初恋の話をしようか
「ナナさんの初恋って、どんな人だったの?」
編集部の休憩スペースで、ミユがそんなことを聞いてきた。
昼下がりだった。窓の外では風が揺れていて、誰かが淹れたコーヒーの匂いが部屋に残っている。
こういう何でもない時間に限って、人は昔の話をしたくなる。
「急だな」
あたしは笑った。
ミユは頬杖をついている。完全に恋バナを聞く顔だった。
「だって気になるじゃん。ナナさんってモテそうだし、子どもの頃から恋愛マスターだったのかなって」
「なにそれ」
あたしは吹き出した。
恋愛マスター。便利な言葉だけど、人生はそんなに都合よくできていない。
好きな人に振り回されたこともあるし、泣いたこともある。むしろ失敗の方が多い。
「初恋かぁ……」
あたしは天井を見上げた。
思い出そうとしたわけじゃない。
その子のことは、今でもときどき思い出す。
名前も、ちゃんとは覚えていないのに。
「どんな人だったの?」
ミユが身を乗り出す。
「名前は?」
「知らない」
「え?」
「いや、正確には忘れた。みんなシンちゃんって呼んでた」
ミユは数秒固まった。
「待って待って待って。初恋の相手の名前忘れることある?」
「あるんだよ。五歳だからね」
あたしは肩をすくめた。
名字も知らない。
家も知らない。
親の顔も覚えていない。
知っているのは、シンちゃんと呼ばれていたことと、いつも公園にいたこと。
それだけだった。
でも五歳のあたしには、それで十分だった。
毎日同じ公園に行けば会えた。
一緒に砂場で山を作って、ブランコを取り合って、意味のない秘密基地を作った。
それが世界の全部みたいに思えていた。
「で、そのシンちゃんとはどうなったの?」
ミユが聞く。
あたしは少しだけ笑った。
「二十年後に会う約束をした」
「え、なにそれ。映画じゃん」
「映画なら、もう少しちゃんと名前を聞いとくべきだったな」
あたしはコーヒーをひと口飲んだ。
苦味が、舌の奥に静かに残る。
「でもさ」
ミユが小さく言う。
「それ、めちゃくちゃ聞きたい」
「長くなるぞ」
「聞く。絶対聞く」
あたしは窓の外を見た。
風に揺れる木の葉が、昔の公園の景色と少し重なった。
「じゃあ、話すか」
あたしは言った。
「あたしがまだ、初恋なんて言葉も知らなかった頃の話」
缶バッジの少年

その公園は、家から歩いて十分くらいの場所にあった。
大きな公園ではない。
すべり台とブランコと、少し古い砂場があって、端の方にベンチが二つ並んでいるだけの、どこにでもある公園だった。
でも五歳のあたしには、そこが世界の中心だった。
朝ごはんを食べて、母親に帽子をかぶせられて、靴を履いて外に出る。
それだけで一日が始まる。
公園に着くと、たいていシンちゃんはもういた。
砂場の端にしゃがんで、木の枝で何かを書いていたり、ブランコに座って空を見ていたりした。
「ナナ、遅い」
シンちゃんはいつもそう言った。
「遅くないもん」
あたしもいつもそう返した。
それだけで、遊びは始まった。
何をして遊んでいたのか、細かいことはあまり覚えていない。
砂でケーキを作ったこと。
葉っぱをお金にして店屋さんごっこをしたこと。
シンちゃんが拾った石を「宝石だ」と言い張って、あたしが本気で信じたこと。
そういう断片だけが、今でも変に鮮やかに残っている。
不思議なことに、シンちゃんの名字は覚えていない。
というより、たぶん知らなかった。
家も知らない。
どの道から来て、どの道に帰っていたのかも覚えていない。
だけど子どもの頃って、そういうことを気にしない。
明日も会えると思っている相手に、名字なんて必要なかった。
シンちゃんは、よく缶バッジをつけていた。
青い鳥みたいな絵が描かれた、小さな缶バッジ。
今思えば、どこかのお菓子のおまけだったのかもしれない。
でも本人は、それをずいぶん大事にしていた。
「それ、なに?」
ある日、あたしが聞いた。
「お守り」
シンちゃんは真顔で答えた。
「鳥なのに?」
「鳥だから」
その理屈はよくわからなかったけど、シンちゃんがそう言うなら、たぶんそうなんだと思った。
あたしにも宝物があった。
小さなおもちゃの指輪。
透明な赤い石みたいなものがついていて、光にかざすときれいだった。
本物じゃないことは知っていた。
でも、あの頃のあたしには、本物かどうかなんてどうでもよかった。
きれいなら、それで十分だった。
「ナナ、それいつも持ってるよね」
シンちゃんが言った。
「宝物だから」
「ふうん」
「シンちゃんの缶バッジも宝物でしょ」
「まあね」
シンちゃんは少し得意そうに胸を張った。
あたしたちは、たぶん何も特別なことをしていなかった。
でも毎日、同じ公園で会って、同じような話をして、同じように夕方になるまで遊んだ。
それだけで、ちゃんと大切だった。
恋なんて言葉は知らなかった。
好きという言葉だって、今よりずっと軽く使っていた。
でもシンちゃんがいない日は、公園が少し広すぎるように感じた。
砂場も、ブランコも、ベンチも、全部がいつもより遠かった。
今思えば、あれはたぶん。
あたしが最初に覚えた、誰かを待つ気持ちだった。
20年後の今日
その日、公園に行くと、シンちゃんはベンチに座っていた。
夕方だった。
空は少し赤くなり始めていて、ブランコは風に揺れていた。
シンちゃんはいつもみたいに地面を見ていた。
でも、何かが違った。
五歳のあたしにも、それだけはわかった。
「どうしたの?」
あたしが隣に座りながら聞く。
シンちゃんはしばらく黙っていた。
それから言った。
「ぼく、引っ越すんだ」
あたしは意味がわからなかった。
引っ越しという言葉は知っていた。
でも、それがシンちゃんと結びつかなかった。
「どこに?」
「遠く」
シンちゃんはそう言った。
五歳のあたしには、それで十分だった。
遠く。
それは会えなくなる場所のことだった。
「もう遊べないの?」
シンちゃんは答えなかった。
代わりに空を見た。
夕焼けの色が少しずつ濃くなっていく。
その横顔を見ていたら、なんだか急に泣きたくなった。
「やだ」
あたしは言った。
「行かないでよ」
シンちゃんは困ったように笑った。
「ぼくだって行きたくないよ」
その言葉が、余計に悲しかった。
あたしは下を向いた。
靴の先がぼやけて見える。
涙が落ちたからだ。
「でもさ」
シンちゃんが言った。
「また会えるよ」
あたしは顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと」
「いつ?」
シンちゃんは少し考えた。
そして、指を一本立てた。
「二十年後」
「にじゅうねん?」
「うん」
「今日」
「今日?」
「二十年後の今日、この公園で会おう」
無茶苦茶な約束だった。
子どもらしいと言えば、それまでだ。
でも、その時のあたしたちは本気だった。
シンちゃんは服につけていた青い鳥の缶バッジを外した。
いつも宝物だと言っていたやつだ。
「これ預ける」
そう言って、あたしの手のひらに乗せた。
「預ける?」
「二十年後に返して」
あたしはしばらく缶バッジを見つめた。
それから、自分の指にはめていたおもちゃの指輪を外した。
透明な赤い石が夕陽を受けて光る。
あたしの宝物だった。
「じゃあ、これ」
シンちゃんは受け取った。
両手で、大事そうに。
「預かる」
「絶対返してよ」
「返す」
「絶対?」
「絶対」
あたしたちは指切りをした。
小さな指と小さな指。
世界で一番信用できる約束みたいに思えた。
夕陽が沈んでいく。
公園の影が長く伸びる。
シンちゃんは立ち上がった。
「じゃあね」
あたしは何も言えなかった。
泣きそうになるのを我慢するだけで精一杯だった。
シンちゃんは歩き出した。
何度か振り返って、そのたびに手を振った。
あたしも振り返した。
姿が見えなくなるまで。
それが、シンちゃんを見た最後だった。

約束の日

二十年なんて、永遠みたいな時間だと思っていた。
五歳のあたしには、一年だって長かった。
それが二十年だ。
子どもの頃は、本当にその日が来るのかさえ想像できなかった。
でも時間は勝手に流れる。
あたしは二十五歳になっていた。
大学を卒業して、働いて、恋愛もした。
好きになった人もいたし、別れた人もいた。
毎日忙しかった。
だからシンちゃんのことを考えない日の方が、ずっと多かった。
むしろ普段は忘れている。
名字も知らない。
顔だって曖昧だ。
思い出せるのは、夕焼けの色と、青い鳥の缶バッジくらいだった。
それでも。
年に一度か二度。
ふとした拍子に思い出すことがあった。
引き出しの奥にしまった缶バッジを見つけた時。
昔住んでいた町の名前を聞いた時。
夕方の公園を見た時。
そんな時だけ、少し思い出す。
元気かな。
どこで暮らしてるんだろう。
そんな程度だ。
そして二十年後の今日が来た。
約束の日だった。
あたしはその日、有給を取った。
今住んでいる町から電車を乗り継いで、子どもの頃に住んでいた町へ向かった。
我ながらバカだと思う。
二十年前の約束だ。
相手の名字も知らない。
今どこにいるかも知らない。
来るわけがない。
そう思っていた。
でも。
もし行かなかったら。
あの日の約束を、自分だけが破る気がした。
だから行った。
バッグの中には、二十年間持ち続けた青い鳥の缶バッジが入っていた。
駅を降りる。
昔より少しだけ店が増えていた。
新しい建物もあった。
でも、空気は変わらない。
懐かしいというより、不思議な気持ちだった。
まるで昔の夢の続きを歩いているみたいだった。
公園はまだそこにあった。
ブランコも。
砂場も。
ベンチも。
全部少し古くなっていたけれど、ちゃんと残っていた。
あたしはベンチに座った。
昔、シンちゃんと並んで座ったベンチだった。
夕方の風が吹く。
ブランコが小さく揺れる。
誰もいない。
当然だ。
二十年前の約束を覚えている人間なんて、いるわけがない。
そう思いながら。
あたしは何度も公園の入口を見ていた。
来るはずがない。
本気でそう思っていた。
それなのに。
どこかで少しだけ期待している自分がいた。
ベンチで見た夢
時間だけが過ぎていった。
夕方の公園は静かだった。
子どもたちはもう帰っている。
犬の散歩をしていた人もいなくなった。
風が吹くたびに、木の葉が小さく揺れる。
あたしはベンチに座ったまま、公園の入口を見ていた。
誰も来ない。
当たり前だ。
二十年前の約束だぞ。
今ならわかる。
人生には、忘れてしまう約束の方が多い。
忘れたからといって、誰かが悪いわけでもない。
そういうものだ。
「だよな」
あたしは小さく笑った。
バッグの中から缶バッジを取り出す。
青い鳥は少し色あせていた。
でも二十年という時間を考えれば、むしろよく残っている方だった。
「返せなかったな」
独り言を言う。
もちろん相手はいない。
それでも、なんとなく口にしたくなった。
風が心地よかった。
電車を乗り継いで来たせいかもしれない。
朝から妙に緊張していたせいかもしれない。
まぶたが少しずつ重くなる。
目を閉じるつもりはなかった。
本当に少し休むだけのつもりだった。
でも気づくと、意識はゆっくり沈んでいった。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
懐かしい声だった。
目を開ける。
公園だった。
同じ公園。
でも何かが違う。
空の色が昔みたいに明るい。
ブランコも新しい。
砂場もきれいだ。
そして。
ベンチの前に、ひとりの男の子が立っていた。
あたしは思わず立ち上がった。
その顔を知っていたからだ。
「シンちゃん?」
男の子は笑った。
二十年前と同じ笑い方だった。
「久しぶり」
あたしは言葉を失った。
おかしい。
二十年経っている。
なのにシンちゃんは五歳のままだ。
夢だとわかっていた。
それでも嬉しかった。
「来たんだ」
あたしが言う。
シンちゃんはうなずいた。
「約束したから」
その答えが、妙にシンちゃんらしかった。
あたしは笑った。
少し泣きそうにもなった。
「ねえ」
「なに?」
「結局さ」
あたしは首をかしげる。
ずっと気になっていたことだった。
「シンちゃんって、本当はなんて名前だったの?」
男の子は吹き出した。
「ナナらしいな」
「だって忘れたんだもん」
「ひどいな」
そう言いながら、シンちゃんは笑っていた。
そして何かを言おうとした。
名前を教えるみたいに。
でも、その瞬間だった。
風が吹いた。
世界が揺れる。
公園の景色が、水面みたいに波打った。
シンちゃんの姿が少しずつ遠くなる。
「あっ――」
あたしは手を伸ばした。
でも届かなかった。
不思議な夢
目を開けると、夕暮れだった。
オレンジ色の光が公園を包んでいる。
ブランコは静かに揺れていた。
あたしはベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
夢だった。
そう思った。
当たり前だ。
二十年前の男の子が、五歳のまま現れるわけがない。
約束を守るためだけに現れるわけがない。
そんなこと、あるわけがない。
でも。
胸の奥には妙な温かさが残っていた。
懐かしい夢を見た後みたいな、不思議な感覚だった。
あたしは立ち上がろうとして、ふと手を見る。
何かを握っていた。
ゆっくり指を開く。
そこには、小さなおもちゃの指輪があった。
透明な赤い石。
少し安っぽい作り。
でも見間違えるはずがない。
二十年前。
あたしがシンちゃんに預けた指輪だった。
心臓が一度だけ大きく鳴った。
あたしは周囲を見回した。
公園には誰もいない。
ベンチも。
砂場も。
ブランコも。
どこにも。
風だけが吹いていた。
「まさか……」
思わず声が漏れる。
夢だった。
たぶん。
きっと。
でも。
夢だったなら、この指輪は何なんだろう。
あたしはバッグを開けた。
青い鳥の缶バッジが入っている。
二十年間、大事に持ち続けた缶バッジ。
シンちゃんから預かったままの缶バッジ。
そして手の中には、返ってきた指輪。
約束は守られていた。
少なくとも半分は。
あたしは笑った。
なんだか泣きそうだった。
「そっか」
誰もいない公園で呟く。
「返しに来てくれたんだ」
風が吹いた。
木の葉が揺れる。
返事はない。
でも、不思議と寂しくなかった。
あたしは缶バッジを取り出した。
青い鳥は二十年前より少し色褪せている。
それでも、ちゃんとそこにいた。
「これ、どうしようかな」
缶バッジを見つめながら言う。
返す相手は、もういないかもしれない。
もしかしたら、さっき本当に会ったのかもしれない。
全部夢だったのかもしれない。
正解はわからない。
でも。
ひとつだけ思った。
「いつか取りに来るのかな」
あたしは缶バッジをバッグに戻した。
指輪はポケットに入れる。
夕暮れの公園を振り返る。
そこには誰もいなかった。
それなのに。
誰かが約束を守った気配だけが、静かに残っていた。

約束のつづき
「……で?」
ミユが言った。
「終わり?」
「終わり」
あたしはコーヒーを飲んだ。
編集部の窓から午後の光が差し込んでいる。
二十五歳だったあの日から、それなりの時間が経っていた。
「いやいやいや」
ミユは納得していない顔をする。
「終わりじゃないでしょ」
「なんで?」
「だって絶対シンちゃん来てるじゃん」
あたしは笑った。
「来てないでしょ」
「来てるって」
「夢だよ」
「夢で物は増えないよ」
ミユは真顔だった。
冗談を言っている顔じゃない。
本気でそう思っている顔だった。
「だってさ」
ミユは続ける。
「二十年前の約束覚えてて、ナナも行って、シンちゃんも来て」
「なんかそういう話の方が好きだもん」
あたしは吹き出した。
「あんたの願望じゃない」
「願望だよ」
ミユはあっさり認めた。
「でも、ちょっと素敵じゃん」
その言葉に、あたしは少しだけ黙った。
素敵。
そうかもしれない。
もし本当に来ていたなら。
二十年前の約束を守るためだけに。
たった一度、指輪を返すためだけに。
そんなのは、少し素敵すぎる気もする。
「で?」
ミユが身を乗り出す。
「まだ待ってるんじゃないの?」
「誰を?」
「シンちゃん」
「待ってない待ってない」
即答だった。
「名字も知らないんだぞ」
「顔だってほとんど覚えてない」
「今会っても絶対わからない」
それは本当だった。
夢の中だからシンちゃんだとわかっただけで、現実で会ったらきっと気づけない。
「じゃあ缶バッジ捨てれば?」
ミユが言った。
あたしは黙った。
数秒だけ。
本当に数秒だけ。
「それは無理かな」
ミユが勝ち誇った顔をする。
嫌な顔だった。
完全に面白がっている。
「ほらー!」
「違うって」
「思い出だから」
「はいはい」
「本当だって」
あたしは苦笑した。
引き出しの奥には今も青い鳥の缶バッジがある。
返しそびれたままの缶バッジ。
たぶんこれからも持っていると思う。
理由はよくわからない。
ただ。
もし。
本当にもしも。
ある日突然。
「返して」
なんて言いながら現れたら。
その時は返そうと思う。
そんなことは起きないだろうけど。
たぶん。
きっと。
ミユはそんなあたしを見て、小さく笑った。
「ナナさんってさ」
「なによ」
「ちょっとだけ待ってるよね」
あたしは答えなかった。
代わりにコーヒーを飲んだ。
窓の外では風が吹いている。
どこか遠くの公園で、ブランコが揺れているような気がした。

