仕事終わりの夜。
ナナ、ミカコ、ユキノの三人は、駅から少し離れた焼き鳥屋にいた。
カウンターの向こうでは炭火が赤く揺れ、時折、脂の落ちる音と一緒に香ばしい煙が立ち上る。
テーブルには、ねぎま、つくね、ぼんじり、皮。
そして、それぞれのグラス。
ナナ:「ねえ。二人ともさ」
ミカコ:「なに」
ナナ:「友達の彼氏見て、“いいなあ”って思ったことある?」
ミカコが、ハイボールのグラスを口元まで運んだところで止まった。
ユキノも焼き鳥の串を持ったまま、ナナを見る。
ユキノ:「……いいなあ?」
ナナ:「そう。いいなあ」
ミカコ:「その“いいなあ”の意味による」
ナナ:「出た。面倒くさいやつ」
ミカコ:「大事でしょ。『素敵な彼氏だね』なのか、『私もああいう彼氏が欲しい』なのか、『あの彼氏が欲しい』なのかで、だいぶ話が変わる」
ナナ:「最後のは違うわよ!」
ユキノ:「そこまでいくと、今日のテーマが急に物騒になるわね」
ナナ:「友達の彼氏を奪いたいって話じゃないの。そうじゃなくてさ」
ナナは、ねぎまを一本持ち上げる。
ナナ:「友達の彼氏がすっごく優しかったり、友達のこと大事にしてるの見たりして。“いいなあ、こういう彼氏”って思うことあるじゃん?」
ミカコ:「まあ、それなら」
ナナ:「あるんじゃん」
ミカコ:「まだ“ある”とは言ってない」
ナナ:「めんどくさ!」
ユキノが小さく笑いながらグラスを傾ける。
ユキノ:「でも、分かる気はするかな。友達の恋愛を見ていて、羨ましいなって思う瞬間はあるかもしれない」
ナナ:「でしょ?」
ユキノ:「ただ、私は彼氏本人を羨ましいと思うのとは、少し違うかも」
ナナ:「ほう」
ミカコ:「たぶん私もそっち」
ナナ:「なに? 二人だけ分かり合ってる感じ出すのやめてくれる?」
ミカコ:「ナナが雑なのよ」
ナナ:「雑じゃないわよ。感覚で生きてんの」
ミカコ:「それを雑って言うの」
ナナ:「ユキノ、ミカコが今日も冷たい」
ユキノ:「今日も、なんだ」
三人が笑う。
ナナは笑いながら、ねぎまを一口食べた。
けれど、しばらく噛んだあと。
ナナ:「……私ね、あるよ」
さっきより少しだけ落ち着いた声だった。
ミカコ:「友達の彼氏を?」
ナナ:「だから違うって!」
ユキノ:「ミカコ、今日はそこを離してあげて」
ナナ:「昔ね。友達とその彼氏と、何人かで飲んだことがあったの。その彼氏がさ、友達が話してるとき、ちゃんと顔見て聞く人だったのよ」
ミカコ:「うん」
ナナ:「別に大したことじゃないの。荷物持ってあげるとか、サプライズするとか、そういうのでもなくて。ただ友達がしょうもない話してるときも、楽しそうに聞いてて」
ナナはグラスに手を伸ばす。
ナナ:「そのとき、“いいなあ”って思った」
ユキノ:「その彼が?」
ナナは少し考えた。
ナナ:「……ううん」
そして笑う。
ナナ:「あんなふうに大事にされてる友達が、羨ましかったんだと思う」
ミカコがハイボールを一口飲む。
ミカコ:「じゃあ、彼氏が羨ましかったんじゃないじゃない」
ナナ:「細かいなあ!」
ミカコ:「全然違うでしょ」
ユキノ:「でも、その違いって意外と大事かもしれないね」
ナナ:「え?」
炭火の向こうから、またパチッと小さな音がした。
友達の恋人を見て、羨ましいと思う。
それは、その人を好きになったということなのか。
それとも――。
自分も誰かに、あんなふうに愛されたかっただけなのか。
ナナ:「……なんか今日、思ったより深い話になりそうね」
ミカコ:「自分で振ったんでしょ」
ナナ:「とりあえず、つくね追加しよ」
ユキノ:「考える前に食べるのね」
ナナ:「こういう話はお腹いっぱいのほうが平和なのよ」
ミカコ:「それは初めて聞いた」
今夜の一杯は、友達の恋を見て心のどこかに浮かんだ、少し言いづらい「羨ましい」の話から始まった。
羨ましいと思うことくらい、あるでしょ

追加したつくねが届く。
ナナはさっそく一本取り、まだ湯気の立っているつくねを眺めながら言った。
ナナ:「でもさ。私、友達の恋愛を羨ましいって思うの、別に悪いことじゃないと思うんだよね」
ミカコ:「誰も悪いとは言ってないけど」
ナナ:「なんとなく言いづらくない?」
ユキノ:「それは分かるかも」
ナナ:「でしょ? 友達が『彼氏がこんなことしてくれた』って嬉しそうに話してるときに、『いいなあ、羨ましい』って思ってても、ちょっと隠すじゃん」
ミカコ:「普通に『いいなあ』って言えばいいじゃない」
ナナ:「ミカコはそういうところ妙に強いのよ」
ミカコ:「何が?」
ナナ:「人と比べて落ち込まなそう」
ミカコは少しだけ眉を上げた。
ミカコ:「落ち込むわよ」
ナナ:「えっ」
ミカコ:「なんで驚くのよ」
ナナ:「いや……ミカコって、他人の幸せ見ても『それはそれ、これはこれ』で処理しそうだから」
ミカコ:「私を何だと思ってるの」
ユキノ:「かなり高性能な仕分け機みたいに思ってるんじゃない?」
ナナ:「そうそう」
ミカコ:「ユキノまで乗らないで」
ユキノが楽しそうに笑う。
ミカコはつくねを一口食べ、それから少し考えた。
ミカコ:「羨ましいと思うことはある。でも、それで友達に嫉妬するかって言われたら、あんまりないかな」
ナナ:「そこ、違うの?」
ミカコ:「違うでしょ。『いいな、私も欲しい』と『なんであの子だけ』は別じゃない?」
ユキノ:「ああ、それは確かに違うね」
ナナ:「なるほどねえ」
ナナは納得したように頷いた。
ナナ:「私も『なんであの子だけ』とは思わないな。友達が幸せなのは普通に嬉しいもん」
ミカコ:「じゃあ問題ないじゃない」
ナナ:「でも、そのあと家に帰って一人になったときにさ」
ナナは、少し大げさに遠い目をした。
ナナ:「『……いいなあ』ってなるのよ」
ユキノ:「ふふっ」
ナナ:「笑うな!」
ユキノ:「ごめん。なんとなく想像できちゃって」
ナナ:「友達と彼氏が二人で帰ってくの見送ってさ。こっちは一人で電車乗って。コンビニ寄って」
ミカコ:「コンビニは関係ないでしょ」
ナナ:「あるのよ。こういう夜のコンビニは重要なの」
ユキノ:「何を買うの?」
ナナ:「アイス」
ミカコ:「元気じゃない」
ナナ:「元気ではある」
三人が笑った。
ナナはハイボールを一口飲む。
ナナ:「でもね。友達の彼氏そのものが欲しいわけじゃないのよ。そこは本当に違う」
ユキノ:「さっきの話みたいに?」
ナナ:「そう。たとえば友達が『今日仕事で嫌なことあった』って言ったら、彼氏が迎えに来てくれたとかさ」
ミカコ:「はいはい」
ナナ:「誕生日でもなんでもない日に、好きなお菓子買ってきてくれたとか」
ユキノ:「そういう小さいことね」
ナナ:「そう! むしろそっちなのよ。高いバッグ買ってもらったとか聞いても、『へえ、いいじゃん』で終わるんだけど」
ナナは串を置き、少しだけ身を乗り出した。
ナナ:「『私が前に好きって言ったお菓子覚えててくれた』とか聞くと――」
そこでナナは胸を押さえた。
ナナ:「刺さる」
ミカコ:「大げさ」
ナナ:「刺さるの!」
ユキノ:「でもナナらしいね」
ナナ:「そう?」
ユキノ:「物そのものより、『覚えてくれてた』とか『気にかけてくれてた』のほうが嬉しいんでしょ?」
ナナは一瞬黙った。
そして、照れ隠しのようにグラスを持つ。
ナナ:「……まあね」
ミカコ:「急に小声になった」
ナナ:「うるさい」
ユキノ:「だったら、友達の彼氏を羨ましいと思ったときって、自分が恋愛で何を求めてるかが出るのかもしれないね」
ナナ:「どういうこと?」
ユキノ:「同じカップルを見ても、羨ましいと思うところって人によって違うでしょう?」
ユキノは指を折りながら続ける。
ユキノ:「いつも送り迎えしてくれることが羨ましい人もいる。たくさん連絡をくれることが羨ましい人もいる。一緒に旅行してることが羨ましい人もいる」
ナナ:「ああ……」
ユキノ:「ナナはたぶん、“自分のことをちゃんと見てくれている感じ”が羨ましいんじゃない?」
ナナは何も言わず、つくねをもう一口食べた。
ミカコ:「図星ね」
ナナ:「食べてるだけ!」
ミカコ:「分かりやすいのよ」
ナナ:「じゃあミカコは何よ」
ミカコ:「何が?」
ナナ:「友達の恋愛見て、“そこ羨ましい”って思うところ」
ミカコ:「私?」
ナナ:「そう。人のこと分析して終わろうとしないで」
ユキノ:「それは私も聞きたいな」
二人から視線を向けられ、ミカコが露骨に面倒そうな顔をする。
ミカコ:「……別にないけど」
ナナ:「嘘つけ」
ミカコ:「なんでよ」
ナナ:「さっき『羨ましいと思うことはある』って言ったじゃない!」
ミカコ:「覚えてたのね」
ナナ:「こういうことだけは覚えてるのよ、私は」
ユキノ:「じゃあ、聞かせてもらおうかな」
ユキノまで楽しそうにグラスを置く。
ミカコは二人を交互に見て、小さくため息をついた。
ミカコ:「……その前に一個いい?」
ナナ:「なに?」
ミカコ:「そもそも他人の彼氏なんて、いいところしか見えてない可能性が高いでしょ」
ナナ:「はい出た」
ユキノ:「ミカコの現実的な話が始まったね」
ミカコ:「だってそうじゃない?」
羨ましいと思った、その人。
果たして、本当にそんなに羨ましい相手なのか。
ミカコはどうやら、そこから疑っているらしい。
他人の彼氏なんて、いいところしか見えてない

ミカコはハイボールの氷を軽く揺らした。
ミカコ:「ナナがさっき言ってた友達の彼氏」
ナナ:「うん」
ミカコ:「話をちゃんと聞いてくれて、友達のこと大事にしてるように見えたんでしょ?」
ナナ:「そうそう。いい彼氏だったよ」
ミカコ:「それ、数時間一緒に飲んだだけでしょ」
ナナ:「……まあ」
ミカコ:「じゃあ分からないじゃない」
ナナ:「夢がないなあ!」
ミカコ:「夢で他人の彼氏を評価しないの」
ユキノが思わず笑う。
ミカコ:「友達の恋人と会うときなんて、だいたい外でしょ。飲み会とか、食事とか」
ナナ:「まあね」
ミカコ:「そりゃ感じよくするわよ。彼女の友達がいるんだから」
ナナ:「じゃあ全部営業スマイルだっていうの?」
ミカコ:「そこまでは言ってない。でも、家に帰ったら靴下そのへんに脱ぎっぱなしかもしれない」
ナナ:「なんで靴下なのよ」
ミカコ:「洗面台びちゃびちゃにするかもしれない」
ナナ:「どんどん生活感出してくるじゃん」
ミカコ:「冷蔵庫の麦茶を一センチだけ残して戻すかもしれない」
ナナ:「あ、それは嫌」
ユキノ:「急に評価下がったね」
ナナ:「だって一センチなら飲みなさいよ。なんで次の人に託すのよ」
ミカコ:「そういうところまで含めて付き合ってるのは友達なの。ナナが見てるのは、その彼氏のほんの一部分」
ナナは少し考えてから、ねぎまを一本取った。
ナナ:「それはそうだけどさ。でも、いいところがあるのも本当じゃん」
ミカコ:「もちろん。だから羨ましいと思うこと自体は否定してない」
ミカコ:「ただ私は、他人の恋愛って基本的にダイジェスト版だと思ってる」
ユキノ:「ダイジェスト版?」
ミカコ:「そう。友達から聞くのも、実際に見るのも、印象に残る場面が中心でしょ」
ミカコ:「誕生日に旅行へ連れていってくれた。落ち込んでたら会いに来てくれた。記念日に花をくれた」
ナナ:「うんうん」
ミカコ:「でも実際の恋愛って、その間に何百時間も普通の日があるじゃない」
ユキノ:「何を食べるかで揉めたり、疲れてて会話がなかったりね」
ミカコ:「そう。返信遅くてイラッとした日も、同じことで三回注意した日も、どっちがゴミ出すかで揉めた朝もあるかもしれない」
ナナ:「恋愛が急にゴミ出しまで来た」
ユキノ:「でも、長く一緒にいるとそっちのほうが現実よね」
ミカコ:「自分の恋愛はノーカット版なのに、他人の恋愛だけダイジェスト版で見て『いいなあ』って思っても、そりゃ勝てないわよ」
ナナ:「勝ち負けなの?」
ミカコ:「比べるならって話」
ナナ:「でも、その理屈だとSNSなんて地獄だね」
ミカコ:「あれなんて予告編くらいに思ってる」
ユキノ:「さらに短くなった」
ナナ:「『彼氏が記念日にホテル予約してくれました♡』」
ミカコ:「その前日に喧嘩してるかもしれない」
ナナ:「『何でもない日にお花買ってきてくれた♡』」
ミカコ:「何かやらかしたのかもしれない」
ナナ:「ミカコ、恋愛を信じて!」
ミカコ:「信じてるわよ。見えてるものが全部だとは思ってないだけ」
ユキノは二人のやり取りを聞きながら、楽しそうにレモンサワーを飲んでいた。
ユキノ:「でもミカコの言ってること、私は結構分かるかな」
ナナ:「ユキノまで!」
ユキノ:「羨ましいって思ったときに、その友達と自分を比べて落ち込む必要はないってことでしょ?」
ミカコ:「そういうこと」
ユキノ:「自分の恋愛だけは、嫌なところも、不安なところも、全部見えるものね」
ナナ:「まあ……自分の彼氏だったら、麦茶一センチ残してるところまで見るもんね」
ミカコ:「まだ麦茶引きずってるの?」
ナナ:「あれは結構嫌だった」
ユキノ:「架空の彼氏なのに?」
三人が笑った。
ひとしきり笑ったあと、ナナが思い出したようにミカコを見る。
ナナ:「……で?」
ミカコ:「何?」
ナナ:「ごまかされないからね」
ミカコ:「何の話?」
ナナ:「ミカコは友達の恋愛の、どこを羨ましいと思ったことがあるの?」
ユキノ:「そうだった。まだ答えてなかったね」
ミカコ:「……覚えてたのね」
ナナ:「こういう話の記憶力だけはいいのよ」
逃げ道を塞がれたミカコは、しばらく黙ってハイボールを眺めた。
ミカコ:「私は……」
いつもならすぐ答えるミカコが、珍しく言葉を選んでいる。
ナナは面白そうに待ち、ユキノも何も言わなかった。
やがてミカコは、小さく息を吐いた。
ミカコ:「相手がいること自体、かな」
ナナ:「……え?」
思っていた答えと違ったのか、ナナの表情が少し変わった。
ミカコが羨ましいのは、「帰る相手がいること」

ナナ:「相手がいること自体?」
ミカコ:「うん」
ナナ:「なんか……ミカコから出てくると思わなかった」
ミカコ:「どういう意味よ」
ナナ:「だってミカコ、一人でも全然平気そうじゃん」
ミカコ:「平気よ」
ナナ:「ほら」
ミカコ:「一人で平気なのと、誰かがいてほしいと思うことは両立するでしょ」
ナナが一瞬、言葉に詰まった。
ナナ:「……なんか今日のミカコ、たまにいいこと言うね」
ミカコ:「たまにって何」
ユキノ:「でも分かるな。一人で過ごせる人が、一人を望んでるとは限らないものね」
ミカコ:「そういうこと」
ミカコはハイボールを一口飲んだ。
ミカコ:「昔、友達夫婦の家に遊びに行ったことがあるの」
ナナ:「うん」
ミカコ:「別に仲良しアピールするような二人じゃなくて。本当に普通」
ミカコ:「旦那さんが途中でコンビニ行くって言ったら、友達が『牛乳なくなりそうだから買ってきて』って言って」
ナナ:「うん」
ミカコ:「旦那さんが『分かった』って財布持って出ていった」
ナナ:「……終わり?」
ミカコ:「終わり」
ナナ:「何その話!」
ユキノ:「ふふっ。でもミカコが言いたいこと、なんとなく分かる」
ナナ:「私まだ分かんない。牛乳買いに行っただけじゃん」
ミカコ:「そう。牛乳買いに行っただけなのよ」
ミカコは少し笑った。
ミカコ:「でも、その“だけ”がなんかいいなと思った」
ナナ:「……ああ」
ミカコ:「記念日でもないし、デートでもないし、愛してるとも言ってない。ただ二人の生活が普通に続いてる感じ」
ユキノ:「特別なことがなくても、二人で暮らしているんだよね」
ミカコ:「そう」
ミカコ:「ああいうの見ると、たまに羨ましいと思う」
ナナはしばらくミカコを見ていた。
ナナ:「……ミカコ」
ミカコ:「何よ」
ナナ:「寂しいの?」
ミカコ:「違う」
ナナ:「強がらなくていいんだよ」
ミカコ:「本当に違うから」
ナナ:「今日は私が朝まで付き合うよ」
ミカコ:「帰って」
ユキノ:「ナナ、急に距離詰めすぎ」
三人が笑う。
ミカコ:「だから、寂しくて仕方ないとかじゃないの。一人で家に帰るのも好きだし、一人でご飯食べるのも平気」
ミカコ:「でも、それとは別に、誰かと生活が続いていく感じを見て『いいな』と思うことはある」
ナナ:「なるほどねえ」
ミカコ:「だから私は、友達の彼氏を見て羨ましいっていうより、その人がいる日常を羨ましいと思うのかも」
ナナ:「私が“ちゃんと見てもらえてる感じ”で、ミカコは“誰かがいる日常”か」
ミカコ:「そんな感じ」
ナナがニヤッとする。
ナナ:「なんだ。ミカコもちゃんと乙女じゃん」
ミカコ:「その言い方やめて」
ナナ:「牛乳買ってきてくれる男、探そう」
ミカコ:「条件が牛乳になってるじゃない」
ユキノ:「しかもスーパーじゃなくてコンビニ限定なの?」
ナナ:「大事なのは再現性よ」
ミカコ:「何の再現よ」
また笑いが起きる。
そこでナナは、ふとユキノを見た。
ナナ:「……待って」
ユキノ:「なに?」
ナナ:「私も言った。ミカコも言った」
ユキノ:「うん」
ナナ:「ユキノだけ逃げてない?」
ユキノ:「逃げてないわよ」
ミカコ:「そういえば聞いてないね」
ナナ:「あるでしょ? 友達の恋愛見て、“いいなあ”って思ったこと」
ユキノはすぐには答えなかった。
テーブルに置かれた焼き鳥を眺めながら、少しだけ考える。
ユキノ:「あるよ」
ナナ:「おお」
ユキノ:「でも私は、二人とはまた少し違うかな」
ミカコ:「何が羨ましいの?」
ユキノは穏やかに笑った。
ユキノ:「二人の間にある空気」
ナナ:「空気?」
ユキノ:「うん。何もしてなくても、一緒にいて心地よさそうな二人を見るとね」
ナナとミカコが、静かになった。
恋人がいることでもない。
優しくしてもらうことでもない。
ユキノが羨ましいと思うものは、もっと形のないものらしかった。
ユキノが羨ましいのは、「何もない時間」

ユキノは、テーブルの端に置かれたレモンサワーをゆっくり持ち上げた。
ナナ:「二人の間にある空気って、どういうこと?」
ユキノ:「うーん……説明するの難しいんだけど」
ユキノ:「例えば、友達夫婦と一緒に出かけたことがあってね」
ナナ:「うん」
ユキノ:「帰りの電車で二人とも疲れてたの。ほとんど会話もしてなくて」
ミカコ:「うん」
ユキノ:「でも、全然気まずそうじゃなかった」
ユキノは少し考えてから続けた。
ユキノ:「旦那さんはぼーっと外を見てて、友達はスマホ見てて。たまにどっちかが何か言うと、もう一人がちょっと笑うくらい」
ナナ:「……それだけ?」
ユキノ:「それだけ」
ナナ:「今日は牛乳買う男と、電車で喋らない夫婦の話しか出てこないね」
ミカコ:「ずいぶん地味な恋愛観が揃ったわね」
ユキノ:「でもね。そのとき思ったの」
ユキノ:「ああ、この二人は、喋らなくても大丈夫なんだなって」
ナナが少しだけ表情を変えた。
ユキノ:「沈黙を埋めなくていい相手って、私はいいなと思う」
ミカコ:「それは分かる」
ナナ:「……分かるなあ」
ユキノ:「楽しい話をしなくてもいいし、機嫌を取らなくてもいい。ずっと笑ってなくてもいい」
ユキノ:「ただ隣にいて、それぞれ別のことをしていても平気」
ユキノ:「そういう二人を見ると、ちょっと羨ましくなるかな」
ナナは黙ってグラスを持った。
ナナ:「……なんかユキノが言うと、ちょっと重みあるね」
ユキノ:「そう?」
ナナ:「うん」
ナナはそれ以上言わなかった。
ユキノも、理由を説明しなかった。
三人の間に静かな時間が流れる。
炭火のはぜる音。
遠くのテーブルから聞こえる笑い声。
店員がグラスを片づける音。
さっきまであれだけ喋っていた三人なのに、誰も急いで次の言葉を探さなかった。
しばらくして、ミカコが焼き鳥を一本取る。
ミカコ:「……今じゃない?」
ナナ:「何が?」
ミカコ:「ユキノが言ってたやつ」
ユキノ:「え?」
ミカコ:「誰も喋ってなかったけど、別に気まずくなかった」
三人が顔を見合わせた。
ナナ:「……ほんとだ」
ユキノ:「ふふっ」
ナナ:「じゃあ私たち、付き合えるじゃん」
ミカコ:「なんでそうなるのよ」
ナナ:「条件クリアしたじゃん」
ユキノ:「三人で?」
ナナ:「そこはこれから考える」
ミカコ:「考えなくていい」
静かだったテーブルに、また笑い声が戻った。
ナナ:「でもさ、なんか面白いね」
ユキノ:「何が?」
ナナ:「三人とも、羨ましいところ全然違うじゃん」
ナナは自分を指さした。
ナナ:「私は、ちゃんと自分を見てくれる人」
次にミカコを指す。
ナナ:「ミカコは、牛乳」
ミカコ:「誰かがいる日常」
ナナ:「牛乳のある日常」
ミカコ:「牛乳から離れなさい」
最後にユキノを見る。
ナナ:「ユキノは、黙ってても平気な関係」
ユキノ:「そうね」
ナナ:「同じカップル見ても、たぶん見るところ違うんだろうね」
ミカコ:「だから“羨ましい”って、案外その人自身の話なのかもね」
ナナ:「自分の?」
ミカコ:「自分が持ってないものとか、欲しいものに目が行くんでしょ」
ユキノ:「そう考えると、羨ましいってそんなに嫌な感情でもないのかもしれないね」
ナナ:「自分が欲しいもの教えてくれてるってこと?」
ユキノ:「うん。そういう見方もできると思う」
ナナは「なるほどねえ」と呟きながら、最後のぼんじりに手を伸ばした。
ところが、その手が途中で止まる。
ナナ:「……じゃあさ」
ミカコ:「何?」
ナナの顔を見た瞬間、ミカコが少し嫌そうな顔をした。
ミカコ:「その顔、また面倒なこと言うでしょ」
ナナ:「いや、純粋な疑問」
ユキノ:「聞くだけ聞いてみようか」
ナナ:「じゃあさ」
ナナは二人を交互に見る。
ナナ:「“関係が羨ましい”じゃなくて、本当に友達の彼氏を好きになっちゃったら、どうする?」
ミカコ:「……帰る?」
ナナ:「帰るな!」
せっかく穏やかになった今夜の話は、ナナの一言で再び危ない方向へ曲がり始めた。
もし、本当に友達の恋人を好きになってしまったら?

ナナ:「帰るなって。まだ焼き鳥あるから」
ミカコ:「話題が急に面倒なのよ」
ナナ:「でもあるかもしれないじゃん。友達の彼氏と何回か会ってるうちに、本当に好きになっちゃうとか」
ユキノ:「ないとは言えないでしょうね」
ナナ:「でしょ?」
ミカコ:「好きになるだけなら、別にどうもしない」
ナナ:「え、いいの?」
ミカコ:「何が?」
ナナ:「友達の彼氏好きになっても」
ミカコ:「いいも悪いも、感情なんて勝手に出てくるでしょ」
ミカコは淡々と言いながら、焼き鳥の串を皿に戻した。
ミカコ:「明日から好きになるのやめます、でやめられるなら誰も苦労しない」
ナナ:「それはそうだけど」
ミカコ:「問題は、そのあと何するかじゃない?」
ユキノ:「私もそう思う」
ナナ:「二人とも意外とそこは寛容なんだね」
ミカコ:「寛容とかじゃないの。好きになっただけで裁いても仕方ないでしょ」
ミカコ:「ただし、『好きになっちゃったんだから仕方ない』って相手に近づき始めたら、話は別」
ナナ:「ああ、それは分かる」
ミカコ:「相談に乗るふりして二人で会うとか。友達とうまくいってないって聞いて喜ぶとか」
ナナ:「嫌だ嫌だ」
ミカコ:「『気持ちだけは伝えたかった』とかも私は嫌」
ナナ:「でも、それくらいは……」
ミカコ:「何のために伝えるの?」
ナナが止まった。
ナナ:「……気持ちを整理するため?」
ミカコ:「自分の?」
ナナ:「うん」
ミカコ:「じゃあ自分で整理して」
ナナ:「厳しい!」
ミカコ:「友達と付き合ってる人に告白して、自分だけスッキリしてどうするのよ。言われた相手には残るでしょ」
ナナ:「……確かに」
ユキノ:「相手が友達に話すかもしれないしね」
ナナ:「うわあ」
ユキノ:「逆に隠したら、二人だけの秘密になる」
ナナ:「それも嫌だ」
ミカコ:「でしょう?」
ナナ:「じゃあ好きになっちゃったら、ひたすら黙って耐えるしかないの?」
ユキノ:「私は距離を取るかな」
ナナ:「友達とも?」
ユキノ:「場合によっては、少しだけ」
ユキノは穏やかに答えた。
ユキノ:「二人が一緒にいるところを見るたびにつらくなるなら、無理して会い続けなくてもいいと思う」
ナナ:「でも友達には理由言えないじゃん」
ユキノ:「全部を説明する必要はないんじゃない?」
ユキノ:「少し忙しいとか、一人で過ごしたいとか。嘘を重ねるのはよくないけど、自分の気持ちを整理するための距離まで、全部説明しなくてもいいと思う」
ナナ:「ユキノ、大人だなあ」
ミカコ:「ナナだったらどうするの?」
ナナ:「私?」
ミカコ:「自分で振った話でしょ」
ナナ:「……私は絶対何もしない」
思ったより即答だった。
ユキノ:「そこは迷わないんだ?」
ナナ:「迷わない」
ナナ:「だって友達の彼氏でしょ?」
ナナ:「好きになっちゃったら、そりゃ自分の中ではめちゃくちゃ苦しいと思うよ。会いたいとか、私のほう見てくれないかなとか、たぶん思う」
ナナ:「でも、それを理由に友達を傷つけるのは違う」
ミカコが笑った。
ナナ:「なによ」
ミカコ:「いや。ナナらしいなと思って」
ナナ:「どういう意味?」
ミカコ:「一番感情で動きそうなのに、こういうところは妙に線引くから」
ナナ:「妙にって何よ」
ユキノ:「でも分かる。ナナって、自分が傷つくのは我慢しても、自分のせいで友達が傷つくのは嫌なんじゃない?」
ナナは一瞬、黙った。
ナナ:「……そうかも」
そして照れ隠しのようにグラスを持つ。
ナナ:「まあ実際そんなことになったら、ここで二人に泣きながら相談するけどね」
ミカコ:「聞くくらいは聞く」
ナナ:「そこは優しくしてよ!」
ミカコ:「じゃあ焼き鳥一本あげる」
ナナ:「そういう優しさじゃない!」
ユキノ:「私はお酒も一杯つけるよ」
ナナ:「ユキノ好き」
ミカコ:「安いわね」
また三人が笑った。
少し危ない話題だったはずなのに、結局三人の答えは意外なほど近かった。
好きになる気持ちそのものは、止められない。
友達の恋人だからといって、心の中に浮かんだ感情まで「持ってはいけない」と命令することもできない。
でも――。
ナナ:「結局さ。好きになるのと、何するかは別なんだね」
ミカコ:「そういうこと」
ユキノ:「感情は選べなくても、行動は選べるからね」
ナナは小さく頷いた。
それから、テーブルに残っていた焼き鳥を眺める。
ナナ:「……なんか最初と全然違う話になったね」
ミカコ:「ナナが曲げたのよ」
ナナ:「戻そう」
ユキノ:「戻れる?」
ナナ:「戻れる戻れる」
ナナはグラスを持ち上げた。
ナナ:「そもそも今日は、“友達の彼氏が羨ましい”って話だったのよ」
ミカコ:「そうね」
ナナ:「で、三人で喋って分かった」
ユキノ:「何が?」
ナナ:「私たち、羨ましい男の話、一回もしてない」
ミカコとユキノが顔を見合わせた。
ナナ:「私が羨ましかったのは、大事にされてる友達」
ナナ:「ミカコは、誰かと続いていく普通の日常」
ナナ:「ユキノは、黙ってても平気な二人の空気」
ミカコ:「……確かに」
ナナ:「友達の彼氏が羨ましいんじゃなくてさ」
ナナは少し考えてから、笑った。
ナナ:「その人といる友達が持ってるものを、私も欲しいって思ってたのかもね」
ユキノ:「うん。たぶんね」
今夜何度目かの、少しだけ静かな時間が流れた。
けれど今度の沈黙も、誰も気まずいとは思わなかった。
自分が誰かを羨ましいと思ったとき。
そこには案外、自分でも気づいていなかった「欲しいもの」が隠れているのかもしれない。
まとめ|「羨ましい」は、自分の欲しい恋を教えてくれる

焼き鳥の皿には、串だけが何本か残っていた。
最初は勢いよく注文していた三人も、そろそろお腹いっぱいらしい。
ナナはグラスを両手で持ちながら、ぼんやりテーブルを眺めていた。
ナナ:「なんかさ」
ミカコ:「うん」
ナナ:「友達の恋愛を羨ましいって思うの、ちょっと嫌だったんだよね」
ユキノ:「嫌?」
ナナ:「うん。なんか自分が性格悪いみたいで」
ミカコ:「なんで?」
ナナ:「友達が幸せなら、普通に『よかったね』だけでいいじゃん。でも心のどっかで『いいなあ』って思ってる自分もいてさ」
ナナ:「友達の幸せを喜びながら羨ましがるって、ちょっと矛盾してる気がしてた」
ミカコ:「全然矛盾してないでしょ」
ナナ:「そう?」
ミカコ:「友達が焼き鳥食べてて『美味しそう、私も食べたい』って思ったら、その友達から焼き鳥奪うの?」
ナナ:「奪わないよ」
ミカコ:「自分で頼むでしょ」
ナナ:「……なるほど」
ユキノ:「ずいぶん分かりやすい例えになったね」
ナナ:「今日一番分かりやすかった」
ミカコ:「それはそれで嫌なんだけど」
ナナは笑いながら、空になった焼き鳥の皿を見る。
ナナ:「じゃあ友達が幸せそうなの見て『私もあんな恋愛したい』って思うくらい、別にいいのか」
ミカコ:「いいでしょ」
ユキノ:「むしろ、自分が何を求めているのか分かることもあると思うよ」
ナナ:「私は……ちゃんと見てもらいたい」
ユキノ:「うん」
ナナ:「ミカコは、誰かと普通の毎日を過ごしたい」
ミカコ:「まあね」
ナナ:「ユキノは、何も喋らなくても心地いい人」
ユキノ:「そうね」
ナナ:「……三人とも、意外と地味だね」
ミカコ:「ナナが言う?」
ナナ:「だってもっとさ。年収とか、顔とか、背が高いとか出ると思わない?」
ミカコ:「そういうのも大事な人には大事でしょ」
ユキノ:「でも長く一緒にいたいと思ったら、最後は小さいことになっていくのかもしれないね」
ナナ:「小さいこと?」
ユキノ:「話を聞いてくれるとか」
ミカコ:「牛乳買ってくるとか」
ナナ:「やっぱ牛乳なんじゃん!」
ミカコ:「ナナがずっと言うからよ」
ユキノ:「黙って一緒に電車に乗れるとかね」
ナナ:「……確かに地味」
ユキノ:「でも、そういうものじゃない?」
ユキノが笑う。
ナナも少し考えてから、笑った。
ナナ:「じゃあ今度、友達の彼氏見て羨ましくなったら考えてみる」
ミカコ:「何を?」
ナナ:「私はこの人の何が羨ましいんだろうって」
ユキノ:「いいんじゃない?」
ナナ:「それが分かったら、次に付き合う人探すときの参考にもなるかもしれないし」
ミカコ:「やっと建設的になった」
ナナ:「今日ずっと建設的だったわ!」
ミカコ:「途中、友達の彼氏を好きになった話してたけど」
ナナ:「あれも必要な寄り道なの」
ユキノ:「ずいぶん遠くまで行ったけどね」
三人が笑う。
そして、そのまま少しだけ会話が途切れた。
店内には焼き鳥を焼く音と、ほかの客たちの話し声。
誰もスマホを触らない。
誰も次の話題を探さない。
ただ三人で、それぞれのお酒を飲んでいる。
しばらくして、ナナがぽつりと言った。
ナナ:「こういうのもいいね」
ユキノ:「何が?」
ナナ:「別に喋らなくても平気な時間」
ユキノが微笑む。
ミカコ:「さっきユキノが言ってたやつね」
ナナ:「うん」
また少しだけ、静かな時間。
今度は誰も、それを笑いに変えなかった。
無言でも心地いい相手。
自分をちゃんと見てくれる相手。
何でもない毎日を一緒に過ごせる相手。
友達の恋愛を羨ましいと思ったとき、目に入っているのは他人の幸せだけじゃない。
そこにはきっと、自分がいつか誰かと築きたいものも映っている。
ナナがゆっくりグラスを持ち上げた。
ナナ:「じゃあ、そろそろ改めて乾杯しますか」
ミカコ:「何に?」
ナナ:「それぞれの、羨ましい恋に」
ユキノ:「それ、いいね」
ミカコ:「まあ、いいんじゃない」
三人がグラスを合わせる。
ナナ:「乾杯!」
軽い音が重なった。
――その直後。
ナナ:「でもさ」
ミカコ:「まだあるの?」
ナナ:「友達の彼氏が、めちゃくちゃ顔タイプだったら話変わるよね?」
ミカコ:「何もまとまってないじゃない」
ユキノ:「乾杯やり直す?」
ナナ:「いや、これはこれで乾杯しよ」
ミカコ:「何に乾杯するのよ」
今夜も結局、きれいな答えは出ない。
それでも三人の夜は、もう少しだけ続きそうだった。


