雨は、 さっきまで降っていた。
道には、 まだ小さな水たまりが残っている。
虹色の猫ナツメは、 その水たまりを避けなかった。
ぺた。
ぺた。
前足が少し汚れる。
「洗えば落ちるやろ」
そう言って、 また歩いた。
細い路地へ入る。
古い家。
閉まった店。
何を売っていたのか分からない店。
その中に、 一軒だけ明かりがついていた。
小さな店だった。
看板には、 こう書かれている。
『人生の下書き屋』
ナツメは立ち止まった。
「人生にも下書きあるんか」
看板の下。
小さな札がある。
『清書済みの人生は取り扱っておりません』
「完成品ないんか」
ナツメは、 扉を押した。
チリン。
店の中は、 紙の匂いがした。
古い紙。
新しい紙。
消しゴムの匂い。
インクの匂い。
棚には、 紙の束が並んでいる。
本ではない。
どれも、 途中だった。
文字が途中で消えている。
赤い線が引かれている。
同じ文章を、 何度も書き直している。
一ページ丸ごと、 破られているものもあった。
ナツメは、 一冊を覗き込む。
『幸せになる』
赤線。
『お金持ちになる』
赤線。
『静かに暮らす』
赤線。
その下。
『やっぱり幸せになる』
ナツメは首をかしげた。
「戻っとるやん」
店の奥から、 声がした。
「よくあります」
ワニオだった。
今日は、 丸い眼鏡をかけている。
白いシャツ。
黒いベスト。
胸元には、 一本の赤いペン。
ナツメは聞いた。
「何屋なん」
ワニオは、 丁寧に頭を下げる。
「人生の下書きを保管しております」
「人間は」
「思っていたより書き直しますので」
ナツメは、 棚を見上げた。
紙。
紙。
紙。
店の奥まで、 ずっと続いている。
「こんなにか」
「はい」
ワニオは答える。
「予定通りだった人生は」
「現在、一冊も確認されておりません」
ナツメは笑った。
「人間、下書き下手やな」
ワニオは、 少し考える。
「下手なのでしょうか」
「私は」
「よく書き直しているだけだと思います」
ナツメは、 もう一度棚を見る。
そのときだった。
見覚えのある名前を見つける。
『ソウタ』
ナツメは、 前足で引っ張り出した。
表紙には、 小さく書かれている。
『初稿』
ナツメは一ページ目を開いた。
最初の一行。
『一人の女性を、ずっと好きになる』
ナツメは、 しばらく黙った。
ワニオを見る。
もう一度、 紙を見る。
「誰の話や」
ワニオは答えた。
「ソウタさんです」
ナツメは、 静かにページをめくった。
一ページ目から、 太い赤線が引かれていた。

ソウタの初稿は、別の恋愛作品だった

ナツメは、 太い赤線の下を見た。
『高校一年』
『同じクラスの女の子に一目惚れ』
赤線。
その下。
『高校二年』
『図書室で見かけた先輩に一目惚れ』
赤線。
ページをめくる。
『大学一年』
『入学式で一目惚れ』
赤線。
次。
『カフェで一目惚れ』
次。
『駅で一目惚れ』
次。
『友達の友達に一目惚れ』
ナツメは、 ページをめくる前足を止めた。
「多ない?」
ワニオは答える。
「まだ前半です」
ナツメは、 本を閉じかけた。
「もうええわ」
「最後までお読みになりますか」
「疲れるねん」
そのとき、 店の扉が開いた。
チリン。
ソウタだった。
「こんにちは〜」
店へ入る。
ナツメを見る。
その前にある下書きを見る。
表紙。
『ソウタ』
ソウタの足が止まった。
「あ」
ナツメは聞いた。
「一人の女性をずっと好きになる予定やったん?」
ソウタは、 少し照れた。
「最初はね〜」
ナツメは下書きを持ち上げる。
「予定と実績が離れすぎや」
ワニオも、 下書きを確認する。
「初稿とは別作品になっています」
ソウタは笑った。
「仕方ないよ」
「好きになっちゃうんだから」
ナツメは、 もう一度ページを開いた。
よく見る。
一目惚れ。
赤線。
失恋。
赤線。
また一目惚れ。
また赤線。
ページは、 修正だらけだった。
「こんだけ失敗したら」
「普通、もう書くんやめへん?」
ソウタは首をかしげた。
「なんで?」
ナツメも、 首をかしげた。
「なんでって」
「また赤線引かれるかもしれんやろ」
ソウタは、 少し考えた。
そして笑った。
「でも」
「そのときは全部、本気だったよ」
店の中が、 少し静かになった。
ナツメは、 下書きを見る。
赤線だらけ。
失敗だらけ。
予定とは、 まるで違う。
でも。
ナツメは気づいた。
破られたページが、 一枚もなかった。
どの恋も。
どの失恋も。
全部、 残してある。
ナツメは、 下書きを閉じた。
「変な作品やな」
ソウタは笑う。
「まだ途中だからね〜」
ワニオは、 『ソウタ』を棚へ戻した。
「連載中です」
ナツメは言った。
「打ち切られんようにな」
ソウタは、 よく分からないまま笑っていた。
ナツメは次の棚へ歩く。
一冊だけ、 妙に消しゴムの跡が多い下書きがあった。
紙が少し薄くなっている。
表紙。
『ミサキ』
ナツメは、 嫌な予感がした。
一ページ目を開く。
そこには、 こう書かれていた。
『普通の女の子になる』
ナツメは、 店の奥にいるワニオを見た。
「偽物ちゃう?」
ワニオは答えた。
「原本です」

ミサキは、自分で物語を書き換えていた

ナツメは、 もう一度読んだ。
『普通の女の子になる』
やはり、 そう書いてある。
「ミサキやんな」
ワニオはうなずいた。
「ミサキさんです」
「同姓同名ちゃう?」
「本人確認済みです」
ナツメは、 仕方なく続きを読んだ。
『普通の女の子になる』
太い赤線。
その下。
『愛される女になる』
赤線。
『綺麗な女になる』
赤線。
『誰にも負けない女になる』
赤線。
『欲しいものを手に入れる』
少し間が空いている。
その下。
大きな文字。
『全部欲しい』
ナツメは、 静かに下書きを閉じた。
「知っとるミサキになったわ」
ワニオはうなずく。
「現在の版に近いですね」
ナツメは、 もう一度下書きを開いた。
よく見る。
文字よりも、 気になるものがあった。
消しゴムの跡。
多い。
とにかく多い。
何度も消している。
同じ場所を、 何度も。
紙が薄くなっていた。
一部は、 向こう側が透けている。
「消しすぎやろ」
「はい」
ワニオは答える。
「この方は編集回数が多いです」
「店内でも上位です」
「ランキングあるんか」
そのとき。
ナツメの後ろから、 声がした。
「何見てるの?」
ミサキだった。
ナツメは、 下書きを前足で隠した。
隠れなかった。
猫の前足だった。
ミサキは表紙を見る。
『ミサキ』
「それ、私のじゃない」
「せやな」
「勝手に見たの?」
「置いてあった」
「勝手に見たのね」
ナツメは、 ワニオを見た。
ワニオは、 棚の整理を始めた。
助ける気はないらしい。
ミサキは、 ナツメから下書きを取る。
ページをめくる。
『普通の女の子になる』
少しだけ、 笑った。
ナツメは聞く。
「普通になりたかったん?」
ミサキは、 ページを見たまま答えた。
「昔はね」
「なんでやめたん」
「つまらなかったから」
ナツメは笑った。
「ミサキやな」
ミサキは、 次のページをめくる。
『愛される女になる』
赤線。
『綺麗な女になる』
赤線。
『誰にも負けない女になる』
赤線。
そして。
『全部欲しい』
ミサキは、 その文字を指でなぞった。
「これも、そのうち消すかもしれないわね」
ナツメは首をかしげる。
「まだ欲しいもん増えるんか」
「分からない」
ミサキは笑う。
「完成してないもの」
ワニオが、 棚の奥から言った。
「ミサキさんの下書きは」
「余白を多めに確保しております」
ナツメは聞く。
「なんでや」
ワニオは答えた。
「増える可能性がありますので」
ミサキは満足そうにうなずいた。
「分かってるじゃない」
ナツメは思った。
ソウタの人生は、 予定から外れ続けていた。
ミサキの人生は、 自分で予定を書き換え続けていた。
どちらも、 初稿とは違う。
でも。
ミサキの下書きは、 不思議と古く見えなかった。
消して。
書いて。
また消して。
紙は薄くなっている。
それでも、 文字は一番濃かった。
ナツメは、 棚へ戻された下書きを見た。
「書き直しすぎて」
「原型ないやん」
ミサキは振り返る。
「原型なんて必要?」
ナツメは、 少し考えた。
「知らん」
ミサキは笑って、 店を出ていった。
チリン。
ナツメは、 次の棚へ向かう。
そこには、 同じ言葉を何度も書いては消した下書きがあった。
『適当に生きる』
赤線。
『もう少し適当に生きる』
赤線。
『次は気にしない』
赤線。
ナツメは、 表紙を見る前に言った。
「リクやろ」
ワニオは答えた。
「正解です」
リクは、「適当に生きる」を何度も書いていた

ナツメは、 下書きを棚から引っ張り出した。
『リク』
予想通りだった。
一ページ目を開く。
文字が綺麗だった。
行も揃っている。
余白も均等。
赤線まで、 定規で引いたみたいに真っ直ぐだった。
ナツメは言った。
「下書きまで真面目やな」
ワニオはうなずく。
「一度、下書きの下書きを提出されています」
「病気やろ」
「性格です」
ナツメは、 ページをめくった。
紙の隅。
小さな文字。
『適当に生きる』
赤線。
次のページ。
『もう少し適当に生きる』
赤線。
さらに次。
『次は気にしない』
赤線。
『人の目を気にしない』
赤線。
『失敗しても引きずらない』
赤線。
『考えすぎない』
赤線。
ナツメは、 ページを閉じた。
「一個もできてへん」
ワニオは帳簿を見る。
「達成率は低めです」
「数字にしたるな」
そのとき。
店の入口から、 声がした。
「何の数字ですか?」
リクだった。
ナツメは、 下書きを前足で隠した。
やはり隠れなかった。
リクは表紙を見る。
『リク』
少し黙った。
「……見ました?」
ナツメは答える。
「達成率低いで」
「見たんですね」
リクは、 小さくため息をついた。
ナツメは下書きを渡す。
リクは、 ページをめくった。
『適当に生きる』
少し笑う。
「これ、何回書いたんだろ」
ワニオは答えた。
「現在、二十七回です」
リクは顔を上げる。
「数えてるんですか」
「保管業務ですので」
ナツメは聞いた。
「そんな適当になりたいん?」
リクは少し考えた。
「適当になりたいというか」
「もう少し楽に生きたいんです」
「ちゃんとしようと思ってるわけじゃないんですけど」
「気づくと、ちゃんとしようとしてる」
ナツメは、 リクの下書きを覗く。
確かにそうだった。
『気にしない』
と書いた次のページには、 誰かに言われた一言について、 びっしり書いてある。
『考えすぎない』
と書いた次のページには、 三つの可能性が整理されている。
『適当にやる』
と書いた次のページには、 手順が七つあった。
ナツメは言った。
「適当にやる手順、多ない?」
リクは、 何も言えなかった。
ワニオが静かに言う。
「こちらは」
「修正というより、文体ですね」
ナツメは、 ワニオを見る。
「文体?」
「はい」
ワニオは、 リクの下書きを指した。
「何を書いても」
「リクさんの文章になります」
リクは、 下書きを見つめた。
『適当に生きる』
その文字にも、 赤線が引いてある。
「直した方がいいと思ってました」
ナツメは聞く。
「何を」
「こういうところです」
リクは、 ページを指した。
「考えすぎるところとか」
「気にしすぎるところとか」
「ちゃんとやろうとするところとか」
ナツメは、 少し考えた。
「全部消したら」
「誰の下書きになるんやろな」
リクは黙った。
ワニオも、 何も言わなかった。
店の中で、 紙をめくる音だけがした。
リクは、 赤いペンを手に取った。
『適当に生きる』
その下に、 何かを書く。
『たまには』
ナツメは覗き込む。
「弱なったな」
リクは笑った。
「これくらいなら、できるかもしれません」
ワニオは、 下書きを受け取った。
「第二十八稿として保管します」
「また数えるんですね」
「保管業務ですので」
リクは苦笑して、 店を出ていった。
チリン。
ナツメは、 棚に戻された下書きを見た。
直したいところ。
消したいところ。
何度書き直しても、 同じ癖が出る。
ナツメは言った。
「人生にも字の癖あるんやな」
ワニオは答えた。
「本人には、一番読みにくいようです」
ナツメは、 次の棚へ歩いた。
一冊だけ、 途中から真っ白な下書きがあった。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
全部、 白紙。
ナツメは表紙を見る。
『ケンジ』
「書くん飽きたんか」
店の奥から、 ギターの音が聞こえた。

ケンジの下書きは、途中から白紙だった

店の奥から、 ギターの音が聞こえていた。
ぽろん。
ぽろん。
上手いのか。
適当に弾いているのか。
ナツメには、 よく分からなかった。
「ケンジおるん?」
ワニオは答えた。
「おります」
「なぜか店内で弾いています」
「止めへんの?」
「営業妨害になるほど上手くありませんので」
「聞こえたら怒るで」
ギターの音が止まった。
「聞こえてるよ」
ケンジが、 棚の向こうから顔を出した。
ワニオは丁寧に頭を下げる。
「失礼いたしました」
「思ってはいるんだな」
ナツメは、 『ケンジ』と書かれた下書きを開いた。
最初の方は、 文字が多かった。
とにかく多い。
『音楽をやる』
『有名になる』
『大きなステージに立つ』
『好きなことで生きる』
次のページ。
『結婚する』
『家を買う』
『いい父親になる』
『四十歳までに落ち着く』
ナツメは、 ケンジを見た。
「落ち着いた?」
ケンジは笑った。
「どう見える?」
ナツメは、 ワニオを見る。
「私に聞かないでください」
ナツメは、 またページをめくった。
予定。
予定。
予定。
若い頃のケンジは、 未来をびっしり書いていた。
何歳で。
何をして。
どこにいて。
誰といる。
人生の余白を、 全部埋めるみたいに。
ナツメは、 さらにページをめくった。
そして。
文字がなくなった。
白紙。
次も。
白紙。
その次も。
白紙。
ナツメは、 何ページもめくる。
何も書いていない。
「書くん飽きたん?」
ケンジは笑った。
「違うよ」
「書くことなくなった?」
「それも違う」
ナツメは首をかしげる。
ケンジは、 ナツメの隣へ座った。
白紙を見る。
「決めなくなったんだ」
ナツメは聞く。
「何を」
「先のこと」
ケンジは、 最初の方のページをめくった。
『有名になる』
『結婚する』
『家を買う』
『四十歳までに落ち着く』
ケンジは笑った。
「若い頃はさ」
「人生って、先に書いておくものだと思ってたんだよ」
「予定通りに進めば、うまくいってる」
「違ったら、失敗」
ナツメは、 赤線だらけのページを見る。
予定通りにならなかったことが、 たくさんあった。
ケンジは続ける。
「でも」
「途中から面倒になった」
ナツメは顔を上げた。
「急に雑やな」
「大人なんてそんなもんだよ」
ケンジは笑う。
「明日のことは、明日の俺が書けばいい」
「今日の俺が勝手に決めるのも悪いだろ」
ナツメは、 白紙を見る。
何もない。
でも。
不思議と、 空っぽには見えなかった。
ワニオが、 棚の奥から言った。
「ケンジさんは」
「下書きと本編を同時進行されています」
ナツメは笑った。
「締切ギリギリの作家やな」
ケンジは、 ギターを持ち上げる。
「毎日締切だよ」
また、 ギターを鳴らす。
ぽろん。
ナツメは、 白紙のページをめくった。
まだ、 たくさん残っている。
「怖ないん?」
ケンジは聞き返す。
「何が?」
「何も決まってへんの」
ケンジは、 少し考えた。
「怖いよ」
ナツメは、 少し意外そうにケンジを見る。
ケンジは笑った。
「でも」
「書いてあるから安心ってわけでもなかったからな」
ナツメは、 最初のページを見る。
予定でいっぱい。
最後のページを見る。
真っ白。
どちらが正しいのか。
ナツメには、 分からなかった。
たぶん。
ケンジにも、 分かっていない。
ナツメは下書きを閉じた。
「適当な人生やな」
ケンジは笑う。
「ありがとう」
「褒めてへんで」
「知ってるよ」
ケンジは、 ギターを持って店を出ていった。
チリン。
ギターの音も、 遠くなった。
店の中が、 静かになる。
ナツメは、 棚を見上げた。
『ソウタ』
『ミサキ』
『リク』
『ケンジ』
みんな、 下書きがあった。
ナツメは、 棚の間を歩き始めた。
何かを探すように。
一列目。
二列目。
三列目。
やがて、 店の一番奥まで来た。
ナツメは言った。
「ワニオ」
「はい」
「ワシの、ないで」

ナツメの下書きは、どこにもなかった

「ワシの、ないで」
ナツメは、 もう一度棚を見上げた。
『ミユ』
『ナナ』
『マリ』
『アカリ』
『ハルキ』
『シュウ』
『ツムギ』
知っている名前が、 たくさん並んでいる。
知らない名前は、 もっと並んでいる。
でも。
『ナツメ』
その名前だけが、 どこにもなかった。
ナツメは、 棚の一番下を覗いた。
ない。
棚の上を見る。
ない。
隣の棚。
ない。
ワニオは、 帳簿を確認した。
「ありません」
ナツメは振り返る。
「捨てたんか」
「捨てておりません」
「なくした?」
「なくしておりません」
「ほな、どこや」
ワニオは答えた。
「提出されていません」
ナツメは黙った。
少し考える。
「締切知らんかったわ」
ワニオは、 帳簿を閉じた。
「締切はありません」
「ほな、ええやん」
ナツメは笑った。
いつもの顔だった。
いつもの声だった。
それから、 また棚の間を歩いた。
『ミユ』
少しだけ、 表紙がへこんでいる。
『ナナ』
ページの端が、 何度も折られている。
『マリ』
途中から、 紙の色が少し違う。
『アカリ』
文字が大きい。
『ハルキ』
余白に、 小さなギターの絵がある。
みんな、 何かを書いていた。
消して。
書いて。
間違えて。
また書いて。
ナツメは、 棚の前に座った。
尻尾を、 前足に巻く。
ワニオは何も言わなかった。
店の中で、 時計の音がする。
カチ。
カチ。
ナツメは聞いた。
「下書きないやつもおるん?」
ワニオは答える。
「おります」
「多い?」
「少ないです」
ナツメは、 少しだけ耳を動かした。
「珍しいんやな」
「はい」
「理由は?」
ワニオは、 少し考えた。
「書かなかったのか」
「書けなかったのか」
「書く必要がなかったのか」
「こちらでは分かりません」
ナツメは笑った。
「店のくせに役立たんな」
「保管が専門ですので」
「知っとる」
ナツメは、 もう一度棚を見る。
ソウタは、 予定と違う人生を書いていた。
ミサキは、 自分で何度も書き直していた。
リクは、 消しても同じ文体になった。
ケンジは、 途中から何も決めなくなった。
ナツメは。
何も書いていなかった。
「ワシ」
ナツメは言った。
「何になる予定やったんやろな」
ワニオは、 ナツメを見る。
少し考えた。
「猫ではないでしょうか」
ナツメは、 ワニオを見た。
「見たら分かるわ」
「申し訳ありません」
ナツメは笑った。
少しだけ、 いつもの調子に戻った。
窓の外を見る。
雨は、 もう完全に止んでいる。
道には、 まだ水たまりが残っていた。
ナツメは立ち上がる。
「帰るわ」
ワニオは、 丁寧に頭を下げた。
「ご来店ありがとうございました」
ナツメは、 入口へ向かう。
その途中。
小さな机の横を通った。
机の上。
一枚だけ。
真っ白な紙が置かれていた。
ナツメは、 足を止めた。
一行目
机の上に、 一枚の白紙があった。
何も書かれていない。
赤線もない。
消しゴムの跡もない。
折り目もない。
ただの、 白い紙だった。
ナツメは聞いた。
「これ誰の」
ワニオは、 机を見る。
「余った紙です」
「余ったん?」
「発注数を間違えました」
ナツメは笑った。
「店長向いてへんな」
「保管は得意です」
「知っとる」
ナツメは、 机へ飛び乗った。
白紙の前に座る。
じっと見る。
何もない。
ソウタのような、 最初の予定もない。
ミサキのような、 書き直した文字もない。
リクのような、 何度も出てくる癖もない。
ケンジのように、 途中から白紙になったわけでもない。
最初から、 白かった。
ナツメは、 机の上を見る。
赤いペン。
黒いペン。
鉛筆。
消しゴム。
ナツメは、 前足を見る。
「猫やしな」
ワニオは答えた。
「はい」
「ペンは難しいと思います」
「知っとる」
ナツメは、 もう一度前足を見る。
少し汚れていた。
雨上がりの道。
水たまり。
細い路地。
ここまで歩いてきた。
泥が、 少しだけついている。
ナツメは、 白紙の上に前足を置いた。
ぺた。
前足を上げる。
白い紙の真ん中。
小さな足跡が残った。
ワニオは言った。
「汚れました」
ナツメは、 足跡を見る。
少し歪んでいる。
綺麗でもない。
文字でもない。
ナツメは笑った。
「一行目や」
ワニオは、 何も言わなかった。
ナツメは机から降りる。
そのまま、 店を出ていった。
チリン。
路地には、 まだ水たまりが残っている。
ナツメは、 また避けずに歩いた。
ぺた。
ぺた。
道の上に、 小さな足跡が続いていく。
人生の下書き屋。
閉店後。
ワニオは、 机の上の白紙を見た。
しばらく考える。
そして。
棚に、 一つだけ空いていた場所へ、 その紙を置いた。
ラベルは、 つけなかった。



