく閉館時間です』

『お忘れ物のないようご注意ください』

忘れ物博物館で、 忘れ物に注意するのは少し変だった。

ナツメは笑う。

みんな、 出口へ向かい始める。

ソウタは、 第一展示室へ戻った。

『また会いたい』

その言葉の前で立ち止まる。

しばらく見ていた。

それから、 静かに言う。

「ここに置いとくね〜」

何を置いたのかは、 誰も知らない。

言えなかった言葉か。

会えなかった誰かか。

たぶん、 本人も分かっていなかった。

ミサキは、 第三展示室へ戻っていた。

未送信のスマホを見ている。

『元気?』

たった三文字。

ミサキは、 小さく鼻で笑う。

「送らなくて正解だったわ」

そう言ったあと、 少しだけ寂しそうだった。

そして、 スマホを棚へ戻した。

ケンジは、 第二展示室にいた。

古いギターの夢が、 まだ揺れている。

ケンジは、 その夢に軽く手を振った。

夢も少し揺れる。

まるで、 手を振り返したみたいだった。

アカリたちは、 青春保管庫で騒いでいた。

ツムギだけ、 最後まで瓶を持ち帰ろうとしている。

ワニオに止められていた。

「賞味期限切れです」

「大丈夫です!」

「大丈夫ではありません」

同じ会話を三回くらいしていた。

やがて、 みんな帰った。

雨も少し弱くなっている。

博物館には、 ナツメだけが残った。

ワニオは受付で帳簿を閉じる。

パタン。

静かな音だった。

ナツメは聞く。

「今日、何人くらい忘れていったんや」

ワニオは考える。

「さあ」

「皆さん何か置いていきますので」

「何を持ち帰ったのかのほうが重要かもしれません」

雨粒が、 窓を流れる。

ナツメは、 思い出投入口を見た。

朝、 自分も何かを入れた。

何だったかは、 もう思い出せない。

少し考える。

かなり考える。

それでも思い出せない。

ナツメは言った。

「忘れたこと忘れた」

ワニオはうなずく。

「それが一番多い忘れ物です」

しばらく沈黙。

雨音だけが聞こえる。

ナツメは、 扉の前まで歩いた。

そして振り返る。

古い博物館。

言えなかった言葉。

失くした夢。

送られなかったLINE。

青春。

まだ失くしていないもの。

どれも、 誰かの人生だった。

ナツメは小さく笑う。

「人間いうんは」

「忘れ物多い生き物やな」

ワニオは丁寧に答えた。

「はい」

「でも、たまに取りに来ます」

ナツメは、 少しだけ空を見上げる。

雨は止みかけていた。

「それならまあ」

「悪くないな」

扉が閉まる。

チリン。

忘れ物博物館は、 また明日開く。

誰かが失くした何かを、 待ちながら。

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