ミサキの部屋のテーブルには、小皿がいくつも並んでいた。
きゅうりのぬか漬け。
しば漬け。
いぶりがっこ。
長芋の浅漬け。
そして、その横には赤ワインのボトル。
どう見ても組み合わせがおかしい。
ミサキ:マリさん、今日は実験です
マリ:あら、実験?
玄関から入ってきたマリは、テーブルを見るなり少し目を丸くした。
ミサキは満足そうにワイングラスを並べる。
ミサキ:わたし、漬け物でワイン飲むんですよ
マリ:ふふっ
マリ:知ってるわ
ミサキ:え?
マリ:この前、話していたもの
ミサキ:そうでしたっけ
マリ:言ってたわよ
ミサキは少しだけ首を傾げた。
言ったかもしれない。
言ってないかもしれない。
でも、どうでもいい。
今日の目的は別にある。
ミサキ:でも、ワイン好きの人に評価してもらったことはないんです
ミサキ:だから今日はマリさんを呼びました
ミサキ:正直に採点してください
マリ:責任重大ねぇ
マリは優しく笑った。
その笑い方が、ミサキには少し不思議だった。
こいこと。の女性メンバーの中でも、マリは少し違う。
前に出るわけじゃない。
声が大きいわけでもない。
でも、なぜかその場の空気が落ち着く。
ミサキ:……マリさんって、ほんと不思議ですよね
マリ:そうなの?
ミサキ:はい
ミサキ:ただ優しい人って感じじゃないんです
マリ:ふふ
マリ:それ、褒めてるのかしら
ミサキ:かなり褒めてます
ミサキ:たぶん
マリ:たぶんなのね
ワインと漬け物。
欲しいものをすべて手に入れたい女と、いろんなものを通り抜けてきた女。
少し変わった夜が、静かに始まろうとしていた。

漬け物とワイン、意外と合うのよ

マリはテーブルの上に並んだ漬け物を眺めた。
マリ:思ったより種類があるのね
ミサキ:舐めないでください
ミサキ:わたし、漬け物には本気なんです
マリ:ふふっ
マリ:知ってるわ
ミサキは少し得意そうな顔で、いぶりがっこを差し出した。
ミサキ:まずはこれです
ミサキ:初心者向けですね
マリ:漬け物にも初心者向けがあるのね
ミサキ:ありますよ
ミサキ:恋愛と一緒です
マリ:そうなの?
ミサキ:知りませんけど
マリ:適当ねぇ
ふたりは笑った。
マリはいぶりがっこをひと口食べ、そのあとワインを飲む。
少しだけ目を丸くした。
マリ:あら
ミサキ:でしょ?
マリ:思ったより合うわね
ミサキ:勝ちました
マリ:何に?
ミサキ:わかりませんけど勝ちました
ミサキは満足そうにワインを口に運ぶ。
マリはそんな様子を見ながら微笑んだ。
マリ:ミサキちゃんって面白いわね
ミサキ:よく言われます
マリ:褒めてるのよ
ミサキ:知ってます
少し間が空く。
窓の外では春の夜が静かに更けていた。
ミサキ:でも意外でした
マリ:何が?
ミサキ:マリさん、ワイン好きなのに全然語らないじゃないですか
マリ:そうかしら
ミサキ:普通もっと語りますよ
ミサキ:産地がどうとか、品種がどうとか
マリ:そういうのも楽しいけどね
マリ:わたしは美味しかったらそれで十分なの
ミサキ:それが不思議なんですよね
ミサキ:好きなものって、もっと執着しません?
マリ:そうなの?
ミサキ:わたしはします
ミサキ:好きなものは全部欲しいですから
マリはグラスを軽く回した。
赤いワインがゆっくり揺れる。
マリ:ミサキちゃんらしいわね
ミサキ:褒めてます?
マリ:褒めてるの
マリは穏やかに笑った。
その笑顔を見ながら、ミサキはふと思った。
この人は昔からこうだったんだろうか。
それとも。
何かを通り抜けたから、今こうなったんだろうか。

マリさんって、昔からこんな感じだったんですか?

ワインは半分ほど減っていた。
漬け物も順調に減っている。
いぶりがっこは予想以上に好評だった。
ミサキ:意外でした
マリ:何が?
ミサキ:マリさん、ちゃんと漬け物食べるんですね
マリ:どういうイメージだったのよ
ミサキ:もっとこう……
ミサキ:おしゃれなチーズとか食べてるのかと
マリ:チーズも好きよ
マリ:でも漬け物も好きなの
ミサキ:よかった
ミサキ:仲間でした
マリ:ふふっ
⸻
少し静かな時間が流れる。
ミサキはグラスを揺らしながら、ふと口を開いた。
ミサキ:マリさんって、昔からこんな感じだったんですか?
……。
マリ:こんな感じ?
ミサキ:はい
ミサキ:穏やかというか
ミサキ:余裕があるというか
ミサキ:なんか全部わかってそうというか
マリ:そんなことないわよ
ミサキ:ありますって
ミサキ:正直言うと
ミサキ:わたし、マリさんだけは未だによく分からないんです
⸻
マリは少しだけ笑った。
驚いた様子はない。
言われ慣れているのかもしれない。
マリ:そうねぇ
マリ:若い頃は今よりずっと面倒だったと思うわ
ミサキ:ほら
ミサキ:絶対そうだと思ったんですよ
マリ:どうして?
ミサキ:だって今のマリさん
ミサキ:完成されすぎてるんですもん
マリ:完成なんてしてないわよ
ミサキ:してますって
ミサキ:悔しいですけど
ミサキ:わたしがまともにやり合ったら、たぶん軽くあしらわれます
マリ:やり合う気だったの?
ミサキ:ないです
ミサキ:勝てなそうなので
⸻
マリは声を出して笑った。
珍しく少し大きな笑い声だった。
マリ:面白い子ねぇ
ミサキ:褒め言葉として受け取ります
マリ:もちろんよ
⸻
ミサキ:でも何かあったでしょ
マリ:何が?
ミサキ:今のマリさんになるまでです
ミサキ:そういう顔してます
……。
マリは窓の外を見た。
春の夜の街明かり。
静かな時間。
マリ:そうね
マリ:夢中になっていたものはあったかもしれないわね
ミサキ:へぇ
ミサキ:仕事ですか?
マリ:どうかしら
マリ:もう随分前のことだから
ミサキ:教えてくれないんですね
マリ:ふふ
マリ:秘密にしておきましょうか
⸻
ミサキは追及しなかった。
珍しく。
なぜなら。
答えを聞きたいわけではなかったからだ。
ただ確認したかった。
この人にも。
今とは違う、激しい時間があったのだと。
それだけで十分だった。
ミサキ:なるほど
ミサキ:やっぱり何かあったんですね
マリ:そうかもしれないわね
マリはそう言って、静かにワインを口に運んだ。
全部欲しいんです。諦める気もありません
しばらく沈黙が続いた。
嫌な沈黙ではない。
むしろ心地いい。
ワインを飲みながら、漬け物をつまむ。
それだけで会話が成立しているような時間だった。
⸻
マリ:ミサキちゃんは昔からそうなの?
ミサキ:何がですか?
マリ:全部欲しいってところ
……。
ミサキは少し笑った。
ミサキ:そうですね
ミサキ:たぶん昔からです
ミサキ:欲しいものは欲しいですし
ミサキ:諦めるの嫌いなんですよ
マリ:そうなのね
ミサキ:ええ
ミサキ:わたし、人生で妥協したくないんです
⸻
マリは黙って聞いていた。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ聞いている。
ミサキ:仕事も欲しいです
ミサキ:評価も欲しいです
ミサキ:面白い人生も欲しいです
ミサキ:好きな人ができたら、その人も欲しいです
マリ:ふふっ
ミサキ:笑いましたね?
マリ:少しだけ
ミサキ:失礼な人ですね
マリ:ごめんなさい
マリ:でも、ミサキちゃんらしいなと思って
⸻
ミサキ:マリさんは違うんですか?
ミサキ:欲しいものとかないんですか?
マリ:あるわよ
ミサキ:あるんだ
マリ:あるのよ
ミサキ:意外です
マリ:失礼ねぇ
ふたりは少し笑った。
⸻
ミサキ:じゃあ取りに行きます?
ミサキ:欲しいなら
マリ:昔はそうだったかもしれないわね
……。
ミサキ:今は?
マリ:今は少し違うかしら
マリ:来たら嬉しいし
マリ:来なくても大丈夫
ミサキ:それが分からないんですよねぇ……
⸻
ミサキ:だって
ミサキ:欲しいものがあるなら欲しくないですか?
ミサキ:手に入れたいじゃないですか
ミサキ:待つだけなんてもったいないです
マリ:うん
マリ:それも素敵だと思うの
ミサキ:……。
ミサキ:マリさん、ずるいんですよ
マリ:そう?
ミサキ:否定しないじゃないですか
ミサキ:普通は「欲張りすぎ」とか言うんですよ
マリ:だって思わないもの
マリ:欲しいなら取りに行けばいいじゃない
マリ:ミサキちゃんは、その方が後悔しないでしょう?
……。
ミサキは少しだけ黙った。
その通りだった。
⸻
マリ:人によって違うのよ
マリ:追いかけた方が幸せな人もいるし
マリ:待った方が幸せな人もいる
マリ:だから正解はひとつじゃないの
ミサキ:……。
ミサキ:やっぱり不思議です
マリ:どうして?
ミサキ:マリさんって
ミサキ:諦めた人には見えないんですよ
⸻
その言葉に。
マリは少し目を細めた。
否定も肯定もしない。
ただ。
静かにワインを口へ運んだ。
マリ:そうねぇ
マリ:諦めたことは、一度もないかもしれないわね
その言葉だけが。
静かな部屋にゆっくり落ちた。
創業85年 おらがむら漬で年間約60万個!漬け込んだ伝統の味
幸せって、手に入れるものなんですか?

しばらく二人とも黙っていた。
グラスの中のワインが少しずつ減っていく。
テーブルの上の漬け物も、いつの間にか残り少なくなっていた。
ミサキ:ひとつ聞いていいですか?
マリ:もちろん
ミサキ:幸せって、手に入れるものなんですか?
……。
マリ:難しい質問ねぇ
ミサキ:そうですか?
ミサキ:わたし、ずっとそう思ってました
ミサキ:欲しいものを手に入れる
ミサキ:なりたい自分になる
ミサキ:それが幸せだって
⸻
マリ:それも幸せだと思うわ
ミサキ:またそれです
マリ:なにが?
ミサキ:否定しない
ミサキ:全部「それもいいわね」って言うじゃないですか
マリ:だって本当にそう思うんだもの
ミサキ:ずるいんですよねぇ……
⸻
マリ:でもね
マリ:昔のわたしは、ミサキちゃんに近かったかもしれないわ
ミサキ:ほら
ミサキ:やっぱり
マリ:欲しいものがあったし
マリ:叶えたいこともあった
マリ:必死だったと思う
ミサキ:今は?
マリ:今もあるわよ
ミサキ:あるんだ
マリ:あるの
マリ:ただ少し変わっただけ
⸻
ミサキ:どう変わったんですか?
マリ:手に入らないものもあるって知ったの
……。
ミサキ:……。
マリ:頑張っても届かないこともあるし
マリ:大切にしていても失うこともある
マリ:人生って案外そういうものなのよ
⸻
ミサキは静かに聞いていた。
説教に聞こえない。
たぶん。
この人は本当に経験したことしか話さない。
だから重い。
でも嫌じゃない。
⸻
マリ:でもね
マリ:手に入らなかったから不幸かっていうと、そうでもないの
ミサキ:……。
マリ:失ったから終わりかっていうと、そうでもない
マリ:そのあとに見える景色もあるから
⸻
ミサキ:わたしにはまだ分からないかもしれません
マリ:それでいいのよ
ミサキ:だってわたし
ミサキ:まだ全部欲しいですから
マリ:ふふっ
マリ:知ってるわ
ミサキ:欲しい仕事もあります
ミサキ:欲しい未来もあります
ミサキ:まだ諦めたくないです
マリ:うん
マリ:諦めなくていいと思うの
⸻
ミサキ:……。
ミサキ:ほんと不思議ですね
マリ:そう?
ミサキ:マリさんなら
ミサキ:「そんなに欲張るな」って言いそうなのに
マリ:言わないわよ
マリ:だってミサキちゃんは、そうやって生きる人でしょう?
マリ:だったら、そのままでいいじゃない
⸻
ミサキは少しだけ笑った。
たぶん。
この人には敵わない。
勝ち負けの話ではなく。
人生を通り抜けた人の強さみたいなものを感じる。
そして不思議なことに。
それが少し心地よかった。

わたしなりのリスペクトです

気づけば、ワインのボトルは空になっていた。
漬け物もほとんど残っていない。
思いつきで始めた実験は、思った以上に成功だった。
マリ:ごちそうさま
マリ:美味しかったわ
ミサキ:でしょう?
ミサキ:漬け物、馬鹿にできないんですよ
マリ:ええ
マリ:ちゃんとワインに合ってた
ミサキ:勝ちましたね
マリ:だから何に勝ったのよ
ふたりは笑った。
⸻
帰る準備を始めたマリを見て。
ミサキはふと思い出したように立ち上がる。
マリ:どうしたの?
ミサキ:ちょっと待ってください
冷蔵庫を開ける。
奥から小さな保存容器を取り出した。
透明な容器の中には、ぬか漬けが入っている。
マリ:あら
マリ:漬け物?
ミサキ:ぬか漬けです
ミサキ:持って帰ってください
……。
マリ:いいの?
ミサキ:はい
ミサキ:マリさんなら
ミサキ:いいかなって
⸻
マリは少しだけ驚いた顔をした。
マリ:ありがとう
マリ:嬉しいわ
ミサキ:ちなみに
ミサキ:人にあげるの初めてです
マリ:そうなの?
ミサキ:ええ
ミサキ:彼氏にもあげたことありません
マリ:ふふっ
マリ:それは光栄ね
⸻
ミサキ:なんて言うんでしょうね
ミサキ:わたし、ぬか床だけは特別なんです
ミサキ:子どもの頃から続いてるものですし
ミサキ:たぶん、自分だけのものだと思ってるんですよ
マリ:うん
ミサキ:だから誰かに分けるの、なんか変な感じです
マリ:そうね
マリ:大事なものなんでしょうね
ミサキ:そうかもしれません
⸻
少しだけ沈黙が落ちる。
そしてミサキは、珍しく視線を逸らした。
ミサキ:まあ
ミサキ:わたしなりのリスペクトです
……。
マリ:ふふ
マリ:ありがとう
マリ:大事に食べるわね
⸻
玄関の扉が閉まる。
静かになった部屋で、ミサキは空になったワインボトルを眺めた。
漬け物とワイン。
正直、最初は変な組み合わせだと思っていた。
でも。
案外悪くなかった。
⸻
欲しいものは全部欲しい女。
穏やかに笑う女。
たぶん一生、同じにはならない。
人生の考え方だって違う。
それでも。
また一緒に飲みたいとは思った。
そんな夜だった。

