結婚していても、誰かに心が動くことはあるのでしょうか。
そんな問いを口にすると、どこか後ろめたい響きがあります。
「結婚したのだから」
「家族がいるのだから」
「そんな気持ちは持ってはいけないのだから」
そう思う人もいるかもしれません。
けれど、人の気持ちは時々、自分でも驚くような方向へ揺れることがあります。
今回、マリの相談室を訪ねてくれたのは42歳の女性でした。
結婚15年目。
中学生のお子さんがひとり。
ご主人とは大きな喧嘩もなく、家庭は円満。
「夫が嫌いなわけじゃないんです」
彼女は最初にそう話しました。
ご主人は真面目で優しい人。
家族のためによく働き、子育ても協力的。
離婚したいわけでもない。
家庭を壊したいわけでもない。
それなのに——
最近、気になる人がいる。
パート先で出会った同年代の男性。
特別な関係ではありません。
連絡先も知らない。
それでも、彼と話す時間が楽しみになっている自分がいる。
そして時々、こんなことまで考えてしまう。
「もし、わたしが独身だったら」
「もし、彼に抱きしめられたら」
考えた直後に、強い罪悪感が押し寄せる。
夫を裏切りたいわけじゃない。
でも、心は確かに揺れている。
彼女は少し俯きながら、こう言いました。
「わたし、どうしたらいいんでしょうか」
今日は、その戸惑いについて、ゆっくりお話を聞いていこうと思います。


その人といると、少しだけ自分に戻れる

相談者の女性は、少し迷うように言葉を選んでいた。
マリ:その方とは、どんな関係なんですか?
妻:パート先の人です
妻:同じくらいの年齢で、たぶん既婚者です
妻:別に特別な関係ではないんです
妻:連絡先も知らないですし、ふたりで会ったこともありません
マリ:そうなんですね
妻:でも……話していて楽しいんです
妻:なんというか、自然に笑えるというか
妻:気づいたら、その人がいる日のシフトを楽しみにしている自分がいて
そう話しながら、彼女は少し困ったように笑った。
妻:自分でも馬鹿だなって思うんですけどね
妻:学生じゃあるまいしって
マリ:ふふっ
マリ:そう思うからこそ、余計に戸惑うんでしょうね
妻:はい……
妻:最初は本当に何とも思ってなかったんです
妻:ただ、ある日髪を切った時に
妻:その人がすぐ気づいたんです
マリ:髪を?
妻:はい
妻:「髪切りました?」って
妻:それだけなんですけど
妻:……すごく嬉しかったんです
彼女は少し恥ずかしそうに視線を落とした。
妻:夫は気づかなかったんですよ
妻:別に責めたいわけじゃないんです
妻:夫はそういう人ですし
妻:でも、その時だけはなんだか胸が温かくなって
妻:「ちゃんと見てもらえた」気がしたんです
マリは静かに頷く。
マリ:なるほど……
妻:あと、その人と話している時って
妻:母親でもなくて
妻:妻でもなくて
妻:ただの自分なんです
妻:それが楽なんだと思います
妻:子どもの話でもなくて、家計の話でもなくて
妻:昔好きだった映画の話とか
妻:くだらない話とか
妻:そういうのをしてると、なんだか昔の自分に戻れる気がして
少し沈黙が流れる。
妻:……でも、それだけじゃないんです
マリ:はい
妻:時々、考えてしまうんです
妻:もし独身だったら、とか
妻:もし彼に抱きしめられたら、とか
妻:そんなこと考えた瞬間に、自分がすごく嫌になるんです
妻:夫は何も悪くないのに
妻:家庭もあるのに
妻:わたし、何やってるんだろうって
マリ:そうですよね……
マリ:その気持ちがあるからこそ、苦しいんですね
彼が好きなのか、それとも……

店内には静かな音楽が流れていた。
女性はマグカップを両手で包むように持ちながら、小さく息を吐いた。
マリ:その方のことを考える時間は多いですか?
妻:……あります
妻:今日はいるかな、とか
妻:次いつ会えるかな、とか
妻:自分でも気づくくらい考えてると思います
マリ:会えないと寂しいですか?
妻:少しだけ
妻:でも、それを認めたくなくて
妻:だから余計に苦しいんです
彼女は少し笑った。
その笑顔は、どこか自分を責めているようにも見えた。
妻:わたし42歳なんですよ
妻:子どももいますし、結婚して15年ですし
妻:こんな気持ちになるなんて思ってなかったんです
妻:もっと落ち着いてると思ってました
マリ:そうですよね
妻:だから、自分が怖いんです
妻:このまま好きになったらどうしようとか
妻:家庭が壊れたらどうしようとか
妻:そんなことばかり考えてしまって
マリ:その方と一緒になりたいと思いますか?
女性は少し驚いたような顔をした。
そして、しばらく考え込む。
妻:……分からないです
妻:たぶん、そこまで考えたことはありません
妻:一緒に暮らしたいとか、夫と別れたいとか
妻:そういうのとは違う気がするんです
妻:むしろ、家庭は失いたくないです
妻:夫も大切ですし、子どもも大切です
妻:だから余計に分からなくなるんです
妻:じゃあ、この気持ちは何なんだろうって
マリは静かに頷いた。
マリ:なるほど……
マリ:今のお話を聞いていると、まだ「彼と人生を歩みたい」という話ではないように感じます
妻:はい
妻:それは違う気がします
マリ:でも確かに心は動いている
マリ:会えると嬉しい
マリ:考えてしまう
マリ:だから、「何もない」とも言えない
妻:そうなんです
妻:白か黒かで言えなくて
妻:好きなのかもしれないし、違うのかもしれないし
妻:自分の気持ちなのに、自分が一番分からないんです
しばらく沈黙が流れる。
そして女性は、ぽつりと本音をこぼした。
妻:……わたし、本当に彼が好きなんでしょうか
妻:それとも、別の何かなんでしょうか
心が動くことと、行動することは別

マリは、しばらく考えるように視線を落としていた。
そして、ゆっくりと言葉を選ぶ。
マリ:まず、お伝えしたいことがあるんです
マリ:誰かに心が動くことと、その人を選ぶことは別なんですよ
女性は少し驚いたように顔を上げた。
妻:……別、ですか
マリ:はい
マリ:結婚したら、他の誰にも何も感じなくなるわけではないんです
マリ:素敵だなと思うこともありますし、惹かれることもあります
マリ:それは人として自然なことだと思うんです
妻:でも、それって裏切りじゃないんですか?
マリ:そう考えてしまいますよね
マリ:ただ、今のお話を聞いている限り、あなたはその気持ちがあることに苦しんでいる
マリ:家庭を壊したいわけでもない
マリ:ご主人を傷つけたいわけでもない
マリ:むしろ、その逆ですよね
妻:……はい
妻:だから苦しいんです
妻:もし夫が同じことをしていたら嫌ですし
妻:自分がこんな気持ちになるなんて思ってなかったので
マリ:そうですよね
マリ:でも、気持ちは勝手に生まれることがあります
マリ:問題になるのは、そのあとなんです
マリ:気持ちを持ったことではなく、その気持ちをどう扱うか
女性は黙って聞いている。
マリ:例えば今、あなたは彼に惹かれている
マリ:会えると嬉しい
マリ:考えてしまう
マリ:それは事実なんだと思います
マリ:でも同時に、ご主人との生活も大切に思っている
マリ:お子さんも大切に思っている
マリ:その事実もあるんですよね
妻:……はい
マリ:だから今は、「好きになってはいけない」と自分を裁くよりも
マリ:「なぜ心が動いたのか」を見つめる方が大切なのかもしれません
妻:なぜ心が動いたのか……
マリ:はい
マリ:その答えによって、この気持ちの見え方は変わると思うんです
妻:……わたし、自分では恋愛だと思ってました
マリ:かもしれません
マリ:でも、恋愛だけでは説明できない何かもある気がするんです
マリ:今のお話を聞いていると
マリ:あなたは彼自身だけではなく、「彼といる時の自分」にも惹かれているように見えるんですよね
女性は、その言葉に少し目を見開いた。
彼がくれたのは恋愛ではなく、忘れていた感覚かもしれない
女性はしばらく言葉を失っていた。
妻:……彼といる時の自分、ですか
マリ:はい
マリ:もちろん、その方に魅力を感じている部分もあると思います
マリ:でも、お話を聞いていると、それだけではない気がするんです
マリ:例えば、「髪を切ったことに気づいてくれた」
マリ:そこが印象に残っているんですよね
妻:……はい
マリ:それはたぶん、髪型そのものより
マリ:「自分を見てもらえた」という感覚が嬉しかったんじゃないでしょうか
女性は静かに頷いた。
妻:そうかもしれません
妻:最近そんなこと、なかった気がします
妻:家では母親ですし
妻:パート先ではスタッフですし
妻:誰かに「わたし自身」を見てもらうことって、あまりなくて
マリ:そうですよね
マリ:長く結婚生活を続けていると、いつの間にか役割が増えていきますから
マリ:妻になって
マリ:母親になって
マリ:家族を支える人になって
マリ:気づけば、「自分自身」でいる時間が少なくなっていることもあります
妻:……あります
妻:すごくあります
妻:昔はもっと、自分の好きなこととか、やりたいこととか考えてた気がするんです
妻:でも最近は、毎日を回すことで精一杯で
妻:気づいたら、自分のことを考えなくなってました
マリ:だから彼と話す時間が特別だったのかもしれませんね
マリ:彼は、あなたを「誰かの妻」や「誰かのお母さん」ではなく
マリ:ひとりの女性として扱ってくれた
マリ:その感覚が、心に残ったのかもしれません
女性の目が少し潤む。
妻:……なんだか、泣きそうです
妻:恋愛だと思ってました
妻:だから、自分は最低なんだと思ってました
妻:でも今のお話を聞いてると
妻:彼が好きというより
妻:彼と話している時の自分が好きだったのかもしれません
マリ:ええ
マリ:もちろん恋愛感情が全くないとは言いません
マリ:ただ、その気持ちの奥には
マリ:「もう一度、自分自身として見てもらいたい」
マリ:そんな願いも含まれているように感じるんです
女性は何度も小さく頷いていた。
まるで、長い間言葉にならなかった気持ちに、ようやく名前がついたようだった。
マリの言葉

しばらく静かな時間が流れた。
女性は、少し肩の力が抜けたような表情をしていた。
妻:……なんだか、自分を責めすぎていた気がします
妻:気持ちが揺れた時点で、もう駄目なんだと思ってました
マリ:そう思ってしまいますよね
マリ:特に真面目な方ほど、「こんなことを考えてしまう自分」を許せなくなってしまうんです
妻:はい
妻:夫に申し訳なくて
妻:子どもにも申し訳なくて
妻:だから、ずっとひとりで抱えてました
マリ:そうだったんですね
マリ:でも私は、今回のお話を聞いていて
マリ:あなたが誰かを裏切ろうとしているようには見えなかったんです
女性は黙って聞いている。
マリ:むしろ逆で
マリ:大切なものを壊したくないから苦しんでいたように見えました
妻:……そうかもしれません
マリ:だから、まずは自分を裁くことを少しやめてあげてください
マリ:心が動いたこと自体は、人として起こりうることですから
マリ:ただ、その気持ちをどう扱うかは別です
マリ:気持ちは自然に生まれることがあっても、行動は自分で選べます
妻:……はい
マリ:そしてもうひとつ
マリ:もし今回の出来事が、「自分自身を見失っていたサイン」だったとしたら
マリ:本当に向き合うべき相手は、その男性ではないのかもしれません
妻:えっ……
マリ:たとえば、昔好きだったことを思い出してみる
マリ:自分のためだけの時間を作ってみる
マリ:誰かの妻でも母でもない時間を持ってみる
マリ:そういうことの方が、今のあなたには必要なのかもしれません
女性は少し考え込んだあと、ふっと笑った。
妻:……わたし、最近そういう時間なかったです
妻:全部、家族優先でした
妻:それが当たり前だと思ってました
マリ:もちろん家族は大切です
マリ:でも、家族を大切にするために、自分を空っぽにし続ける必要はないと思うんです
マリ:あなた自身の人生も、ちゃんと大切にしていいんですよ
女性の目に、少しだけ涙が浮かんだ。
妻:……ありがとうございます
妻:なんだか、初めて少し楽になりました
余韻

結婚しているのに、誰かに心が動いてしまった。
その事実だけを見ると、後ろめたく感じる人もいるかもしれません。
けれど、人の気持ちは時々、自分でも予想できない形で揺れることがあります。
大切なのは、その揺れを無理に否定することではなく、そこに何が隠れているのかを見つめることなのかもしれません。
今回の相談者さんは、夫を嫌いになったわけではありませんでした。
家庭を壊したかったわけでもありません。
むしろ、その逆でした。
だからこそ、自分の気持ちに戸惑い、苦しんでいたのだと思います。
もしかすると彼女が惹かれていたのは、その男性そのものだけではなく。
彼と話している時の、自分自身だったのかもしれません。
誰かの妻になること。
誰かの母になること。
それはとても大切な役割です。
でも、その役割の中で生きているうちに、「自分自身」を少し置き去りにしてしまうこともあります。
だから時々、人は誰かとの出会いを通して、自分の中の忘れていた部分に気づくのかもしれません。
心が動いたことを、すぐに善悪で裁かなくてもいい。
ただ、その気持ちを理由に大切なものまで壊さないこと。
そして、その気持ちが教えてくれたものに目を向けてみること。
それもまた、自分自身を大切にするということなのだと思います。
誰かに惹かれた理由を辿っていくと、そこにいたのは恋愛相手ではなく、長い年月の中で少し見失っていた「自分自身」だった。
※「マリの相談室」は、実際によくある悩みや感情をもとに構成した、こいこと。編集部による創作相談企画です。



