雨上がりだった。
空は晴れている。
でも、 地面にはまだ水たまりが残っていた。
ナツメは、 その縁を歩いていた。
虹色の毛並みが、 少しだけ湿っている。
本人は気にしていない。
むしろ、 水たまりに映る自分を見て遊んでいた。
「今日は七色半くらいやな」
誰も聞いていない。
だからもう一度言った。
「七色半や」
やはり誰も聞いていなかった。
ナツメは満足した。
そんな日だった。
細い路地に入る。
知らない道だった。
でも、 知らない道は大体面白い。
面白くない時もある。
その場合は引き返せばいい。
ナツメはそう思っていた。
しばらく歩くと、 奇妙な店を見つけた。
古い木造。
看板は少し傾いている。
窓ガラスも曇っていた。
店先には、 色とりどりのシャツやコートが吊るされている。
ただ、 服ではなかった。
よく見ると、 感情だった。
風に揺れている。
『失恋』
『後悔』
『嫉妬』
『黒歴史』
『言わなきゃよかった一言』
『深夜二時の自己嫌悪』
ナツメは立ち止まる。
「干してあるやん」
感情が、 普通に干してあった。
しかも、 よく乾いている。
看板を見る。
そこには、 こう書かれていた。
『人生クリーニング店』
『思い出洗います』
『感情の染み抜き承ります』
『シミの種類によっては完全除去可能』
ナツメは眉をひそめた。
「怪しさ百点満点やな」
店の扉を開く。
チリン。
鈴が鳴った。
店内は思ったより綺麗だった。
洗剤の匂いがする。
ほんのり、 雨上がりの匂いもした。
カウンターの向こうには、 ワニオがいた。
白いエプロンを着ている。
妙に似合っていた。
ワニオは頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
「本日はどのような汚れでしょうか」
ナツメは店内を見回した。
洗濯機が並んでいる。
だが、 全部名前がおかしい。
『失恋コース』
『後悔コース』
『嫉妬コース』
『青春コース』
『人生まるごと洗浄』
最後のやつだけ、 少し怖かった。
ナツメは聞く。
「ほんまに洗うんか」
ワニオはうなずく。
「はい」
「人間は色々溜め込みますので」
「定期的な洗浄をおすすめしております」
そのとき、 店の奥で大きな音がした。
ガコン。
ゴウン。
ゴウン。
誰かが洗われているらしい。
ナツメはなんだか嫌な予感がした。
ワニオは慣れた様子で言う。
「ちょうど失恋コースが終わる頃ですね」
「ご覧になりますか?」
ナツメはため息をつく。
「ろくなもん見られへん気がする」
そう言いながら、 奥へ向かった。
第一洗浄室 失恋コース

洗浄室は、 コインランドリーによく似ていた。
ただし、 置いてある洗濯機がおかしい。
全部、 人間が入れる大きさだった。
ナツメは立ち止まる。
「違法建築の匂いがする」
ワニオは首を振る。
「感情建築法の範囲内です」
何ひとつ安心できなかった。
そのとき、 目の前の洗濯機が止まった。
ピーピーピー。
終了音。
ワニオが蓋を開ける。
中から、 ソウタが出てきた。
少し湯気が出ていた。
なぜか柔軟剤の匂いもする。
「おお〜」
「軽い〜」
ソウタは伸びをした。
ずいぶん嬉しそうだった。
ナツメは聞く。
「何洗ったんや」
ソウタは笑う。
「失恋」
「ずっと苦しかったから」
ワニオは帳簿を確認する。
「失恋コース標準洗浄」
「三時間四十分」
「すすぎ二回」
「仕上げ柔軟剤あり」
ナツメは思った。
失恋に柔軟剤いるんやな。
世の中は奥深い。
ソウタは上機嫌だった。
「すごいよ〜」
「全然苦しくない」
「思い出しても平気」
そう言いながら、 スマホを開く。
昔好きだった人の写真。
じっと見つめる。
しばらく見つめる。
首を傾げる。
もう一度見つめる。
そして言った。
「誰だっけ?」
部屋が静かになった。
ナツメは、 ゆっくりワニオを見る。
ワニオも、 ゆっくり帳簿を見る。
そして言う。
「少し洗いすぎましたね」
「少しか?」
ソウタは困った顔をする。
「いやでも」
「苦しくないよ?」
確かにそうだった。
胸は痛まない。
眠れない夜もない。
思い出して落ち込むこともない。
完璧だった。
ただ、 ひとつだけ問題があった。
好きだった気持ちまで、 薄くなっていた。
その人が特別だった理由も、 少し分からなくなっていた。
ソウタはスマホを見る。
写真の中で、 誰かが笑っている。
本当は、 すごく好きだったはずだった。
でも今は、 昔見た映画のワンシーンくらいの距離しかない。
ソウタはぽつりと言った。
「楽になったけど」
「なんか寂しいね〜」
ワニオは静かにうなずく。
「失恋は」
「好きだった気持ちと繋がっていますので」
「完全に除去すると」
「一緒に落ちることがあります」
洗濯機の横には、 透明な瓶が置かれていた。
中に、 薄い光が入っている。
ラベル。
『好きだった気持ち』
ナツメは瓶を覗く。
綺麗だった。
少しだけ、 切なかった。
「返してもらえるんか」
ワニオは答える。
「可能です」
「ただし元の場所には戻りません」
「感情も一度洗うと縮みますので」
ナツメは、 その説明が一番怖いと思った。
ソウタは瓶を見つめる。
しばらく考える。
それから笑った。
「とりあえず預けとく〜」
「また好きになりたくなったら取りに来る」
ワニオは帳簿に何かを書いた。
「お預かりします」
ナツメは瓶を見る。
好きだった気持ち。
失恋。
楽になったソウタ。
どれも正しい気がした。
どれも少し間違っている気もした。
そのとき、 奥の洗浄室から誰かの声が聞こえた。
「それも洗えるのか?」
ケンジだった。
ワニオは振り返る。
「後悔コースですね」
「本日おすすめです」
ナツメは、 また嫌な予感がした。
第二洗浄室 後悔コース

第二洗浄室は、 第一洗浄室より静かだった。
洗濯機も少し大きい。
色も違う。
深い紺色だった。
側面には、 小さく注意書きがある。
『反省が落ちる場合があります』
ナツメは二度見した。
「なんか書いとるやないか」
ワニオはうなずく。
「重要事項ですので」
「先ほど説明を?」
「聞いてへん」
そのとき、 ケンジが洗濯機の前に立った。
腕を組んでいる。
少し迷っている顔だった。
ナツメは聞く。
「何洗うん」
ケンジは笑う。
「昔の後悔」
「いくつかあるんだよ」
人間らしい返事だった。
ワニオが説明する。
「後悔コースは人気商品です」
「特に四十代以降に支持されています」
妙に現実的だった。
ケンジは、 洗濯機の中へ入る。
慣れた感じだった。
ナツメは思う。
常連なんか。
蓋が閉まる。
ゴウン。
ゴウン。
ゴウン。
洗浄開始。
機械の中から、 いろいろな音が聞こえる。
若い頃の失敗。
言えなかった言葉。
別れた恋人。
やらなかった挑戦。
全部、 ぐるぐる回っているらしい。
やがて終了音。
ピーピーピー。
ケンジが出てくる。
妙にスッキリした顔だった。
肩も軽そうだった。
「いいなこれ」
「めちゃくちゃ楽だ」
ワニオは帳簿を確認する。
「洗浄成功です」
「後悔除去率九十七パーセント」
ナツメは思った。
ほぼ全滅やん。
ところが、 数分後。
問題が起きる。
店の入り口近くに、 濡れた床があった。
注意看板もある。
『足元注意』
大きく書いてある。
ケンジは、 それを見た。
見たのに歩く。
そして滑る。
派手に転ぶ。
ガシャーン。
ナツメは驚く。
「何しとるん」
ケンジは立ち上がる。
「いや」
「大丈夫大丈夫」
そして、 もう一回同じ場所を歩く。
また転ぶ。
ガシャーン。
ワニオは静かに言った。
「反省が少し落ちましたね」
「少しか?」
ケンジは、 また立ち上がる。
懲りていない。
むしろ楽しそうだった。
ナツメは嫌な予感がした。
案の定、 ケンジは言う。
「そういえば昔」
「やろうと思ってやらなかったこと色々あるんだよな」
「今から全部やるか」
ワニオが小さくうなずく。
「典型的な症状です」
「後悔が消えると」
「無謀さが増します」
洗濯機の横には、 透明な瓶が並んでいた。
その中の一つに、 薄い光が入っている。
ラベル。
『反省』
ナツメは瓶を覗く。
地味だった。
全然キラキラしていない。
でも、 妙に大事そうだった。
ワニオは言う。
「後悔は嫌われますが」
「反省の親戚ですので」
「完全に除去するのはおすすめしておりません」
ケンジは瓶を見る。
しばらく考える。
それから笑った。
「半分だけ返して」
ワニオは帳簿を開く。
「ハーフクリーニングですね」
「人気プランです」
ナツメは少し安心した。
人間は、 全部消したがる。
でも、 全部消すと困るらしい。
そのとき、 奥の洗浄室から声が聞こえた。
「嫉妬って洗えるの?」
ミサキだった。
ナツメは天井を見上げる。
「次もろくなことにならんやろな」
第三洗浄室 嫉妬コース

第三洗浄室は、 妙に派手だった。
壁が紫色だった。
照明も紫だった。
洗濯機まで紫だった。
ナツメは思う。
偏見が強い。
洗濯機の横には、 大きな張り紙があった。
『嫉妬は色移りしやすいため単独洗浄となります』
なるほど。
少し納得した。
ミサキは、 洗濯機の前に立っていた。
腕を組んでいる。
珍しく真面目な顔だった。
ナツメは聞く。
「何をそんなに洗いたいんや」
ミサキは少し考えた。
そして答える。
「別に」
「嫉妬なんて格好悪いじゃない」
その瞬間、 洗濯機が勝手に動き出した。
ゴウン。
ゴウン。
ゴウン。
ワニオが説明する。
「嫉妬コースは自己申告不要です」
「感情側が反応しますので」
ミサキは、 少しだけ嫌そうな顔をした。
図星だったらしい。
しばらくして、 洗浄終了。
ピーピーピー。
ミサキが出てくる。
妙に穏やかだった。
肩の力が抜けている。
表情も柔らかい。
「いい感じ」
「すごく楽」
ナツメは安心した。
今回は成功かもしれない。
そう思った。
十分後。
問題が起きた。
店のテレビで、 誰かの特集が流れていた。
若い起業家。
人気者。
成功者。
以前のミサキなら、 何か思う。
少し悔しくなる。
負けたくないと思う。
たぶん。
でも、 今回は違った。
「へぇ」
それだけだった。
興味がない。
悔しくもない。
羨ましくもない。
そして、 何もしたくない。
ミサキはソファに座る。
天井を見る。
ぼんやりしている。
ナツメは聞く。
「大丈夫か」
ミサキは答える。
「わからない」
「なんか全部どうでもいい」
ワニオは帳簿を確認した。
「副作用ですね」
「向上心も少し落ちています」
ナツメは頭を抱える。
「少しか?」
さっきから、その台詞ばかりだった。
洗濯機の横には、 また瓶が置いてある。
今回は二本。
一本は、 紫色の光。
『嫉妬』
もう一本は、 金色の光。
『負けたくない気持ち』
ミサキは、 しばらく見つめていた。
それから、 金色の瓶を持ち上げる。
「こっちは返して」
ワニオは答える。
「おすすめします」
「人間は意外と」
「少し悔しいくらいがちょうどいいので」
ミサキは、 瓶を胸に抱えた。
少しだけ、 目に光が戻る。
テレビの成功者を見て言う。
「やっぱりムカつくわね」
ナツメは安心した。
どうやら治ったらしい。
そのとき、 奥の洗浄室から楽しそうな声が聞こえた。
アカリだった。
「黒歴史洗いたーい!」
ハルキもいる。
シュウもいる。
ツムギもいる。
ナツメは、 静かに目を閉じた。
「これは絶対あかんやつや」
第四洗浄室 青春コース

第四洗浄室は、 店の中で一番騒がしかった。
まだ誰も入っていないのに、 すでに騒がしかった。
理由は簡単だった。
アカリ。
ハルキ。
シュウ。
ツムギ。
全員いる。
嫌な予感しかしない。
洗濯機は、 他のものより少し小さい。
丸い。
水色だった。
側面には、 こう書かれている。
『青春コース』
『黒歴史除去対応』
『ただし楽しかった記憶が落ちる場合があります』
ナツメは指差した。
「書いてあるやん」
ワニオはうなずく。
「毎回書いてあります」
「毎回読まれません」
青春らしかった。
アカリは笑う。
「大丈夫だって〜」
「消したい思い出なんていっぱいあるし!」
ハルキも乗り気だった。
「高校の頃の黒歴史とか消したいよな」
シュウは冷静だった。
「たぶんやめた方がいい気がする」
誰も聞いていない。
ツムギは聞いた。
「四人まとめて洗えます?」
ワニオは即答した。
「おすすめしません」
「青春は色移りしますので」
意味は分からない。
でも、 なんとなく分かる気もした。
結局、 四人まとめて入った。
予想通りだった。
洗濯機が回る。
ゴウン。
ゴウン。
ゴウン。
中では、 文化祭。
失敗した告白。
変な髪型。
意味不明なポーズの写真。
夜中のテンション。
全部ぐるぐる回っている。
やがて終了。
ピーピーピー。
四人が出てくる。
スッキリした顔だった。
アカリは笑う。
「軽っ!」
ハルキも笑う。
「最高じゃん!」
ナツメは少し安心した。
ところが、 十分後。
問題が起きる。
壁に、 文化祭の写真が飾ってあった。
アカリたちが映っている。
みんな笑っている。
楽しそうだった。
アカリは写真を見る。
首を傾げる。
「なんで笑ってるんだろ」
ハルキも言う。
「さあ」
「なんかやってた気はする」
シュウは写真を見つめる。
少しだけ寂しそうだった。
「覚えてないな」
黒歴史は消えた。
恥ずかしさも消えた。
でも、 楽しさも少し消えた。
あの頃だけの温度も。
洗濯機の横には、 大きな瓶が置いてあった。
中には、 光る何かが入っている。
ラベル。
『恥ずかしさ』
その隣。
『無敵感』
さらに隣。
『根拠のない自信』
ナツメは吹き出した。
「青春やな」
ワニオは瓶を見る。
「若い頃の人間は」
「少し変でないと前に進めませんので」
「この辺は必要な成分です」
アカリは、 瓶を抱える。
『根拠のない自信』
だった。
「これ返して!」
ワニオはうなずく。
「おすすめします」
「大人になると不足しがちですので」
ハルキも笑う。
「オレも返して」
「全部返して」
ツムギも瓶を抱える。
「青春って結構必要だったんだね」
ナツメは、 四人を見ながら思った。
青春というのは、 黒歴史と楽しかった記憶が、 だいたい同じ袋に入っているらしい。
だから、 片方だけ捨てるのは難しい。
そのとき、 ワニオが奥を見た。
店の一番奥。
誰も使っていない洗浄室。
黒い扉。
プレートには、 こう書かれていた。
『人生まるごと洗浄』
ナツメは聞く。
「誰か使ったことあるんか」
ワニオは少し黙った。
そして答えた。
「ほとんどいません」
「ですが、たまに来ます」
その言い方が、 少しだけ気になった。
最終洗浄室 人生まるごと洗浄

店の一番奥だった。
他の洗浄室と違う。
静かだった。
機械音もしない。
照明も暗い。
黒い扉だけがある。
その横に、 小さなプレート。
『人生まるごと洗浄』
説明文もあった。
『苦しみを除去します』
それだけだった。
ナツメは聞く。
「雑な説明やな」
ワニオはうなずく。
「皆さんそこしか読みませんので」
その下には、 もっと小さい文字があった。
誰も見ていない。
ナツメだけが読む。
『喜びも除去されます』
『感動も除去されます』
『期待も除去されます』
『愛着も除去されます』
『人生の色合いが失われる場合があります』
ナツメは顔をしかめた。
「場合やないやろ」
完全に失われるやろ。
ワニオは何も言わない。
静かな顔だった。
部屋の奥には、 大きなガラス窓があった。
向こう側が見える。
洗浄室の中だった。
誰かが座っている。
年齢も性別も分からない。
普通の人だった。
どこにでもいるような人。
その人は、 洗浄を終えたばかりらしい。
表情が穏やかだった。
苦しそうではない。
悲しそうでもない。
怒ってもいない。
ただ、 何もなかった。
窓の外を見る。
雨上がりの空。
何も感じていない。
花を見る。
何も感じていない。
写真を見る。
何も感じていない。
その人は、 穏やかだった。
でも、 幸せには見えなかった。
ナツメは聞く。
「苦しくないんか」
ワニオは答える。
「苦しくありません」
「悲しくもありません」
「寂しくもありません」
少し間が空く。
「嬉しくもありません」
静かだった。
店の中も。
洗浄室も。
ナツメの尻尾だけが揺れる。
ワニオは、 棚の上を指差した。
そこには瓶が並んでいた。
他の洗浄室とは比べものにならない数。
何百本もある。
『悔しさ』
『失恋』
『後悔』
『嫉妬』
『不安』
そして。
『恋』
『感動』
『夢』
『期待』
『希望』
全部あった。
良いものも。
悪いものも。
全部同じ棚だった。
ナツメは、 しばらく眺めていた。
それから言う。
「人間いうんは」
「嫌なもんだけ捨てたがるけど」
「だいたい隣に大事なもん付いとるんやな」
ワニオは、 少しだけ笑った。
「セット商品が多いですね」
ナツメは吹き出した。
それは、 妙に納得できる説明だった。
失恋の隣には恋がある。
後悔の隣には挑戦がある。
嫉妬の隣には向上心がある。
不安の隣には希望がある。
全部、 繋がっていた。
切り離せないくらい。
店の外では、 夕方の光が差し始めていた。
雨上がりの街が、 少し光っている。
ナツメは、 自分の前足を見る。
泥が付いていた。
歩いてきたからだ。
拭こうと思えば拭ける。
でも、 そのままにした。
「まあええか」
ワニオは聞いた。
「洗わないのですか」
ナツメは店の出口へ向かう。
そして振り返らずに答えた。
「歩いた証拠やろ」
夕日が、 虹色の毛並みに当たる。
七色半だった。
たぶん。

