残業終わりの編集部。
時計を見ると、思ったより遅い時間になっていた。
パソコンを閉じたケンジが大きく伸びをする。
ケンジ:終わったー。
ユウカ:お疲れさまです。
ミサキ:珍しくちゃんと仕事してましたね。
ケンジ:お前らな。
ユウカ:今日はケンジさん頑張ってたよ。
ミサキ:二時間くらい。
ケンジ:十分だろ。
ユウカ:基準が低い。
三人で笑う。
帰ろうとしたところで、ケンジが何気なく言った。
ケンジ:飲んでくか?
ユウカ:え、行く。
ミサキ:早い。
ユウカ:だって今日金曜だし。
ケンジ:まだ水曜だ。
ユウカ:え?
ミサキ:終わってる。
ユウカ:うそでしょ。
ケンジ:疲れてんな。
そんな流れで三人はBAR恋古都へ向かった。
店内には静かな音楽が流れている。
カウンター席。
いつものようにグラスが並ぶ。
マスターも奥で仕込み中らしく、店内は思ったより静かだった。
ケンジ:何飲む?
ユウカ:とりあえずハイボール。
ミサキ:私は赤ワイン。
ケンジ:相変わらずだな。
ユウカ:ミサキって一年中ずっと赤ワイン飲んでそう。
ミサキ:失礼。
ユウカ:生まれた時から飲んでそう。
ミサキ:もっと失礼。
ケンジ:それ犯罪だからな。
また笑いが起きる。
仕事の話、編集部の話、最近見た映画。
そんな取り留めのない雑談がしばらく続いた。
そして二杯目に入った頃、ユウカがグラスの氷をくるくる回しながら言った。
ユウカ:なんかさ、私またやってるかも。
ミサキ:リセット?
ユウカ:そう。
ケンジ:またか。
ユウカ:まだ付き合ってもないんだけどね。なんか急に連絡返すの面倒になってきた。
ミサキ:早かったね今回は。
ユウカ:自分でも思う。
ケンジ:嫌いになったのか?
ユウカ:いや。むしろ良い人。ちゃんとしてるし、優しいし、一緒にいて楽しいし。
ケンジ:じゃあ何が問題なんだ。
ユウカ:それが分かんないんだよね。
ユウカは苦笑した。
ミサキはグラスを傾けながら、その様子を静かに見ている。
驚いていない。
たぶん何度も聞いてきた話なのだろう。
ユウカ:なんかさ。仲良くなりそうになると逃げたくなる時ない?
ケンジ:ない。
ユウカ:即答。
ミサキ:私はちょっと分かる。
ユウカ:でしょ?
ケンジ:面白くなってきたな。
ユウカ:面白くはないのよ。
ユウカは笑った。
でもその笑顔の奥には、少しだけ困ったような色が混じっていた。
仲良くなった後の方が怖い
ケンジ:でもよ。
ケンジ:仲良くなりそうだから逃げるってのは分かるようで分からんな。
ユウカ:私も分かんないんだよ。
ユウカ:嫌いになったわけじゃないの。
ユウカ:むしろ好き寄り。
ユウカ:だから意味分かんないじゃん?
ミサキ:いや、分かるよ。
ユウカ:え?
ミサキ:ユウカの場合、仲良くなる前じゃないでしょ。
ミサキ:仲良くなった後。
ミサキ:もっと仲良くなりそうな時。
ユウカ:・・・。
ケンジ:どう違うんだ?
ミサキ:ユウカって最初はむしろ得意じゃん。
ミサキ:初対面とか飲み会とか。
ミサキ:一週間くらいなら無敵。
ユウカ:褒めてる?
ミサキ:事実。
ミサキ:問題はその後。
ミサキ:相手がユウカのことを好きになり始めたり、信頼し始めたり、「もっと知りたい」ってなった辺りで急に逃げる。
ユウカ:やめて。
ミサキ:図星でしょ。
ユウカ:図星だけど。
ケンジは少し考えるようにグラスを傾けた。
ケンジ:じゃあ逆だな。
ユウカ:何が?
ケンジ:人が怖いんじゃない。
ケンジ:近付かれるのが怖いんだ。
ユウカ:・・・。
ミサキ:あ、それだ。
ユウカ:いやいやいや。
ユウカ:そんな大げさな話じゃないって。
ミサキ:大げさじゃない。
ミサキ:だってユウカ、自分の話あんまりしないじゃん。
ユウカ:してるよ。
ミサキ:する。
ミサキ:でも恋バナとか面白い話だけ。
ミサキ:本当に困ってることはあんまり言わない。
ユウカ:・・・。
ケンジ:そうなのか?
ミサキ:そう。
ミサキ:だから不思議だった。
ミサキ:ユウカ、友達多いのに。
ミサキ:親友って呼べる人は意外と少ないんだよね。
ユウカは返事をしなかった。
代わりにグラスの氷をゆっくり回す。
その仕草だけで、ミサキの言葉が外れていないことが分かった。
ユウカ:・・・なんかさ。
ユウカ:期待されるのが苦手なのかも。
ケンジ:期待?
ユウカ:うん。
ユウカ:最初は楽しいじゃん。
ユウカ:でも仲良くなってくると、なんか急に怖くなるんだよね。
ユウカ:相手が思ってるほど私は大した人じゃないし、って。
ミサキは黙ってワインを飲んだ。
たぶん、その言葉も何度か聞いたことがあるのだろう。
嫌われる前に、自分から離れる

しばらく沈黙が流れた。
BAR恋古都はこういう時間がある。
誰も急かさない。
答えを出そうともしない。
ただ言葉が出てくるのを待つ。
ケンジ:その人はどうなんだ?
ユウカ:どうって?
ケンジ:お前が面倒になってる相手。
ユウカ:良い人だよ。
ユウカ:ちゃんとしてるし、優しいし、一緒にいて楽しいし。
ミサキ:毎回聞くやつ。
ユウカ:だって本当にそうなんだもん。
ミサキ:で、相手は?
ユウカ:たぶん私のこと好きだと思う。
ケンジ:たぶん?
ユウカ:いや、かなり。
ミサキ:じゃあ始まってるじゃない。
ユウカ:だから怖いんだって。
ミサキが少しだけ眉を上げた。
ミサキ:ねえユウカ。
ミサキ:あんたさ。
ミサキ:嫌われる前に自分から離れてるだけじゃない?
ユウカが止まる。
グラスの氷だけが小さく鳴った。
ユウカ:・・・。
ケンジ:ほう。
ミサキ:だってさ。
ミサキ:ユウカ、自分から人を嫌いになった話ほとんどしないじゃない。
ミサキ:でも急に距離取ることはある。
ミサキ:しかも相手が近付いてきたタイミングで。
ユウカ:・・・そうかな。
ミサキ:そう。
ミサキ:付き合う前もそう。
ミサキ:友達もそう。
ミサキ:仲良くなりそうになると消える。
ユウカ:言い方。
ミサキ:事実でしょ。
ケンジ:でも分からんでもないな。
ユウカ:ケンジさんまで?
ケンジ:人間関係ってさ。
ケンジ:深くなるほど失う時も痛いからな。
ケンジ:最初から近付かなきゃ傷も浅い。
ユウカ:・・・。
ケンジ:無意識にやる奴はいるよ。
ユウカは何も言わなかった。
ただ、珍しく反論もしなかった。
その様子を見ながら、ミサキは静かにワインを飲んだ。
たぶんミサキは知っている。
ユウカが軽い女に見えて、実はそうではないことを。
そして誰よりも、人との距離に悩んでいることを。
「どうせいつか離れるし」が口ぐせだった
ケンジの言葉のあと。
ユウカはしばらく黙っていた。
珍しいな、とケンジは思った。
ユウカは基本的に黙らない。
困った時ほど冗談を言う。
笑ってごまかす。
でも今日は違った。
ユウカ:私さ。
ユウカ:昔からなんだよね。
ケンジ:何が。
ユウカ:どうせ離れるし、って考えるの。
ミサキは何も言わない。
ただ視線だけを向けている。
ユウカ:別に暗い意味じゃないんだよ?
ユウカ:学校の友達もそうだったし。
ユウカ:職場の人もそうだし。
ユウカ:彼氏もそう。
ユウカ:ずっと一緒なんてないじゃん、って。
ケンジ:まあな。
ユウカ:だから最初から期待しない方が楽だと思ってた。
ミサキ:楽だった?
ユウカ:・・・。
ミサキ:それ。
ミサキ:本当に楽だった?
ユウカは少し笑った。
でもその笑い方は、いつもの明るい笑顔ではなかった。
ユウカ:いや。
ユウカ:全然。
ユウカ:むしろ寂しい。
その言葉に、ケンジは少しだけ目を細めた。
たぶんこれが本音なんだろう。
ユウカ:仲良くなりたいんだよ。
ユウカ:長く付き合える彼氏も欲しいし。
ユウカ:親友も欲しいし。
ユウカ:一人は嫌。
ユウカ:でも近付くと逃げたくなる。
ユウカ:我ながら面倒くさいよね。
ミサキ:知ってる。
ユウカ:ひど。
ミサキ:でも。
ミサキ:面倒くさいのと悪いのは別じゃない?
ユウカ:・・・。
ミサキ:あんたさ。
ミサキ:ずっと自分のことを軽い女みたいに言うけど、本当は逆だと思う。
ユウカ:逆?
ミサキ:本当に軽い人は悩まない。
ミサキ:失っても平気だから。
ミサキ:あんたは失うのが怖いの。
ミサキ:だから先に離れる。
ユウカは何も言えなかった。
たぶん今夜だけで二度目の図星だった。
それでも残っている人がいる

ユウカは黙ったままグラスを見ていた。
普段なら何か言い返す。
冗談でも言って流す。
でも今日は言葉が出てこなかった。
ユウカ:なんかさ。
ユウカ:ミサキに言われると逃げ場ないんだよね。
ミサキ:追い込むからね。
ユウカ:最悪。
ミサキ:褒め言葉として受け取っておく。
ケンジが少し笑う。
二人のこういうやり取りを見ると、親しいのが分かる。
ケンジ:でもさ。
ケンジ:ひとつ不思議なんだけどよ。
ユウカ:うん?
ケンジ:そんなに人が怖いなら。
ケンジ:なんでミサキは大丈夫なんだ?
ユウカ:・・・。
ミサキ:あ。
ユウカ:それ聞く?
ケンジ:聞く。
ユウカ:分かんない。
ミサキ:適当。
ユウカ:いや本当に。
ユウカ:気付いたらいた。
ミサキ:告白みたいになってるけど。
ユウカ:やめて。
ミサキ:でも私は分かる。
ユウカ:何が?
ミサキ:私は追いかけないから。
ユウカが少しだけ顔を上げた。
ミサキ:連絡来なかったら来ないで別にいいし。
ミサキ:しばらく会わなくても平気だし。
ミサキ:でも会えば普通に話す。
ミサキ:ただそれだけ。
ユウカ:・・・。
ミサキ:たぶんユウカって。
ミサキ:「絶対離れないよ」より、「離れても別にいいよ」の方が安心するタイプでしょ。
ユウカは思わず笑った。
ユウカ:それはちょっと分かる。
ケンジ:難儀だな。
ユウカ:自分でも思う。
ケンジ:でもさ。
ケンジ:お前が人を切ってばっかりなら。
ケンジ:今ここに誰もいないだろ。
ユウカが黙る。
ケンジ:ミサキもいる。
ケンジ:編集部の連中もいる。
ケンジ:俺とも飲んでる。
ケンジ:全部リセットしてるなら残らないだろ。
ユウカ:・・・そうかも。
ケンジ:案外な。
ケンジ:お前が思ってるより、人は簡単には消えないぞ。
人間関係は、途中で面倒になるものだ

三人のグラスが少しずつ空いていく。
店内には静かなジャズが流れていた。
ユウカ:でもさ。
ユウカ:今の人も、たぶん連絡返さなくなったら終わると思う。
ミサキ:そう?
ユウカ:そうでしょ。
ユウカ:だって普通はそうじゃない?
ユウカ:面倒な女だし。
ミサキ:それ、自分で決めてるだけじゃない。
ユウカ:え?
ミサキ:相手が離れるって。
ミサキ:まだ何も起きてないのに。
ユウカは返事に詰まった。
それも図星だった。
ケンジ:まあな。
ケンジ:人間関係って不思議なんだよ。
ケンジ:続くと思った奴が消えることもあるし。
ケンジ:二度と会わないと思った奴と十年後に飲んでたりもする。
ユウカ:それは分かる。
ケンジ:だから先回りして答え出しても意味ないんだよ。
ケンジ:どうせ分からんから。
ケンジはハイボールを一口飲んだ。
ケンジ:あとさ。
ケンジ:人間関係なんて途中で面倒になるのが普通だぞ。
ユウカ:普通?
ケンジ:普通。
ケンジ:恋愛もそう。
ケンジ:友達もそう。
ケンジ:夫婦なんかもっとそう。
ミサキ:重みが違う。
ケンジ:面倒になる日なんていくらでもある。
ケンジ:でもその度に全部捨ててたら誰も残らん。
ユウカ:・・・。
ケンジ:だからな。
ケンジ:面倒になった時に判断しない方がいい。
ケンジ:酔ってる時に人生決めないのと同じだ。
ミサキ:それは確かに。
ユウカ:名言っぽい。
ケンジ:だろ?
ミサキ:自分で言うのは違う。
三人が笑う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
ユウカの表情が軽くなったように見えた。
ユウカ:じゃあさ。
ユウカ:今回はもうちょっとだけ頑張ってみようかな。
ミサキ:別に頑張らなくていいけど。
ミサキ:逃げるのを少しだけ先延ばしにすれば?
ユウカ:そのアドバイス雑じゃない?
ミサキ:でも今のあんたにはちょうどいい。
ユウカは笑った。
今度はいつもの笑顔に少し近かった。
帰り道

店を出ると夜風が気持ちよかった。
昼間の暑さがほんのり残っている。
三人は駅へ向かって歩いていた。
ケンジ:じゃあな。
ミサキ:お疲れさまです。
ユウカ:ごちそうさまでした。
ケンジは駅の反対方向へ消えていく。
残ったのはミサキとユウカだった。
しばらく無言で歩く。
別に気まずいわけではない。
この二人はいつもそうだった。
話さない時間も普通にある。
ユウカ:ねえ。
ミサキ:なに。
ユウカ:今日ちょっと刺しすぎじゃなかった?
ミサキ:そう?
ユウカ:そう。
ミサキ:でも外してなかったでしょ。
ユウカ:それが腹立つんだよ。
ミサキが少しだけ笑う。
ユウカ:なんかさ。
ユウカ:私、自分ではもっと気楽な人間だと思ってた。
ミサキ:全然違うじゃない。
ユウカ:ひど。
ミサキ:だってそうでしょ。
ミサキ:気楽な人間はそんなに悩まない。
ユウカ:・・・。
ミサキ:それに。
ミサキ:本当に一人が好きなら、こんな相談しないし。
ユウカは苦笑した。
それも図星だった。
ユウカ:ねえ。
ユウカ:ミサキはさ。
ユウカ:なんで私とまだ仲良いの?
ミサキ:今さら?
ユウカ:今さら。
ミサキ:知らない。
ユウカ:適当だなぁ。
ミサキ:でも。
ミサキ:あんたが思ってるより、私はあんたのこと好きなんじゃない?
ユウカ:・・・。
ミサキ:変な意味じゃなくてね。
ユウカ:分かってるよ。
二人は少し笑った。
駅の改札が見えてくる。
ミサキ:じゃあ。
ミサキ:その人、もう少しだけ様子見たら?
ユウカ:うん。
ミサキ:逃げたくなったら?
ユウカ:逃げる前に一回考える。
ミサキ:それで十分。
改札の前で二人は別れた。
ユウカ:またね。
ミサキ:またね。
電車を待ちながら。
ユウカはスマホを取り出した。
返信していなかったメッセージを開く。
少し考えてから。
短い返事を送った。
それは大したことではない。
恋が始まる瞬間でもない。
人生が変わるわけでもない。
でも。
逃げるのを少しだけ先延ばしにした夜だった。




