今日は静かですね
朝の編集部。
まだ一日の仕事が本格的に動き出す前の休憩室に、ケンジが一人で座っていた。
テーブルの上にあるのはコーヒーではなく、大きめのペットボトルの水。
椅子に深く腰掛け、いつもより少しだけ猫背になっている。
そこへ、ワニオがやってきた。
ワニオ:おはようございます。
ケンジ:……おう。
ワニオが足を止める。
ワニオ:今日は静かですね。
ケンジ:朝からうるさい四十代後半も嫌だろ。
ワニオ:昨日はうるさかったんですか。
ケンジ:……なんでそうなる。
ワニオ:顔です。
ケンジ:顔。
ワニオ:あと、水。
ケンジは手元のペットボトルを見る。
ケンジ:水飲んでるだけだろ。
ワニオ:ケンジさん、朝はだいたいコーヒーじゃないですか。
ケンジ:よく見てんな、お前。
ワニオ:人を見るのは好きなので。
ケンジ:朝から観察対象にすんな。
ワニオは向かいではなく、少し離れた椅子に座った。
しばらく沈黙。
ワニオ:二日酔いですか。
ケンジ:……まあな。
ワニオ:やっぱり。
ケンジ:嬉しそうにすんな。
ワニオ:嬉しくはないです。
ケンジ:昨日はちょっと飲みすぎた。
ワニオ:何かあったんですか。
ケンジ:いや。
ワニオ:嫌なことがあったとか。
ケンジ:何も。
ワニオ:お祝いですか?
ケンジ:でもない。
ワニオ:では、なぜ飲みすぎたんですか。
ケンジ:……楽しくなっちゃった。
ワニオ:なるほど。
ケンジ:なんだよ、その納得。
ワニオ:理由がないのが理由ですね。
ケンジ:酒飲みなんてそんなもんだよ。
ケンジは水をひと口飲んだ。
ケンジ:別にいつもじゃないんだよ。
ワニオ:はい。
ケンジ:普段は普通に飲んで、普通にやめられる。
ワニオ:はい。
ケンジ:でも、たまーにあるんだよな。
ワニオ:楽しくなっちゃう日が。
ケンジ:その言い方やめろ。
ワニオ:ケンジさんが言ったんです。
ケンジ:飲んでて気分よくなってさ。「今日はもうちょっといいか」ってなるんだよ。
ワニオ:もうちょっと。
ケンジ:それを何回かやる。
ワニオ:もうちょっと、もうちょっと、もうちょっと。
ケンジ:再現すんな。
ワニオ:それで今日こうなった。
ケンジ:そういうことだ。
ケンジは再び水を飲む。
ワニオはそんなケンジをしばらく見ていた。
ケンジ:なんだよ。
ワニオ:若い頃からですか。
ケンジ:何が。
ワニオ:たまに深酒するの。
ケンジ:ああ。
少し考えて、ケンジは苦笑した。
ケンジ:そういや昔からだな。
ワニオ:じゃあ長いですね。
ケンジ:長いな。
ワニオ:直そうとは思わなかったんですか。
ケンジ:思ったよ。
ワニオ:いつ?
ケンジ:二日酔いになるたびに。
ワニオ:……。
ケンジ:その顔やめろ。
ワニオ:何も言ってません。
ケンジ:言ってるのと同じなんだよ。
ケンジはペットボトルをテーブルに置いた。
ケンジ:でもあるだろ、お前にも。
ワニオ:何がですか。
ケンジ:何回「もうやめよう」って思っても、なぜか直らない癖。
ワニオは少し考えた。
ワニオ:ありますね。
ケンジ:ほら。
ワニオ:でもその前に、ひとつ気になります。
ケンジ:なんだよ。
ワニオ:ケンジさん。
ケンジ:うん。
ワニオ:二日酔いになるたびに反省してるんですよね。
ケンジ:してるよ。
ワニオ:何回目の反省ですか。
ケンジ:……朝から面倒くせえワニだな。
何回目の反省ですか

ケンジはペットボトルの水を半分ほど飲んだ。
少しはマシになった気がする。
気がするだけかもしれない。
ケンジ:でもな、ちゃんと反省はしてるんだよ。
ワニオ:反省。
ケンジ:そう。昨日の俺と今の俺は別人だからな。
ワニオ:便利な制度ですね。
ケンジ:制度じゃねえよ。
ワニオ:昨日の自分に責任を負わせて、今日の自分が反省する。
ケンジ:そんな悪質なことしてるつもりはない。
ワニオはテーブルの上のペットボトルを見る。
ワニオ:具体的には、どんな反省を?
ケンジ:まず、もう深酒しない。
ワニオ:はい。
ケンジ:酒と一緒にちゃんと水を飲む。
ワニオ:はい。
ケンジ:あと、飲む量を最初に決める。
ワニオ:なるほど。
ケンジ:どうだ。完璧だろ。
ワニオ:現在のケンジさんは、とても立派です。
ケンジ:現在のってなんだ。
ワニオ:夜になると交代する可能性があります。
ケンジ:しねえよ。
ワニオ:昨日はしたのでは。
ケンジ:……。
ケンジは水を飲んだ。
ワニオは何も言わない。
何も言わないのが、妙に腹立たしい。
ケンジ:お前さ。
ワニオ:はい。
ケンジ:二日酔いの人間にもうちょっと優しくできないの?
ワニオ:水があります。
ケンジ:お前の優しさじゃねえ。
ワニオ:では、私は不要ですね。
ケンジ:そういう話でもねえよ。
朝の休憩室は静かだった。
廊下を歩く人の足音と、遠くで誰かがコピー機を使う音が聞こえる。
ケンジは額を押さえながら、ぽつりと言った。
ケンジ:しかし不思議だよな。
ワニオ:何がですか。
ケンジ:今は本気なんだよ。
ワニオ:何が。
ケンジ:もう飲みすぎないって。
ワニオ:ええ。
ケンジ:昨日の夜の俺に会えたら、普通に止めるもん。「お前、明日の朝つらいぞ」って。
ワニオ:止まりますかね。
ケンジ:……たぶん。
ワニオ:弱いですね。
ケンジ:じゃあなんて言えば止まるんだよ。
ワニオは少し考えた。
ワニオ:何を言っても止まらないと思います。
ケンジ:身も蓋もねえな。
ワニオ:昨日のケンジさんは、今日のケンジさんほど困っていません。
ケンジが顔を上げる。
ワニオ:困っていない人間に、明日の困りごとを説明しても弱いです。
ケンジ:……なるほどな。
ワニオ:人間は、未来の自分を他人のように扱う傾向があります。
ケンジ:また人間を外から語ってるよ。
ワニオ:私はワニなので。
ケンジ:便利だな、それ。
ケンジは椅子にもたれた。
ケンジ:でも、酒に限らないか。
ワニオ:そうですね。
ケンジ:夜更かしして朝に後悔するとか。
ワニオ:はい。
ケンジ:食いすぎて「もう食わない」って言うとか。
ワニオ:はい。
ケンジ:余計なこと言ってから、「黙ってりゃよかった」って思うとか。
ワニオ:人間は反省材料が豊富ですね。
ケンジ:お前、ほんと人間じゃなくてよかったな。
ワニオ:ええ。そこは気に入っています。
ケンジは笑おうとして、すぐに顔をしかめた。
ケンジ:笑うと頭に響く。
ワニオ:反省に適した身体状況です。
ケンジ:そういう機能じゃねえよ、二日酔いは。
少し間が空く。
ケンジ:でもさ。俺ももう四十代後半だぞ。
ワニオ:知っています。
ケンジ:若い頃から何回も同じことやって、何回も反省して。それでも、たまにやる。
ワニオ:はい。
ケンジ:こういうのって、もう直らねえのかな。
ワニオは少しだけ考えた。
ワニオ:直らないというより。
ケンジ:うん。
ワニオ:困る頻度が低すぎて、本気で直すところまでいかないのでは。
ケンジは黙った。
ワニオ:毎日困れば対策します。でも、たまにしか困らない。
ケンジ:……確かにな。
ワニオ:そして苦しんでいるのは今だけです。
ケンジ:うん。
ワニオ:元気になれば忘れます。
ケンジ:言い切るなよ。
ワニオ:忘れませんか。
ケンジ:……忘れるな。
ワニオ:では、長生きしますね。その悪癖。
ケンジ:縁起でもねえこと言うな。
ワニオは静かに座っている。
ケンジは水を飲みながら考えた。
毎日困るほどではない。
人生を壊すほどでもない。
でも、忘れた頃にまた顔を出す。
もしかすると、「たまに困る」くらいの悪癖が、一番しぶといのかもしれない。
直す気がないわけじゃない

ケンジはペットボトルを持ったまま、しばらく考えていた。
ケンジ:でも、「本気で直すほど困ってない」って言われると、なんか腹立つな。
ワニオ:なぜですか。
ケンジ:直す気がないみたいじゃん。
ワニオ:あるんですか。
ケンジ:あるよ。
ワニオ:どのくらい。
ケンジ:今はかなりある。
ワニオ:今は。
ケンジ:そこ拾うな。
ワニオは何も言わず、ケンジを見る。
ケンジ:……まあ、元気になったら薄れるんだろうけど。
ワニオ:先ほどの観察と一致しました。
ケンジ:嬉しそうに確認すんな。
ワニオ:観察結果が再現されるのは良いことです。
ケンジ:俺の二日酔いで再現性取るなよ。
ケンジは水をひと口飲む。
ケンジ:でもさ、こういうのってあるだろ。
ワニオ:人間には多いですね。
ケンジ:まだ何も言ってねえよ。
ワニオ:だいたい分かります。
ケンジ:じゃあ言ってみろ。
ワニオ:夜更かし、先延ばし、食べすぎ、衝動買い、余計な一言。
ケンジ:……だいたい合ってる。
ワニオ:人間は種類が違っても、後悔の品揃えは似ています。
ケンジ:品揃えって言うな。
少しだけ笑って、ケンジは椅子に座り直した。
ケンジ:例えば夜更かしなんか分かりやすいよな。
ワニオ:はい。
ケンジ:朝は「今日は絶対早く寝る」って思う。
ワニオ:夜になると。
ケンジ:動画一本くらいいいか。
ワニオ:一本。
ケンジ:もう一本くらい。
ワニオ:二本。
ケンジ:気づいたら一時。
ワニオ:人間は夜になると算数が弱くなるのでしょうか。
ケンジ:ならねえよ。
ワニオ:一杯が三杯になったり、一本が五本になったりします。
ケンジ:耳が痛いな。
ワニオ:頭も痛いのでは。
ケンジ:うるせえ。
ケンジは額を押さえた。
ケンジ:でも全部、やってるときは別に大したことじゃないんだよ。
ワニオ:そうですね。
ケンジ:一杯くらい。一本くらい。明日やればいい。これくらい買ってもいい。
ワニオ:小さい許可を大量発行します。
ケンジ:ああ。それだ。
ワニオ:発行者も受取人も自分です。
ケンジ:審査が甘いわけだ。
ワニオ:かなり。
ケンジ:お前に言われるとムカつくな。
ワニオは気にした様子もない。
ケンジ:じゃあさ。こういうのって、どうすりゃ直るんだ。
ワニオ:私に聞くんですか。
ケンジ:さっきから偉そうに分析してるだろ。
ワニオ:観察と改善は別です。
ケンジ:使えねえな。
ワニオ:私は相談窓口ではありません。
ケンジ:知ってるよ。
ワニオは少し考える。
ワニオ:ただ。
ケンジ:うん。
ワニオ:反省だけで直そうとするのは、難しいと思います。
ケンジ:なんで。
ワニオ:反省している自分と、悪癖をやっている自分では、状況が違います。
ケンジ:ああ。
ワニオ:満腹の人が「もう食べません」と言うのは簡単です。
ケンジ:確かにな。
ワニオ:二日酔いの人が「もう飲みません」と言うのも簡単です。
ケンジ:俺じゃねえか。
ワニオ:はい。
ケンジ:例に使うな。
ワニオ:目の前にいたので。
ケンジは苦笑する。
ワニオ:問題は、飲んで楽しくなったケンジさんです。
ケンジ:そいつをどうするか。
ワニオ:ええ。
ケンジ:そいつ、言うこと聞かねえんだよな。
ワニオ:同一人物とは思えませんね。
ケンジ:同一人物だよ。
ワニオ:では、責任を持ってください。
ケンジ:急に厳しいな。
ワニオは淡々と続ける。
ワニオ:悪癖は「もうやらない」と思った回数ではなく、やりそうなときに何を変えたかで減るのでは。
ケンジは少し黙った。
ケンジ:……なるほどね。
ワニオ:例えば、飲む量を決めるなら、酔う前に決める。
ケンジ:うん。
ワニオ:夜更かしなら、眠くなってからではなく、先に動画を閉じる。
ケンジ:うん。
ワニオ:衝動買いなら、お金を使ったあとではなく、買う前に一日置く。
ケンジ:まともなこと言うなあ。
ワニオ:意外ですか。
ケンジ:ワニに生活指導される四十代後半の気持ちも考えろ。
ワニオ:そこは観察対象として興味があります。
ケンジ:やっぱお前はそっち側だな。
ケンジは少し笑った。
そして、ふとワニオを見る。
ケンジ:……待てよ。
ワニオ:はい。
ケンジ:さっきから俺の話ばっかりじゃねえか。
ワニオ:二日酔いなのはケンジさんなので。
ケンジ:お前だって「直らない癖ある」って言ったよな。
ワニオ:言いました。
ケンジ:よし。
ケンジが少しだけ元気になる。
ケンジ:次はお前の番だ。
ワニオ:なぜ嬉しそうなんですか。
ケンジ:朝から一方的に人間の欠点を観察しやがって。
ワニオ:事実を確認していただけです。
ケンジ:いいから言え。お前の悪癖。
ワニオは少し考えた。
ワニオ:ありますよ。
ケンジ:ほら見ろ。
ワニオ:人間が揉めていると。
ケンジ:うん。
ワニオ:もう少し見たくなります。
ケンジ:……。
ワニオ:あれは、あまり良くないと思っています。
ケンジ:お前、自覚あったんだな。
ワニオにも直らない悪癖がある

ケンジ:もう少し見たくなるって、どのくらいだよ。
ワニオ:状況によります。
ケンジ:例えば?
ワニオ:二人が言い争っています。
ケンジ:うん。
ワニオ:片方は「もう話したくない」と言っています。
ケンジ:うん。
ワニオ:でも、帰りません。
ケンジ:ああ。
ワニオ:興味深いです。
ケンジ:興味深いじゃねえよ。
ワニオ:話したくないのに、まだそこにいる。
ケンジ:まあ、あるな。
ワニオ:「帰る」と言って荷物を持ったのに、座り直す人もいます。
ケンジ:いるいる。
ワニオ:あれは見てしまいます。
ケンジ:お前、絶対楽しんでるだろ。
ワニオ:楽しむというより、続きが気になります。
ケンジ:ドラマじゃねえんだぞ。
ワニオ:ドラマより先が読めません。
ケンジ:人の修羅場で感心すんな。
ワニオは特に反省した様子もなく、静かに座っている。
ケンジ:それ、止めに入ったりしないのか。
ワニオ:必要なら。
ケンジ:必要じゃなかったら?
ワニオ:見ています。
ケンジ:悪いワニだなあ。
ワニオ:自覚はあります。
ケンジ:だったら直せよ。
ワニオ:ケンジさんも深酒を直してください。
ケンジ:……。
ワニオ:同じですね。
ケンジ:一緒にすんな。俺は誰かの修羅場を眺めてない。
ワニオ:私は翌朝、頭痛になりません。
ケンジ:勝ち負けの話じゃねえ。
ケンジは少し笑ってから、また水を飲んだ。
ケンジ:でも、お前でも直らないもんあるんだな。
ワニオ:あります。
ケンジ:なんか意外だわ。
ワニオ:なぜですか。
ケンジ:お前、いつも人のこと冷静に分析してるだろ。
ワニオ:分析できることと、やめられることは別です。
ケンジ:ああ、それはそうか。
ワニオ:人間も、自分の悪いところを説明できる人は多いです。
ケンジ:いるな。「俺こういうところあるから」って。
ワニオ:説明は上手です。
ケンジ:直ってないけどな。
ワニオ:はい。
ケンジ:耳が痛い。
ワニオ:頭も。
ケンジ:それはもういい。
ワニオは少し考える。
ワニオ:自分の悪癖を知ると、少し安心するのかもしれません。
ケンジ:安心?
ワニオ:「自分は分かっている」と思えるので。
ケンジ:……ああ。
ワニオ:でも、分かっていることと、直したことは別です。
ケンジ:また刺してくるな。
ワニオ:ケンジさんの話ではありません。
ケンジ:俺を見ながら言うな。
ワニオ:目の前にいるので。
ケンジ:便利だな、それ。
ケンジは苦笑する。
ケンジ:でもさ。
ワニオ:はい。
ケンジ:悪い癖って分かってて、それでも直らない。
ワニオ:ええ。
ケンジ:そういうところって、歳取ればなくなると思ってたんだよな。
ワニオ:なぜですか。
ケンジ:なんとなく。
ワニオ:年齢に自動修正機能はありません。
ケンジ:それは四十代後半になって、よく分かったよ。
ワニオ:遅めの確認ですね。
ケンジ:うるせえ。
ケンジは椅子の背にもたれた。
ケンジ:若い頃はさ、もっと大人になれば、こういうしょうもない失敗ってしなくなると思ってた。
ワニオ:なりませんでしたね。
ケンジ:結果だけ言うな。
ワニオ:現在、二日酔いなので。
ケンジ:証拠が強いな。
二人の間に、少しだけ静かな時間が流れた。
ケンジがふと笑う。
ケンジ:もしかして人間って、そんなに完成しないのかもな。
ワニオ:完成する必要があります?
ケンジ:……。
ワニオ:完成したら、観察するところが減ります。
ケンジ:お前の都合じゃねえか。
ワニオ:かなり困ります。
ケンジ:知らねえよ。
ケンジは笑って、また少しだけ頭を押さえた。
どうやら今日は、笑うたびに昨日の自分から請求書が届くらしい。
全部直さなくてもいいのかもな

ケンジはしばらく、ペットボトルを眺めていた。
ケンジ:完成する必要あるか、か。
ワニオ:はい。
ケンジ:若い頃は逆に考えてたな。
ワニオ:どういうふうに。
ケンジ:歳取るほど、欠点が減っていくもんだと思ってた。
ワニオ:減りました?
ケンジ:少しは減ったよ。
ワニオ:少し。
ケンジ:強調すんな。
ケンジは苦笑する。
ケンジ:昔より怒らなくなったし、くだらないことで張り合わなくなったし。人の話も聞くようになった。
ワニオ:良かったですね。
ケンジ:そこだけ聞くと、ちゃんと成長してるだろ。
ワニオ:でも昨日は飲みすぎた。
ケンジ:そこを混ぜるな。
ワニオ:同じケンジさんです。
ケンジ:そうなんだよな。
ケンジは少し笑った。
ケンジ:結局さ。成長したところもあれば、昔から変わってないところもある。
ワニオ:人間は一括更新ではないんですね。
ケンジ:スマホみたいに言うな。
ワニオ:一部だけ更新されます。
ケンジ:そう考えると、妙に納得するけどな。
ワニオ:古い機能も残ります。
ケンジ:深酒は古い機能なのか。
ワニオ:長く搭載されています。
ケンジ:削除したいねえ。
ワニオ:先ほどは「直らない」と言っていました。
ケンジ:努力はするよ。
ワニオ:何回目の。
ケンジ:それ禁止な。
ワニオは黙った。
ケンジは水を飲む。
ケンジ:でも、全部直さなきゃいけないのかって話もあるよな。
ワニオ:全部とは。
ケンジ:悪い癖とか、欠点とか。
ワニオ:直した方がいいものはあります。
ケンジ:まあな。
ワニオ:人を傷つける。生活を壊す。周りに何度も迷惑をかける。
ケンジ:それを「俺こういう人だから」で済ませるのは違うな。
ワニオ:悪癖ではなく、他人への請求になります。
ケンジ:ああ、それは嫌だな。
ワニオ:自分の癖の代金を、他人に払わせています。
ケンジは少し考える。
ケンジ:その言い方、分かりやすいな。
ワニオ:払うのが自分だけなら、まだ自分で考えられます。
ケンジ:なるほど。
ワニオ:他人に払わせ始めたら、直す理由は増えます。
ケンジ:じゃあ、誰にも迷惑かけない程度のやつは?
ワニオ:例えば。
ケンジ:つい夜更かしするとか。休みの日にダラダラするとか。買った本を読まずに積んどくとか。
ワニオ:積むんですか。
ケンジ:積むよ。
ワニオ:読まないのに。
ケンジ:いつか読むんだよ。
ワニオ:いつ。
ケンジ:……いつか。
ワニオ:便利な日付ですね。
ケンジ:お前、そこまで追及する必要ある?
ワニオは少し考えた。
ワニオ:本人が困っていないなら、全部を欠点として扱わなくてもいいのでは。
ケンジ:お。
ワニオ:人間は、自分の気に入らない部分を見つけると、すぐ修理しようとします。
ケンジ:修理。
ワニオ:でも、壊れていないものもあります。
ケンジが少し黙る。
ワニオ:不完全なのと、壊れているのは別です。
ケンジ:……なるほどね。
ワニオ:全部直したら、良い人間になるとも限りません。
ケンジ:どういうこと?
ワニオ:夜更かししない。無駄遣いしない。食べすぎない。失言しない。先延ばししない。いつも冷静。
ケンジ:立派じゃん。
ワニオ:少し観察しづらいです。
ケンジ:またお前の都合か。
ワニオ:かなり平坦です。
ケンジ:人間をコンテンツとして見るな。
ワニオ:でもケンジさんも、欠点のない人とずっと一緒にいたら疲れませんか。
ケンジ:ああ……。
ワニオ:少しくらい変なところがある方が、安心する人もいます。
ケンジ:それは分かる気がするな。
ワニオ:だから、悪癖は全部同じ箱に入れない方がいいです。
ケンジ:人を傷つけるものと。
ワニオ:自分を壊すものと。
ケンジ:ただのしょうもない癖。
ワニオ:はい。
ケンジ:俺の深酒は?
ワニオ:今日は自分を壊しています。
ケンジ:そこは逃がしてくれねえのな。
ワニオ:目の前で壊れているので。
ケンジ:壊れてねえよ。ちょっと頭痛いだけだ。
ワニオ:では、軽微な故障です。
ケンジ:機械扱いすんな。
ケンジは笑って、水をもうひと口飲んだ。
完璧な大人になる。
若い頃には、そんなものがどこかにいるような気がしていた。
でも実際には、歳を重ねても昔からの癖が残っていたり、新しい欠点に気づいたりする。
それでも、昨日より少しマシになったところだってある。
全部きれいに直さなくてもいい。
ただし、自分や誰かを傷つけるものまで「これも自分だから」と抱えておく必要もない。
そのくらいの線引きでいいのかもしれない。
ケンジ:なんか今日のお前、まともだな。
ワニオ:いつもです。
ケンジ:それはどうかな。
ワニオ:二日酔いの人の評価なので、保留します。
ケンジ:朝から強えな、お前。
でも深酒は減らした方がいいです

休憩室の外が、少しずつ騒がしくなってきた。
出勤してくる人が増え、朝の静かな時間もそろそろ終わる。
ケンジはペットボトルを持ち上げた。
ほとんど空になっている。
ケンジ:よし。
ワニオ:何がですか。
ケンジ:なんかスッキリした。
ワニオ:二日酔いが。
ケンジ:いや、話が。
ワニオ:頭痛は。
ケンジ:まだある。
ワニオ:では、あまりスッキリしていません。
ケンジ:細かいな。
ケンジは空になったペットボトルを軽く潰した。
ケンジ:でも、そうだよな。何もかも直して完璧になろうとしなくてもいいんだよな。
ワニオ:はい。
ケンジ:人間なんて、ちょっと欠点あるくらいでいい。
ワニオ:そう思います。
ケンジ:直らないところがあったって、それもその人ってことで。
ワニオ:場合によります。
ケンジ:うん。
ワニオ:先ほど話しました。
ケンジ:分かってるよ。人に迷惑かけるようなのは別だろ。
ワニオ:はい。
ケンジ:だったら俺の深酒もさ。
ワニオ:減らした方がいいです。
ケンジ:早いな。
ワニオ:はい。
ケンジ:もうちょっと考えろよ。
ワニオ:考えました。
ケンジ:いつ。
ワニオ:話している間に。
ケンジ:俺は今、「これも俺らしさ」で着地しようとしてたんだけど。
ワニオ:便利な言葉ですね。
ケンジ:嫌な予感するな。
ワニオ:直したくないものに「自分らしさ」と名前をつけると、保存しやすくなります。
ケンジ:……お前、最後にそれ言う?
ワニオ:今、使ったので。
ケンジは黙った。
確かに使った。
ケンジ:じゃあ何だよ。さっきの「全部直さなくてもいい」は嘘か。
ワニオ:嘘ではありません。
ケンジ:じゃあ俺もいいじゃん。
ワニオ:今日はつらそうです。
ケンジ:まあな。
ワニオ:昨日の自分の行動で、今日の自分が困っています。
ケンジ:うん。
ワニオ:直せるなら、直した方が得です。
ケンジ:損得で来たか。
ワニオ:自分らしさより、頭痛がない方がいいと思います。
ケンジ:そりゃそうだ。
ワニオ:では。
ケンジ:では、じゃねえよ。
ケンジは苦笑した。
ケンジ:分かったよ。減らすよ。
ワニオ:深酒を。
ケンジ:そう。
ワニオ:やめるのではなく。
ケンジ:そこまで大きく出ると失敗するからな。
ワニオ:なるほど。
ケンジ:まずは飲みすぎない。酒飲むときは水も飲む。楽しくなってきたら、むしろ帰る。
ワニオ:最後は難しそうですね。
ケンジ:俺も言いながら思った。
ワニオ:では、そこが重点項目です。
ケンジ:お前、急に俺の生活改善担当みたいになるな。
ワニオ:担当ではありません。
ケンジ:じゃあそんな真面目に聞くなよ。
ワニオ:経過は気になります。
ケンジ:観察したいだけじゃねえか。
ワニオ:はい。
ケンジ:認めやがった。
ケンジが立ち上がる。
少しだけ顔をしかめた。
ワニオ:まだつらそうですね。
ケンジ:だから今日は飲まねえ。
ワニオ:はい。
ケンジ:しばらく控える。
ワニオ:はい。
ケンジ:次に飲むときも、絶対飲みすぎない。
ワニオ:はい。
ケンジ:今度こそな。
ワニオがケンジを見る。
ワニオ:何回目の反省ですか。
ケンジ:……。
ワニオ:覚えていませんか。
ケンジ:覚えてねえよ。
ワニオ:では、かなり多いですね。
ケンジ:朝から最後まで面倒くせえワニだな。
ケンジは空のペットボトルを持って、休憩室を出ていく。
ワニオも、その後ろをゆっくりついていった。
ケンジ:そういや、お前の人の修羅場見る癖はどうすんだよ。
ワニオ:気をつけます。
ケンジ:本当に?
ワニオ:はい。
ケンジ:次に揉めてる人いたら?
少し間が空いた。
ワニオ:少しだけ見ます。
ケンジ:直す気ねえじゃねえか。
ワニオ:悪癖は、すぐには直りません。
ケンジ:今日の話を都合よく使うな。
朝の編集部に、二人の声が消えていった。
直した方がいい癖もある。
別にそのままでもいい癖もある。
そしてたぶん、「直そう」と思っただけでは、直らない癖もある。
人間もワニも、どうやらそこまで簡単には完成しないらしい。



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