駅前の大通りから一本入った路地。
赤提灯の灯りが揺れる小さな焼き鳥屋は、今日も仕事帰りの客で賑わっていた。
炭火の香り。
店内に響く「お疲れさまです」の声。
カウンターでは焼き台の上で、ねぎまや皮がじゅうじゅうと音を立てている。
そんな店の奥のテーブル席で、ナナは生ビールをひと口飲んだ。
ナナ:
あー、生き返る
ミカコ:
毎回言ってるね
ナナ:
毎回生き返ってるからね
向かいではミカコがハイボールを持ち、ユキノはレモンサワーを軽く揺らしている。
ユキノ:
焼き鳥屋って落ち着くよね
ナナ:
分かる。おしゃれな店も好きだけど、こういう店はなんか本音出る
ミカコ:
人生相談はだいたい焼き鳥屋か居酒屋で始まるからね
ナナ:
今日は人生相談回かも
ユキノ:
重そうな予感しかしないんだけど
そこへ店員が焼きたてのねぎまを運んできた。
炭火の香りがふわっと広がる。
ナナ:
最近さ
ナナ:
別に何かあったわけじゃないんだけど
ナナ:
なんか焦るときない?
ユキノとミカコが顔を見合わせる。
ユキノ:
ある
ミカコ:
普通にある
ナナ:
即答じゃん
ユキノ:
いや、たぶん大人はみんなあると思う
ミカコ:
焦らない人なんているのかな
ナナ:
SNS見て焦ったり
ユキノ:
友達の結婚とかね
ミカコ:
仕事とか将来とかもある
ナナ:
そうそう
ナナ:
別に今すぐ何か困ってるわけじゃないのに、急になんか不安になる夜あるじゃない
ユキノ:
分かるなぁ
ミカコ:
今日はその話かな
ナナ:
うん
ナナ:
テーマは「なんか焦るときない?」
三人はグラスを軽く持ち上げた。
焦り。
誰にも見せないけれど、たぶん誰もが抱えている感情だった。
焦る理由の半分は“他人”かもしれない

ナナ:
でもさ、冷静に考えると変なんだよね
ミカコ:
何が?
ナナ:
昨日まで普通だったのに、SNS見た瞬間焦ったりするじゃん
ユキノ:
あー…分かる
ミカコ:
それはあるね
店員が焼きたてのつくねを置いていく。
甘辛いタレの香りがテーブルに広がった。
ナナ:
別に結婚したいわけじゃない日もあるのよ
ナナ:
でも友達の結婚報告見ると「わたし大丈夫かな」ってなる
ユキノ:
人間だもんね
ミカコ:
焦りって案外、自分の問題じゃないこと多いと思う
ナナ:
どういうこと?
ミカコ:
本当に自分が困ってるわけじゃないの
ミカコ:
ただ他人と比べてるだけ
ナナ:
痛いとこ突くなぁ
ユキノ:
でも分かるかも
ユキノ:
わたし離婚した後さ
ユキノ:
友達の結婚式とか行くと結構しんどかったもん
ナナ:
やっぱり?
ユキノ:
うん
ユキノ:
幸せそうで素敵だなって思う反面、「わたし何やってるんだろう」って気持ちになる時もあった
ミカコ:
自然な感情だと思う
ユキノ:
でも後から気付いたんだよね
ユキノ:
その人の人生と、わたしの人生は別なんだって
ナナ:
難しいけど大事だね
ミカコ:
SNSって特にそう
ミカコ:
結婚した人は結婚報告するし
ミカコ:
家買った人は家載せるし
ミカコ:
転職成功した人は転職報告する
ミカコ:
でも失敗した話はあんまり出てこない
ナナ:
確かに
ユキノ:
みんな人生のハイライトだけ見てるんだよね
ミカコ:
そう
ミカコ:
だから比較すると苦しくなる
ミカコ:
焦りの半分くらいは、現実じゃなくて比較から生まれてる気がする
少しだけ三人が黙る。
誰にも思い当たることがあった。
ナナ:
なんかさ
ナナ:
今日、耳が痛い話ばっかりなんだけど
ユキノ:
大人の会だからね
ミカコ:
焼き鳥屋で現実を知る会です
ナナ:
その会、入会した覚えないんだけど
30代になると人生の正解が増える

ナナ:
でもさ、20代の頃より今の方が焦る気がするんだよね
ミカコ:
それは分かる
ユキノ:
むしろ20代の方が気楽だったかも
ナナ:
だよね?
ナナ:
20代ってまだ「これから」って感じじゃない
ナナ:
でも30代になると急に人生の答え合わせ始まる感じするのよ
ミカコ:
結婚は?とか
ユキノ:
子どもは?とか
ナナ:
仕事どうするの?とかね
店員が皮とぼんじりを置いていく。
炭火の香りと一緒に、どこか現実的な話題が続いていく。
ミカコ:
30代って選択肢が減るわけじゃないんだけど
ミカコ:
周りから「どれ選ぶの?」って聞かれ始める時期なんだと思う
ナナ:
それだ
ユキノ:
なんか常に進路希望調査出されてる感じね
ナナ:
めちゃくちゃ分かる
三人が笑う。
でも、その笑いの中には少し本音も混じっていた。
ユキノ:
わたしさ、一回離婚してるじゃない
ナナ:
うん
ユキノ:
だから余計に思うんだけど
ユキノ:
人生って意外と予定通りにならないんだよね
ミカコ:
それは説得力あるなぁ
ユキノ:
20代の頃はさ
ユキノ:
結婚して、子どもがいて、こういう家庭を作ってって考えてた
ユキノ:
でも実際は全然違う人生になった
ナナ:
後悔してる?
ユキノは少しだけ考える。
レモンサワーの氷が静かに音を立てた。
ユキノ:
してないかな
ユキノ:
もちろん辛かったことはあるよ
ユキノ:
でも今のわたしは、あの経験込みで出来てるから
ミカコ:
うん
ユキノ:
だから最近思うの
ユキノ:
人生の正解って、一個じゃないんじゃないかって
なんとなく静かになる。
焼き鳥屋の賑やかな声が遠くに聞こえた。
ナナ:
その考え方、いいな
ミカコ:
でも焦る時って、自分以外の人生を正解だと思っちゃうんだよね
ユキノ:
そうなんだと思う
ナナ:
今日はなんか深いなぁ
ミカコ:
焼き鳥屋で人生を語る年齢になったんだよ
ナナ:
それは認めたくない
焦ったからうまくいったこと、ある?

ナナ:
でもさ
ナナ:
焦るのって悪いことばっかりじゃなくない?
ミカコ:
珍しく前向きだね
ナナ:
珍しくは余計だわ
三人が笑う。
ナナ:
いや、実際あるんだよ
ナナ:
焦ったから動いたこと
ユキノ:
例えば?
ナナ:
恋愛とかさ
ナナ:
「このままじゃ終わるな」って思って告白したことあるし
ナナ:
仕事もそう
ナナ:
「このままじゃ嫌だ」って思ったから転職考えたこともある
ミカコ:
それは分かるかも
ユキノ:
焦りって危機感だもんね
ミカコ:
人って満足してたら動かないし
焼き鳥の盛り合わせが運ばれてくる。
ねぎま、砂肝、つくね、皮。
どれから食べるかで盛り上がる。
ナナ:
結局さ
ナナ:
焦りって「今のままじゃ嫌」ってサインでもあるんだよね
ユキノ:
うん
ミカコ:
だから全部否定しなくていいと思う
ミカコ:
問題は焦りそのものじゃない
ナナ:
というと?
ミカコ:
焦って変な判断すること
ユキノ:
あー…
ミカコ:
結婚したいから誰でもいいとか
ミカコ:
仕事辞めたいから準備なしで辞めるとか
ミカコ:
そういうのは危ない
ナナ:
確かにねぇ
ユキノ:
焦りって火みたいなものかも
ナナ:
火?
ユキノ:
料理に使えば役立つけど
ユキノ:
家の中で暴れたら大変じゃない
ミカコ:
なるほど
ユキノ:
だから焦りを感じること自体は悪くない
ユキノ:
その焦りをどう使うかなんだと思う
ナナが生ビールを飲みながら頷く。
ナナ:
今日はユキノの例えがいちいち上手いな
ユキノ:
焼き鳥屋だからかな
ミカコ:
炭火に影響受けてるのかもしれない
ナナ:
そんなことある?
本当に怖いのは焦ることじゃない

ナナ:
なんか今日話してて思ったけどさ
ナナ:
焦ること自体は別に悪くないんだね
ミカコ:
わたしはそう思う
ユキノ:
うん
ミカコ:
だって人間だし
ミカコ:
将来もあるし、不安もあるし
ミカコ:
焦らない方が不自然かもしれない
店内は相変わらず賑やかだった。
仕事の愚痴を話す声。
笑い声。
誰もがそれぞれの人生を抱えている。
ユキノ:
わたしね
ユキノ:
余裕そうに見える人も、実は焦ってると思うんだ
ナナ:
絶対そう
ミカコ:
見せないだけだよね
ユキノ:
結婚してても悩みあるし
ユキノ:
独身でも悩みあるし
ユキノ:
仕事が順調でも不安はある
ユキノ:
みんな何かしら抱えてる
ナナ:
SNSだけ見てると忘れるけどね
ミカコ:
あれは人生の予告編だから
ナナ:
予告編?
ミカコ:
面白そうなシーンしか流れないでしょ
ナナ:
それ上手いな
ユキノ:
だから比較し始めると終わらないんだよね
ユキノ:
上には上がいるし
ユキノ:
違う人生もあるし
ミカコ:
結局、自分の人生を生きるしかない
ナナ:
なんか身も蓋もないけど正しい
ユキノがレモンサワーを飲みながら、小さく笑った。
ユキノ:
でも本当に怖いのって焦ることじゃないと思う
ナナ:
じゃあ何?
ユキノ:
焦ってることを認められなくなることかな
ミカコ:
あー…
ユキノ:
焦ってる自分を責めたり
ユキノ:
無理して平気なフリしたり
ユキノ:
そうすると余計苦しくなる気がする
ナナ:
確かにね
ミカコ:
焦りって感情だから
ミカコ:
なくそうとするより、付き合う方が現実的かも
ユキノ:
うん
ユキノ:
焦る日があってもいいし、不安な夜があってもいい
ユキノ:
それでも少しずつ前に進んでれば十分なんじゃないかな
少しだけ静かな時間が流れる。
焼き鳥屋の喧騒の中で、その言葉だけが不思議と残った。
ナナ:
じゃあ最後に乾杯しますか
ミカコ:
そうだね
ナナ:
焦る自分にも
ミカコ:
不完全な人生にも
ユキノ:
これからの自分にも
三人のグラスが静かに重なる。
カチン、と心地よい音が響いた。
焦りは消えない。
でも、焦りながら生きているのは自分だけじゃない。
そんなことを思えた夜だった。
まとめ
焦りは誰にでもある感情です。
結婚、仕事、お金、将来。 年齢を重ねるほど、考えることは増えていきます。
でも、焦りの多くは他人との比較から生まれるもの。
焦る自分を責めるのではなく、うまく付き合っていくこと。
それが大人になるということなのかもしれません。

