朝。
ミユは駅までの道を、軽い足取りで歩いていた。
ミユ:今日はなんかいい日になりそう♪
そんな予感がしていた。
空は青い。
風も気持ちいい。
お気に入りの音楽を聴きながら、自然と鼻歌まで出る。
電車に乗ると、ちょうど一つだけ席が空いていた。
ミユ:ラッキー♪
そう思って座ろうとした、その時。
目の前に杖をついたおばあさんが乗ってきた。
ミユ:あ、どうぞ!
ミユはすぐ立ち上がった。
すると、おばあさんは笑顔で首を振る。
おばあさん:ありがとうねぇ。
おばあさん:でも次で降りるから大丈夫。
ミユ:あっ……そうなんですね。
少しだけ照れくさい空気が流れる。
結局、その席には誰も座らなかった。
ミユ:……。
ミユ:ま、まぁ、こんなこともあるよね!
この時のミユは、まだ知らなかった。
今日は「何をやってもうまくいかない日」になることを。

良かれと思ったことが、全部裏目に出る日
編集部に着いたミユは、時計を見た。
ミユ:あれ?
ミユ:今日、いつもより二十分も早い!
まだ誰も来ていない。
ミユ:せっかくだし、掃除でもしようかな♪
机を拭いて。
床を掃いて。
給湯スペースもきれいにする。
ミユ:今日は気が利く女だなぁ、あたし♪
そう思った瞬間だった。
ガチャン。
ミユ:……え。
足元を見る。
マリがいつも使っているお気に入りのマグカップが、床で粉々になっていた。
ミユ:うそぉぉぉ……。
タイミング悪く、そこへマリがやってきた。
マリ:おはよう。
ミユ:マ、マリさん、ごめんなさい!
ミユ:掃除してたらぶつけちゃって……。
マリは割れたカップを見ると、少し笑った。
マリ:ケガはしてない?
ミユ:え?
マリ:カップはまた買えるから。
マリ:ミユちゃんが無事なら、それで十分よ。
ミユ:うぅ……。
ミユ:優しくされると、余計に申し訳ない……。
昼休み。
コンビニへ向かう途中。
後ろから人が来ていたので、ミユはドアを押さえた。
ミユ:どうぞ♪
ところが、その人は入口でスマホを取り出し、その場で立ち止まってしまう。
ミユ:あれ……。
ミユ:まだ入らないの!?
数秒後。
お互い気まずそうに会釈をして、その場を離れた。
ミユ:なんなの今日ぉ……。
ため息をつきながら編集部へ戻ると、今度はコピー用紙が少なくなっていることに気づく。
ミユ:補充しとこ!
数分後。
ユキノ:ミユちゃん。
ミユ:はい?
ユキノ:コピー機、全部A3用紙になってる(笑)
ミユ:……。
ミユ:もう今日は、何もしない方が世の中のためかもしれない……。
もう今日は帰りたい……
夕方。
編集部を出たミユは、大きくため息をついた。
ミユ:はぁ……。
ミユ:今日、何やってもダメだったなぁ。
誰かを困らせようと思ったわけじゃない。
むしろ。
全部、良かれと思ってやったことだった。
それなのに。
席を譲れば断られる。
掃除をすればコップを割る。
親切のつもりが気まずくなる。
手伝ったつもりが仕事を増やす。
ミユ:もう……。
ミユ:あたし、何か悪いことした?
答えてくれる人はいない。
気づけば足は、いつもの公園へ向かっていた。
池のほとり。
いつものベンチ。
やっぱり今日も、ワニオが座っていた。
相変わらず池を見ている。
ミユ:ワニオー。
ワニオ:こんにちは。
ワニオ:今日は少し元気がありませんね。
ミユ:聞いてよぉ……。
ミユはベンチに座ると、今日あった出来事を最初から最後まで話した。
席を譲ったこと。
マグカップを割ってしまったこと。
コンビニのドアのこと。
コピー用紙のこと。
全部話し終えると、大きく空を見上げた。
ミユ:なんなの今日!
ミユ:良いことしようとしただけなのに!
ワニオは何も言わず、池の方へ視線を向けた。
一羽のカモが、水の中へくちばしを入れる。
しかし。
魚は逃げてしまった。
もう一度。
また逃げた。
ワニオは、その様子を静かに眺めながら口を開いた。
ワニオ:今日は、あのカモも少し苦戦しているようです。
今日は、魚が逃げる日なのかもしれません
ミユも池をのぞき込んだ。
ミユ:あ、本当だ。
カモはもう一度、水の中へくちばしを入れる。
しかし。
また魚は、するりと逃げていった。
ミユ:三回目だ。
ワニオ:はい。
ワニオ:今日は魚の方が少し速いようですね。
ミユ:カモも、落ち込むのかな。
ワニオ:どうでしょう。
ワニオ:少なくとも、「自分には才能がない」とは考えていない気がします。
ミユは思わず笑った。
ミユ:たしかに。
ミユ:そんなこと考えてたら、ご飯食べられないもんね。
ワニオ:人類は、一日うまくいかないと。
ワニオ:「自分はダメだ」と考えることがあります。
ワニオ:ですが。
ワニオ:今日は席を譲りました。
ワニオ:掃除もしました。
ワニオ:ドアも押さえました。
ワニオ:コピー用紙も補充しようとしました。
ワニオ:全部、人のために動いています。
ミユ:……うん。
ワニオ:失敗したことと。
ワニオ:優しい行動をしたことは、別のお話です。
ワニオ:今日は結果がうまくいかなかっただけで、行動まで間違っていたわけではありません。
ミユは少しだけ黙った。
その言葉をゆっくり考える。
ミユ:そっか……。
ミユ:なんか今日一日、全部ダメだった気がしてた。
ワニオ:いいえ。
ワニオ:今日は。
ワニオ:魚が逃げる日だっただけです。
ワニオ:明日は、捕まる日かもしれません。
その言葉に、ミユはようやく自然な笑顔を見せた。

今日は終わり。明日はまだ始まっていません
池を渡る風が、少しだけ涼しくなってきた。
夕日が水面をオレンジ色に染めている。
ミユ:なんかさ。
ミユ:今日一日、「あたし何やってるんだろ」って思ってた。
ワニオ:そういう日もあります。
ミユ:明日もこんな日だったらどうしよう。
ワニオは少しだけ首をかしげた。
ワニオ:人類は。
ワニオ:今日と明日を、つなげて考えすぎる気がします。
ミユ:え?
ワニオ:今日は今日です。
ワニオ:明日は、まだ始まっていません。
ワニオ:今日うまくいかなかったからといって、明日もうまくいかないとは決まっていません。
ミユはその言葉を聞いて、小さく笑った。
ミユ:そうか。
ミユ:まだ始まってもいないのに、勝手に明日まで落ち込んでた。
ワニオ:はい。
ワニオ:それは少し、もったいないですね。
ミユ:じゃあ今日は、美味しいもの食べて、お風呂入って、早く寝る!
ワニオ:良い判断です。
ミユ:明日は魚、捕まえられるかな。
ワニオ:はい。
ワニオ:それでも逃げたら。
ワニオ:また次を狙えばいいだけです。
ミユは立ち上がると、大きく伸びをした。
ミユ:ありがと、ワニオ!
ミユ:なんか元気出た!
そう言って、公園をあとにする。
ワニオはその後ろ姿を見送りながら、もう一度池へ目を向けた。
さっきまで魚を逃がしていたカモが。
今度は小さな魚を一匹、上手に捕まえていた。
ワニオ:……。
ワニオ:少し遅かっただけでしたね。


