過去に手紙を送れる店|ナツメ式「過去便」

過去に配送するトラック。それを見送るナツメとワニオ。
目次

過去便

とある街に。

少し変わった配送会社があった。

駅から離れた、 古い商店街。

八百屋と。

時計屋と。

ずっと閉まったままの映画館。

その間に、 小さな店を構えていた。

看板には、 ただ。

「配達」

と書いてある。

店の前には、 古びた配送車が一台。

窓から見えるのは、 段ボール箱。

封筒。

荷札。

どこにでもありそうな、 配送会社だった。

ただ。

入口の横にある、 小さな看板だけがおかしかった。

「過去へのお届け、承ります。」

その看板の前で。

一匹の猫が止まった。

虹色の毛並み。

小さな鞄を肩から下げた、 旅する猫。

ナツメだった。

「ワニオ。」

「過去って書いてある。」

隣を歩いていたワニオも、 立ち止まる。

「書いてありますね。」

「どこまで過去なん?」

「昨日とか?」

ワニオは、 看板の下を見る。

小さな文字があった。

「一年前。」

「十年前。」

「五十年前。」

「ご指定いただけます。」

ナツメの虹色のしっぽが、 ぴんと立った。

「五十年前?」

「それもう配送ちゃうやろ。」

「何でしょうね。」

「入ってみよ。」

ナツメは、 迷わず扉を押した。

カラン。

古いベルが鳴る。

中には、 普通の配送会社と同じような受付があった。

壁には、 料金表。

棚には、 大量の封筒。

奥では、 制服を着た男が荷物を仕分けている。

ナツメは、 受付へ前足をかけた。

「すみません。」

「過去って。」

「ほんまに過去?」

受付の男は、 顔を上げる。

「はい。」

「何年前でも。」

「ご本人がおられる時代でしたら。」

ナツメは、 ワニオを見る。

ワニオも、 ナツメを見る。

「送れるん?」

「送れます。」

「手紙だけ?」

「原則として。」

「生ものは?」

「お断りしております。」

「そこ普通なんや。」

受付の男は、 ナツメに一枚の紙を渡した。

「こちらをお読みください。」

ナツメは、 紙を見る。

過去便利用規約。

その下には、 いくつか注意事項が並んでいた。

一。

送れるものは、 手紙一通。

二。

送り先は、 過去の自分。

三。

一度発送した手紙は、 取り戻せない。

そして。

最後だけ、 赤い文字だった。

「手紙の内容によって、現在が変更される場合があります。」

ナツメは、 顔を上げた。

「そらそうなるか。」

受付の男は、 うなずく。

「過去が変われば。」

「現在も変わります。」

ナツメは、 もう一度紙を見る。

「でも。」

「変わるって、どれくらい?」

「分かりません。」

「仕事が変わることもあります。」

「住む場所が変わることもあります。」

「友人が変わることも。」

「結婚相手が変わることもあります。」

ナツメの耳が、 少し下がった。

「結構変わるやん。」

「はい。」

「人生ですので。」

受付の男は、 淡々としていた。

「ただし。」

「過去便をご利用になった方だけは。」

「変更前の人生を覚えています。」

ナツメは、 しばらく黙った。

そして。

店内を見回した。

何人もの人が、 小さな机に座っていた。

みんな。

手紙を書いている。

泣きながら書く人。

笑いながら書く人。

何度も消しゴムを使う人。

白い便箋を前に、 一文字も書けずにいる人。

ナツメは、 ぽつりと言った。

「みんな。」

「そんなに昔の自分に言いたいことあるんやな。」

ワニオは、 店内を眺める。

「人間は。」

「あとから気づくことが多いのでしょう。」

そのとき。

扉のベルが鳴った。

カラン。

一人の男が、 店へ入ってきた。

リクだった。

手には、 何も持っていない。

それでも。

何を書きたいのかだけは、 もう決まっているようだった。

過去便の配送会社の看板を見るナツメとワニオ。

リクからリクへ

リクは、 受付の前で少しだけ立ち止まった。

壁には、 過去便の料金表。

一年前。

五年前。

十年前。

遠くなるほど、 少しずつ料金が高くなる。

ナツメは、 虹色のしっぽを揺らしながらリクを見る。

「リクも。」

「昔の自分に用事あるん?」

リクは、 少し困ったように笑った。

「ありますよ。」

「結構あります。」

「へえ。」

「何?」

「それは言いません。」

「なんでや。」

受付の男が、 リクへ便箋と封筒を渡す。

「送り先の年月を。」

「こちらへご記入ください。」

リクは、 少し考える。

そして。

五年前。

そう書いた。

机へ移動する。

便箋を前にしても、 リクはすぐには書かなかった。

ペンを持ったまま、 何度か指先で回す。

ナツメは、 少し離れた椅子から眺めていた。

「決まっとったんちゃうん?」

「書きたいことは。」

「決まってます。」

「じゃあ書けばええやん。」

リクは、 白い便箋を見る。

「過去の自分だと思うと。」

「ちょっと言い方を考えますね。」

「自分にも気ぃ遣うん?」

「そういうところを。」

「直したいんですけどね。」

ナツメは笑った。

やがて。

リクは書き始める。

長い手紙ではなかった。

嫌なことは、嫌だと言っていい。

誰かをがっかりさせても、それだけで嫌われたりはしない。

もう少し、自分の気持ちを優先していい。

最後に。

少し迷ってから、 一行を足した。

全部の人に、いい人だと思われなくていい。

リクは、 ペンを置いた。

「これで。」

「お願いします。」

受付の男が、 封筒を受け取る。

宛名は。

五年前のリク。

男は封筒へ、 赤い印を押した。

過去便。

そして。

店の奥にある、 小さな投入口へ入れる。

カタン。

音は、 それだけだった。

ナツメは、 拍子抜けした顔をする。

「もっと。」

「光ったりせえへんの?」

「配送ですので。」

「地味やな。」

数分後。

店の裏から、 エンジンの音が聞こえた。

窓の外を見る。

さっき停まっていた、 古い配送車が走り出す。

荷台には。

過去便。

そう書かれていた。

「ほんまに車で行くん?」

「はい。」

「五年前まで?」

「はい。」

「道あるん?」

「あります。」

「どこに?」

「過去に。」

ナツメは、 それ以上聞くのをやめた。

やがて。

リクは店を出た。

ナツメとワニオも、 あとを追う。

商店街を歩く。

何も起こらない。

「いつ変わるん?」

「手紙が届いたときでしょう。」

「五年前やろ?」

「はい。」

「何分かかるん?」

「五年前ですので。」

「時間の話してんねん。」

そのときだった。

風が吹いた。

商店街の景色が、 一瞬揺れた。

古い写真を、 誰かが入れ替えたような。

ほんの小さな違和感。

ナツメは、 足を止める。

「来た?」

ワニオが、 前を見る。

「届いたようですね。」

少し先に、 リクがいた。

同じ服。

同じ顔。

同じリク。

でも。

何かが、 少し違った。

そこへ。

一人の男が走ってくる。

「リク。」

「悪い。」

「今日の夜、手伝ってくれない?」

「急に一人来られなくなって。」

リクは、 スマートフォンを見る。

「今日は予定あるんで。」

「無理です。」

「そっか。」

「じゃあ別の人探すわ。」

「すみません。」

「また今度なら。」

「了解。」

男は、 そのまま走っていった。

ナツメは、 口を開けたままリクを見る。

「断った。」

リクが振り返る。

「そりゃ。」

「予定があれば断りますよ。」

「前やったら。」

「一回悩んどったやん。」

「そうですか?」

リクは、 本当に覚えていないようだった。

ナツメは、 ワニオを見る。

「変わっとる。」

「はい。」

それから、 いくつかの場面を見た。

頼まれごとを、 無理なら断るリク。

自分と違う意見に、 愛想笑いをしないリク。

行きたくない誘いには、 行かないと言うリク。

それでも。

周りには人がいた。

笑っていた。

誰かに嫌われて、 一人ぼっちになったりもしなかった。

以前より。

少しだけ肩の力が抜けていた。

ナツメは、 嬉しそうに言った。

「ええやん。」

「めっちゃ成功やん。」

ワニオは、 何も言わなかった。

「何?」

「いえ。」

その日の夕方。

ナツメたちは、 駅前を歩いていた。

向こうから、 一人の男が来る。

ナツメには、 見覚えがあった。

以前のリクと、 よく一緒にいた友人だった。

男は、 リクの横を通り過ぎる。

何も言わない。

リクも、 何も言わない。

ナツメは振り返った。

「え?」

男は、 そのまま人混みへ消えていく。

「知り合いやろ?」

リクは、 首をかしげた。

「誰です?」

ナツメは、 黙った。

覚えていた。

五年前。

その男が、 仕事も恋愛もうまくいかなくなっていた頃。

夜中にリクを呼び出した。

リクは、 翌朝早かった。

本当は帰りたかった。

それでも。

断れなかった。

深夜のファミレスで。

何時間も。

男の話を聞いた。

その夜から、 二人は親しくなった。

でも。

今のリクなら。

きっと断っている。

そして実際に。

二人は、 友人になっていなかった。

ナツメの虹色の耳が、 少しだけ下がる。

「なあ。」

「これも。」

「手紙のせい?」

ワニオは、 静かにうなずく。

「おそらく。」

「でも。」

「リクは前より楽そうやで。」

「はい。」

「良くなったんやろ?」

「そうかもしれません。」

ナツメは、 男が消えた方向を見る。

「でも。」

「あの人はおらんくなった。」

ワニオは、 少し考える。

「変わるということは。」

「増えることだけではありません。」

ナツメは、 しばらく黙っていた。

少し先では。

新しいリクが、 誰かと楽しそうに話している。

確かに。

前より生きやすそうだった。

それでもナツメは。

さっきすれ違った、 知らない人になった友人の背中を。

しばらく忘れられなかった。

すれ違う男性とリク。過去に手紙を送り関係性がなくなった。

ミサキからミサキへ

翌日。

ナツメとワニオは、 また配送会社にいた。

ナツメは、 受付の横に置かれた椅子で丸くなっている。

虹色の毛並みが、 窓から入る朝日に照らされていた。

「昨日からずっと考えとる。」

ワニオは、 隣の椅子に座っている。

「何をです?」

「リク。」

ナツメは、 前足に顎を乗せた。

「前より楽そうやった。」

「はい。」

「でも。」

「友達一人おらんくなった。」

「はい。」

「どっちがええん?」

「分かりません。」

「昨日からそればっかりやな。」

「昨日から同じことを聞かれておりますので。」

ナツメが、 むっとした顔を上げる。

そのとき。

カラン。

入口のベルが鳴った。

一人の女性が入ってくる。

ミサキだった。

受付の男が、 いつものように便箋を差し出す。

「過去のご自分へ?」

「ええ。」

ミサキは、 迷わず答えた。

「十年前の私に。」

ナツメが、 むくりと起き上がる。

「十年前?」

ミサキは、 ナツメを見る。

「何よ。」

「結構戻るなと思って。」

「直すなら。」

「早い方がいいでしょ。」

「直す?」

ミサキは、 便箋を持って机へ向かう。

椅子に座る。

ペンを取る。

そして。

しばらく書かなかった。

ナツメは、 少し離れた場所から見ている。

「何書くん?」

「人と比べるのをやめなさい。」

ミサキは、 便箋を見たまま答えた。

「へえ。」

「意外?」

「ちょっと。」

ミサキは、 小さく笑う。

「昔から。」

「誰かが褒められると。」

「自分が負けた気がしたの。」

「誰かが成功すると。」

「素直に喜べない。」

「私の方ができるのにって。」

「勝手に比べて。」

「勝手に悔しがって。」

「疲れない?」

「疲れるわよ。」

ミサキは、 即答した。

「だから。」

「十年前の私に教えてあげる。」

ペンが動く。

人と比べなくていい。

誰かに負けても、あなたの価値は減らない。

一番じゃなくてもいい。

ミサキは、 そこで一度止まった。

少し考えて。

もう一行。

誰かの成功を、あなたの敗北にしないで。

ナツメは、 横から便箋を覗く。

「ええこと書くやん。」

「でしょう?」

「自分で言うんや。」

ミサキは、 封筒を閉じた。

迷いはなかった。

受付へ持っていく。

赤い印が押される。

過去便。

十年前のミサキへ。

カタン。

封筒が投入口へ落ちた。

しばらくして。

配送車のエンジンが鳴る。

ナツメは、 窓から見送った。

「十年前まで。」

「あれで行くんやな。」

「はい。」

「ガソリン足りる?」

「距離ではありませんので。」

「そらそうか。」

少しして。

景色が揺れた。

昨日と同じ。

誰かが世界を一度ほどいて、 結び直したような感覚。

ナツメは、 すぐにミサキを見る。

そこにいた。

同じ顔。

同じ声。

同じミサキ。

けれど。

表情が、 少し柔らかかった。

数日後。

ナツメたちは、 新しいミサキを見ていた。

知人の女性が、 仕事で大きな賞を取った。

以前のミサキなら。

笑顔で祝福しながらも。

家へ帰れば、 きっと悔しがっていた。

「なんであの人なの。」

そう言って。

夜中まで仕事をしていたかもしれない。

でも。

今のミサキは違った。

「すごいじゃない。」

「おめでとう。」

それだけ。

本当に嬉しそうだった。

ナツメは、 感心する。

「変わったな。」

「はい。」

別の日。

ミサキの企画が、 選考から落ちた。

以前なら。

理由を聞いた。

直した。

もう一度出した。

それでも駄目なら。

別の形にして出した。

それでも駄目なら。

腹を立てながら、 また書いた。

でも。

今のミサキは、 落選のメールを読んで。

「そっか。」

そう言っただけだった。

パソコンを閉じる。

ナツメが、 目を丸くする。

「終わり?」

「終わり。」

「もう一回出さんの?」

「出さない。」

「なんで?」

ミサキは、 不思議そうにナツメを見る。

「そこまでして。」

「勝たなくてもいいじゃない。」

そして。

友人との約束へ向かっていった。

楽しそうだった。

ナツメは、 その背中を見送る。

「ええことなんよな?」

ワニオは、 答えなかった。

それからしばらくして。

ナツメは、 以前の世界にあったものが。

いくつか消えていることに気づいた。

何度も書き直した末に、 掲載された記事。

落選したあと、 悔しくて勉強して取った資格。

絶対に負けたくないと、 何か月も追いかけた仕事。

前のミサキが、 悔しさを燃料にして手に入れたもの。

今の世界には。

それらがなかった。

代わりに。

ミサキはよく眠っていた。

休日には、 仕事を忘れて出かけていた。

誰かの成功を聞いても、 機嫌が悪くならなかった。

笑う時間も、 少し増えていた。

ナツメは、 夕方のベンチに座った。

虹色のしっぽが、 足元でゆっくり揺れる。

「これも。」

「成功なん?」

ワニオが、 隣に座る。

「ミサキさんは。」

「以前より穏やかそうです。」

「うん。」

「前より楽そう。」

「はい。」

「でも。」

ナツメは、 少し考える。

「前のミサキ。」

「負けたらめっちゃ悔しそうやったけど。」

「そのあと。」

「めっちゃ頑張っとったよな。」

「はい。」

「面倒くさい人やったけど。」

「それも。」

「ミサキやったんやな。」

ワニオは、 しばらく黙っていた。

そして。

「欠点だけを。」

「過去へ置いてくるのは。」

「難しいのでしょう。」

ナツメは、 首をかしげる。

「なんで?」

「同じ場所に。」

「長所も置いてあることがありますので。」

ナツメは、 少し離れた場所を歩くミサキを見る。

今のミサキは。

楽しそうだった。

だから。

元に戻した方がいいとは、 思わなかった。

でも。

前のミサキを、 間違いだったとも思えなかった。

ナツメは、 小さくつぶやく。

「過去って。」

「直せばええってもんでもないんやな。」

穏やかになったミサキ。没になった企画も簡単に諦める。

ミユの手紙

その日の午後。

配送会社の扉が、 また開いた。

カラン。

入ってきたのは、 ミユだった。

「ここ?」

「昔の自分に手紙送れるって。」

受付の男が、 いつもの便箋を差し出す。

「はい。」

「送りたい時代を、 こちらへ。」

ミユは、 少し考える。

「いつがいいかな。」

ナツメは、 受付横の椅子から顔を上げた。

虹色の耳が、 ぴくりと動く。

「ミユも送るん?」

「送る。」

「即答やな。」

「だって。」

「昔の私に言いたいこと。」

「めちゃくちゃあるもん。」

ナツメは、 少し嫌な予感がした。

「例えば?」

ミユは、 指を折り始める。

「忘れ物する前に確認して。」

「余計なこと言わないで。」

「分からないのに分かった顔しないで。」

「提出期限は前日に思い出して。」

「大事なものを大事な場所にしまって。」

「その大事な場所を忘れないで。」

ナツメが、 途中で止めた。

「もうええ。」

「まだあるよ。」

「あるんや。」

ミユは、 便箋を持って机へ向かった。

送り先は。

十年前。

ミユは、 迷うことなく書き始める。

もっとちゃんと確認してください。

思ったことを、すぐ口に出さないでください。

嫌われたかもと思っても、一人で勝手に結論を出さないでください。

人の話は最後まで聞いてください。

予定はメモしてください。

一枚目が埋まった。

ミユは、 二枚目をもらった。

ナツメが、 机の下から見上げる。

「まだ書くん?」

「まだ半分くらい。」

「十年前のミユ。」

「手紙読んだだけで落ち込むんちゃう?」

「大丈夫。」

「私だから。」

「それが心配なんや。」

ミユは、 気にせず続きを書く。

失敗したら、ごまかさないでください。

困ったときに笑って乗り切ろうとしないでください。

「なんとかなる」は、なんとかしてから言ってください。

ワニオが、 便箋を横から眺める。

「かなり具体的ですね。」

「経験に基づいてますから。」

「説得力があります。」

「褒められてる?」

「事実を述べております。」

やがて。

二枚目も埋まった。

ミユは、 満足そうにペンを置く。

「できた。」

ナツメは、 二枚の便箋を見る。

「これ届いたら。」

「結構変わりそうやな。」

「でしょ?」

ミユは、 嬉しそうだった。

「ちゃんとした私になるかも。」

「忘れ物しない。」

「失言しない。」

「仕事もできる。」

「嫌われたかもって、 いちいち落ち込まない。」

「完璧。」

ナツメは、 昨日のミサキを思い出した。

何か言おうとした。

でも。

やめた。

ミユは、 便箋を封筒へ入れようとする。

そのとき。

一枚目の最後に書いた言葉が、 目に入った。

人の話は最後まで聞いてください。

手が止まった。

「……あ。」

ナツメが、 首をかしげる。

「何?」

「これ。」

ミユは、 その一文を指差した。

「昔。」

「友達の話を最後まで聞かないで。」

「勝手に勘違いしたことあった。」

「ほら。」

「やっぱ直した方がええやん。」

「うん。」

「でも。」

ミユは、 少し笑った。

「そのあと。」

「めちゃくちゃ謝ったの。」

「その子も笑って。」

「そこから前より仲良くなった。」

ナツメは、 何も言わない。

ミユは、 次の一文を見る。

失敗したら、ごまかさないでください。

「これも。」

「昔。」

「仕事で失敗して。」

「怒られると思って。」

「最初ちょっと隠そうとしたことあった。」

「隠したん?」

「途中で怖くなって言った。」

「怒られた?」

「怒られた。」

「でも。」

「そのとき先輩が一緒に謝ってくれた。」

「それから。」

「困ったらその人に相談するようになった。」

ミユは、 便箋をめくる。

嫌われたかもと思っても、一人で勝手に結論を出さないでください。

「あ。」

「これもある。」

「まだあるん?」

「嫌われたと思って。」

「泣きながら友達に電話したことある。」

「結局。」

「全然嫌われてなかった。」

「ほな。」

「ただの勘違いやん。」

「そう。」

「でも。」

「その夜。」

「その友達と三時間くらい話して。」

「今まで知らなかったこと。」

「いっぱい聞いた。」

ミユは、 少しずつ黙っていった。

さっきまで。

直したいことが、 二枚いっぱいにあった。

でも。

一つずつ見ていくと。

その失敗の隣には、 誰かがいた。

怒ってくれた人。

助けてくれた人。

一緒に笑った人。

話を聞いてくれた人。

失敗したから、 覚えたこともあった。

恥ずかしかったから、 二度とやらなくなったこともあった。

ナツメは、 何も言わず待っていた。

ミユは、 もう一度。

手紙を最初から読む。

そして。

ぽつりと言った。

「これ全部できる私って。」

「すごいな。」

「せやな。」

「ちゃんとしてる。」

「せやな。」

「仕事もできそう。」

「多分。」

「失敗も減りそう。」

「ええことやん。」

「うん。」

ミユは、 しばらく便箋を見つめた。

「でも。」

「この人。」

「私かな。」

ナツメの虹色のしっぽが、 ぴたりと止まった。

ミユは笑う。

「なんか。」

「全部直したら。」

「私じゃなくなりそう。」

ワニオが、 静かに聞く。

「それでも。」

「今より良い人生になる可能性はあります。」

「うん。」

「分かってる。」

ミユは、 便箋を持ち上げた。

「でも。」

「今の私。」

「そんなに嫌いじゃないんだよね。」

そして。

二枚の便箋を重ねる。

真ん中から。

びりっ。

破った。

ナツメが、 目を丸くする。

「送らへんの?」

「送らない。」

「せっかく書いたのに。」

「書いたから。」

「送らなくていいって分かった。」

ミユは、 破った便箋をゴミ箱へ入れる。

受付の男が聞く。

「よろしいのですか。」

「はい。」

「過去は。」

「そのままで。」

ミユは、 店を出ていく。

カラン。

扉が閉まった。

ナツメは、 ゴミ箱から少しだけ見えている便箋を見る。

「変えられるのに。」

「変えへん人もおるんやな。」

ワニオは、 静かにうなずく。

「はい。」

「過去を受け入れることも。」

「過去を変えるのと同じくらい。」

「勇気がいるのかもしれません。」

ナツメは、 少し考えた。

「でも。」

「ミユ。」

「明日もなんか失敗するんやろな。」

「おそらく。」

「そこは変わらんのやな。」

「手紙を送りませんでしたので。」

ナツメは、 少し笑った。

そのとき。

店の奥から、 別のベルが鳴った。

チリン。

今まで聞いたことのない音だった。

ナツメは、 顔を上げる。

受付のさらに奥。

小さな廊下の先に、 もう一つ窓口があった。

表の受付より、 ずっと小さい。

その上に。

古い木の札が掛かっていた。

「特別便」

ナツメの虹色の耳が、 またぴくりと動いた。

「なあ。」

「あれ。」

「何送るとこ?」

過去の自分に手紙を出すのをやめたミユ。

もう一つの窓口

ナツメは、 店の奥を覗き込んだ。

表の受付とは違って。

その窓口には、 料金表がなかった。

便箋も。

封筒も。

見本すら置いていない。

ただ。

古い木の札だけが、 壁に掛かっている。

「特別便」

ナツメは、 虹色のしっぽを揺らしながら近づいた。

「なあ。」

「これ何?」

受付の男が、 少しだけ視線を向ける。

「特別便です。」

「それは書いてある。」

「何が特別なん?」

男は、 少し間を置いた。

「過去のご本人以外へ。」

「手紙をお届けします。」

ナツメの耳が立った。

「自分以外にも送れるん?」

「はい。」

「誰でも?」

「過去に。」

「その方が存在していれば。」

ナツメは、 すぐには意味が分からなかった。

数秒して。

目を丸くする。

「それって。」

「もう死んでもうた人にも?」

「送れます。」

ナツメは、 黙った。

さっきまで。

少し面白い店だと思っていた。

昔の自分へ。

失敗するな。

もっと頑張れ。

そんな手紙を送る店。

でも。

この窓口は、 少し違った。

「昔の友達は?」

「送れます。」

「別れた恋人。」

「送れます。」

「子どもの頃の。」

「お父さんとか。」

「お母さんとか。」

「送れます。」

ナツメは、 窓口の奥を見る。

そこには。

表の受付とは違う封筒が、 静かに並んでいた。

白ではない。

薄い灰色。

どれも。

まだ何も書かれていない。

「なんや。」

ナツメが言った。

「こっちの方が。」

「すごいやん。」

ワニオが、 ナツメを見る。

「そうでしょうか。」

「そうやろ。」

ナツメは、 少し興奮していた。

「だって。」

「昔の誰かに。」

「未来のこと教えられるんやろ?」

「病気になるなら。」

「早く病院行けって言える。」

「事故に遭うなら。」

「そこ行くなって言える。」

「誰かが困るなら。」

「先に教えたらええ。」

「これ。」

「人助けできるやん。」

受付の男は、 否定しなかった。

「できます。」

ナツメの顔が明るくなる。

「ほら。」

「やっぱり。」

「ただし。」

ナツメのしっぽが止まった。

「またそれあるん?」

「ございます。」

男は。

窓口の下から、 一枚の紙を取り出した。

表の過去便とは違う。

黒い縁取りのある、 小さな紙だった。

特別便利用規約。

ナツメは読む。

一。

過去に存在する、 ご本人以外の方へ。

手紙一通を送ることができる。

二。

手紙を受け取った方が、 どのような行動を取るかは保証されない。

三。

過去の変更によって生じた、 現在および未来の変化は取り消せない。

そして。

最後に。

少し大きな文字で、 書かれていた。

「受取人との関係が、消失する場合があります。」

ナツメは、 そこを二度読んだ。

「消失?」

「はい。」

「どういうこと?」

男は、 淡々と説明する。

「例えば。」

「ある出来事をきっかけに。」

「二人が出会ったとします。」

「その出来事を。」

「手紙によってなくした場合。」

「二人が出会う理由も。」

「なくなることがあります。」

ナツメは、 少し考える。

「……あ。」

昨日のリクを思い出した。

断れなかった夜が消えて。

友人との関係も消えた。

あれと同じだった。

「助けたら。」

「会われへんくなることもあるん?」

「あります。」

「仲良かった人が。」

「知らん人になる?」

「可能性はあります。」

「家族は?」

「変わる場合があります。」

「恋人は?」

「変わる場合があります。」

「結婚した人は?」

「出会わなくなる場合があります。」

ナツメは、 紙を置いた。

さっきまでの勢いが、 少しなくなった。

「難しいな。」

ワニオが、 灰色の封筒を見る。

「自分の過去を変えるより。」

「少し複雑ですね。」

「でも。」

ナツメは言った。

「助けられるんやろ?」

「場合によっては。」

「ほな。」

「送るやろ。」

「自分と会わんくなるくらい。」

「助かるならええやん。」

ワニオは、 何も言わなかった。

ナツメが見る。

「何?」

「いえ。」

「ほんまにそう思える場面ばかりなら。」

「簡単なのでしょうね。」

ナツメは、 少しむっとする。

「なんや。」

「また難しいこと言うて。」

そのとき。

チリン。

特別便のベルが鳴った。

三人が、 入口を見る。

一人の女性が立っていた。

三十代くらい。

派手な服ではない。

小さな鞄を、 両手で抱えている。

左手の薬指には。

結婚指輪があった。

女性は、 受付へ近づく。

そして。

鞄から一枚の写真を取り出した。

二人の少女が、 笑っている写真。

制服姿。

肩を寄せて。

二人とも、 楽しそうに笑っていた。

写真の端は、 少し擦れている。

何度も。

誰かが触った跡だった。

受付の男が聞く。

「どなたへ。」

女性は。

写真の中の一人を、 指でそっと撫でた。

「親友です。」

「十七年前の。」

少し間があった。

そして。

「事故で。」

「亡くなりました。」

ナツメの虹色の耳が、 ゆっくり下がった。

女性は。

もう一度、 写真を見る。

「助けたいんです。」

その声は。

迷っている人の声には、 聞こえなかった。

あの日、来ないで

女性は、 特別便の窓口に座った。

受付の男が、 灰色の便箋を一枚差し出す。

「送り先の年月と。」

「お相手のお名前を。」

女性は、 すぐに書いた。

十七年前。

親友の名前。

迷わなかった。

その二つは。

十七年間、 忘れたことがなかった。

ナツメは、 少し離れた場所に座っていた。

虹色のしっぽを、 前足の横へ巻いている。

さっきまで。

特別便は便利だと思っていた。

事故に遭うなら、 行くなと伝えればいい。

病気になるなら、 病院へ行けと伝えればいい。

未来を知っている人間から見れば。

答えは、 簡単に見えた。

でも。

女性は、 なかなか手紙を書き始めなかった。

ペンを持ったまま。

写真を見ている。

ナツメは、 小さな声で聞いた。

「事故って。」

「どんな事故やったん?」

女性は、 写真から目を離さなかった。

「交通事故です。」

「夕方。」

「駅へ向かう途中でした。」

ナツメは、 少し考える。

「ほな。」

「その道通るなって書けば。」

女性の手が止まった。

「はい。」

「それだけで。」

「たぶん助かります。」

ナツメは、 首をかしげた。

それなら。

どうして、 こんなに苦しそうなのか。

女性は。

写真を机へ置いた。

「あの日。」

「駅へ呼んだのは。」

「私なんです。」

ナツメの耳が、 ぴくりと動いた。

女性は、 ゆっくり話し始めた。

十七年前。

二人は、 高校生だった。

同じクラス。

席も近かった。

昼休みは、 いつも一緒だった。

放課後も。

休みの日も。

特別なことをしなくても。

二人でいれば、 楽しかった。

その日。

女性は、 駅前の店へ買い物に行く予定だった。

一人で行くのが退屈で。

親友へ連絡した。

「今から来ない?」

返事はすぐに来た。

「行く。」

それだけだった。

女性は先に駅へ着いた。

待ち合わせ場所で、 親友を待った。

十分。

二十分。

三十分。

来なかった。

携帯電話へ連絡しても。

返事はなかった。

やがて。

親友ではなく。

知らない番号から、 電話がかかってきた。

女性は、 そこで話すのを止めた。

ナツメも。

何も聞かなかった。

その先は。

聞かなくても分かった。

女性は、 結婚指輪のある左手を握った。

「ずっと。」

「考えてきました。」

「あの日。」

「私が呼ばなければ。」

「事故には遭わなかった。」

ワニオが、 静かに言う。

「事故を起こしたのは。」

「あなたではありません。」

女性は、 少し笑った。

「分かってます。」

「何度も。」

「そう言ってもらいました。」

親友の両親にも。

先生にも。

友人にも。

何度も。

あなたのせいではない。

偶然だった。

誰にも予想できなかった。

そう言われた。

女性自身も。

頭では分かっていた。

「でも。」

「十七年経っても。」

「ときどき考えるんです。」

「あの子が。」

「家でテレビでも見ていたら。」

「今も生きてたんだろうなって。」

女性は、 写真を見る。

制服姿の二人が、 笑っている。

「私が。」

「来てって言わなければ。」

「その日は。」

「普通の日だった。」

ナツメの虹色のしっぽが、 ゆっくり床をなぞった。

「それを。」

「伝えるんやな。」

「はい。」

「事故の場所を?」

「いいえ。」

女性は、 首を横に振った。

「もっと簡単にします。」

ペンを持つ。

でも。

まだ書かない。

受付の男が、 静かに声をかけた。

「その前に。」

「確認しなければならないことがあります。」

女性は、 顔を上げる。

男は、 特別便の利用規約を机へ置いた。

「事故がなくなれば。」

「その後の人生も変わります。」

「はい。」

「ご友人だけではありません。」

「あなたの人生も。」

「分かっています。」

女性は答えた。

でも。

受付の男は、 まだ手紙を受け取らなかった。

「本当に。」

「分かっておられますか。」

女性が、 男を見る。

「ご友人が亡くなったあと。」

「あなたの人生に起きた出来事。」

「それらも。」

「なくなる可能性があります。」

女性の視線が。

ゆっくり。

左手へ落ちた。

薬指には。

銀色の指輪があった。

ナツメも、 その指輪を見る。

「それって。」

女性は、 指輪に触れた。

「結婚しているんです。」

少しだけ。

表情が柔らかくなる。

「今。」

「幸せなんです。」

ナツメは、 何も言えなかった。

女性は、 親友の写真と。

自分の結婚指輪を。

交互に見た。

十七年前に失った人。

そして。

その十七年の先で、 出会った人。

二人は。

女性の人生の中で。

一本の道の上にいた。

その道を。

今から。

途中で分けようとしていた。

過去の親友へ手紙を書く女性。

あの子がいなくなったあと

女性は、 しばらく結婚指輪を見つめていた。

「夫と出会ったのは。」

「事故から六年後です。」

ナツメは、 黙って聞いていた。

女性は、 机の上の写真へ目を戻す。

「事故のあと。」

「私。」

「あの子の家に行けなくなったんです。」

「なんで?」

「怖かったから。」

親友の家は、 何度も遊びに行った場所だった。

玄関を開ければ。

親友の靴があった。

リビングには。

二人で座ったソファがあった。

冷蔵庫には。

二人で勝手に食べて、 母親に怒られたプリンが入っていた。

何も変わっていないのに。

一人だけ。

いなかった。

「それに。」

女性は、 小さく息を吐く。

「ご両親に。」

「どんな顔して会えばいいのか。」

「分からなかった。」

自分が呼ばなければ。

あの子は死ななかった。

そう思っていた。

だから。

親友の家族も。

きっと自分を責めている。

そう思っていた。

事故から一か月ほど経ったころ。

女性の家に。

一人の男がやって来た。

親友の兄だった。

「母さんが。」

「心配してる。」

女性は、 玄関から出られなかった。

「行けません。」

「なんで。」

「会えません。」

兄は、 しばらく黙っていた。

そして。

「じゃあ。」

「これだけ渡す。」

小さな紙袋を置いた。

中には。

写真が何枚か入っていた。

親友の部屋から見つかったものだった。

二人で撮った写真。

文化祭。

海。

ファミレス。

意味もなく撮った、 変な顔。

そして。

一枚のメモ。

親友の母親の字だった。

「あなたまでいなくならないでね。」

女性は、 その場で泣いた。

「責められると思ってたんです。」

ナツメの虹色の耳が、 少し下がる。

「責められへんかったん?」

「一度も。」

「誰にも?」

「一度も。」

それから。

少しずつ。

女性は、 親友の家へ行くようになった。

最初は。

玄関まで。

次は。

リビングまで。

やがて。

夕飯を食べて帰るようになった。

親友の母親は。

女性が来ると、 いつも二人分のお菓子を出しかけた。

途中で気づいて。

一つを戻す。

最初のころは。

そのたびに、 みんな黙った。

数年経つと。

「また二つ出しちゃった。」

母親が笑うようになった。

女性も。

一緒に笑えるようになった。

忘れたわけではない。

忘れられるわけでもない。

ただ。

悲しい話だけでは、 なくなっていった。

親友の父親が入院したときには、 女性も見舞いに行った。

母親の誕生日には、 花を持っていった。

親友の兄が結婚するときには。

家族席のすぐ近くに、 女性の席があった。

「家族みたいやな。」

ナツメが言う。

女性は、 少し考えてから答えた。

「そうだったのかもしれません。」

事故から六年。

女性は、 社会人になっていた。

ある日。

親友の兄から連絡が来た。

「今度。」

「何人かで飲むけど来る?」

女性は参加した。

そこで。

一人の男性と出会った。

兄の友人だった。

最初は。

特別な印象はなかった。

よく笑う人。

話を聞く人。

それくらい。

でも。

何度か会った。

二人でも会うようになった。

付き合った。

三年後。

結婚した。

女性は、 左手を見た。

「優しい人です。」

「今でも?」

「今でも。」

少し笑う。

「朝。」

「私より先に起きると。」

「コーヒーを淹れてくれます。」

「私が風邪をひくと。」

「必要ないくらい薬を買ってきます。」

「料理は下手です。」

「でも作ろうとはします。」

ナツメが、 小さく笑った。

「ええ人やな。」

「はい。」

女性も笑った。

その笑顔を見て。

ナツメは。

さっきまで簡単だと思っていたことが。

急に。

分からなくなった。

親友を助ける。

それは。

間違いなく良いことに思えた。

でも。

親友が事故に遭わなければ。

女性は。

親友の家族と、 ここまで深くつながらなかったかもしれない。

親友の兄から。

飲み会に誘われることもなかったかもしれない。

そこで。

夫と出会うこともなかったかもしれない。

朝のコーヒーも。

風邪の日の大量の薬も。

下手な料理も。

全部。

なくなるかもしれない。

受付の男が、 静かに確認する。

「事故を回避した場合。」

「現在のご主人と出会う可能性が。」

「大きく変わります。」

女性は、 うなずいた。

「はい。」

「ご友人のご家族との関係も。」

「現在とは違うものになる可能性があります。」

「はい。」

「今の生活そのものが。」

「存在しなくなる可能性もあります。」

「分かっています。」

ナツメが。

思わず聞いた。

「怖ない?」

女性は、 すぐには答えなかった。

「怖いです。」

「めちゃくちゃ?」

「ものすごく。」

「ほな。」

ナツメは、 言葉を探した。

「今。」

「幸せなんやろ?」

「はい。」

「旦那さんのこと。」

「好きなんやろ?」

女性は、 指輪に触れた。

「大好きです。」

ナツメは、 ますます分からなくなる。

「じゃあ。」

「なんで。」

女性は。

しばらく黙っていた。

そして。

机の上にある、 十七年前の写真を見た。

「ずっと。」

「一つだけ。」

「考えてきたことがあるんです。」

ナツメは、 女性を見る。

「もし。」

「あの子が死ななかったら。」

「今の夫とは。」

「出会わなかったかもしれない。」

「今の幸せも。」

「なかったかもしれない。」

女性は。

写真の中の親友を、 指先でそっと撫でた。

「でも。」

「この幸せがあるから、あの子が死んでよかったとは。」

「私は絶対に思いたくないんです。」

店の中が、 静かになった。

配送車のエンジン音が。

遠くで聞こえた。

ナツメは、 何も言わなかった。

女性は。

結婚指輪から、 ゆっくり手を離した。

そして。

灰色の便箋を、 自分の前へ引き寄せる。

「書きます。」

ペンを持つ。

「今の人生が。」

「全部変わっても?」

ナツメが聞いた。

女性は。

少しだけ泣きながら。

笑った。

「それでも。」

「生きててほしいから。」

そして。

十七年間。

何度も言いたかった言葉を。

たった一行だけ。

書いた。

「あの日、私のところには来ないで。」

親友への手紙の内容がわかるアイキャッチ。

それでも送る

女性は、 書いた一行を見つめていた。

「あの日、私のところには来ないで。」

十七年分の後悔にしては。

あまりにも短い手紙だった。

事故のことは、 書かなかった。

未来のことも。

自分がどれほど後悔したのかも。

何も書かなかった。

ただ。

あの日。

待ち合わせ場所へ来なければいい。

それだけだった。

女性は、 便箋を折った。

灰色の封筒へ入れる。

封をする直前。

手が止まった。

左手の薬指に、 結婚指輪が見えた。

ナツメも、 それを見ていた。

虹色のしっぽが、 床の上で動かなくなっていた。

女性は。

指輪を、 親指でゆっくりなぞった。

朝。

夫が淹れてくれるコーヒー。

休日に二人で行くスーパー。

テレビを見ながら、 どうでもいいことで笑う夜。

風邪をひけば。

頼んでもいないものまで、 大量に買って帰ってくる。

料理をすれば。

味が薄かったり。

妙に濃かったりする。

それでも。

「どう?」

と得意そうに聞いてくる。

そんな毎日。

特別ではない。

でも。

女性にとっては。

失いたくない毎日だった。

手紙を送れば。

全部。

なくなるかもしれない。

ナツメが、 小さな声で聞いた。

「なあ。」

「一回。」

「家帰って考えたら?」

女性が、 ナツメを見る。

「明日でも。」

「来週でも。」

「十七年前なら。」

「一日くらい待ってくれるやろ。」

女性は。

少しだけ笑った。

「そうですね。」

「ほな。」

「今日は持って帰ったらええやん。」

ナツメは、 さっきまでとは違っていた。

特別便を知ったときは。

助けられるなら、 送ればいいと思っていた。

今は。

簡単にそう言えなかった。

女性は、 封筒を両手で持つ。

「私も。」

「何度も考えました。」

「もし。」

「本当に過去を変えられる日が来たら。」

「私はどうするんだろうって。」

「今日初めて考えたんちゃうの?」

「いいえ。」

女性は、 首を横に振った。

「十七年間。」

「ずっと。」

事故のあと。

もし時間を戻せたら。

そう考えた。

結婚したあとも。

考えた。

夫と旅行へ行った日も。

新しい家へ引っ越した日も。

誕生日を祝ってもらった夜も。

幸せだと思うたび。

ときどき。

十七年前の親友が、 心の中に現れた。

もし。

あの日を変えたら。

この幸せはなかったのかもしれない。

だから。

女性は、 そんなことを考える自分まで嫌になったことがあった。

親友を助けたい。

でも。

今の人生も失いたくない。

どちらも。

本当だった。

「夫には。」

「この店に来ることを話したん?」

ナツメが聞いた。

女性は、 少し黙った。

「話しました。」

ナツメが、 驚いて顔を上げる。

「旦那さん。」

「なんて?」

女性は。

指輪を見た。

「最初は。」

「黙ってました。」

「そらそうやろな。」

「でも。」

「最後に。」

「一つだけ言いました。」

ナツメは待つ。

「親友が助かる人生になったとしても。」

「僕らならきっとどこかで出会うはずだよ。」

「行っておいでって。」

ナツメは、 何も言えなかった。

ワニオも、 黙っていた。

女性は、 少し笑う。

「ずるいですよね。」

「そんなこと言われたら。」

「余計に。」

「この人と出会えなくなるのが。」

「嫌になる。」

目から。

涙が一つ落ちた。

灰色の封筒に、 小さな跡ができた。

「でも。」

女性は。

封筒を閉じた。

「送ります。」

受付の男が、 最後の確認をする。

「よろしいですか。」

「発送後。」

「この手紙を取り戻すことはできません。」

「はい。」

「現在の生活が。」

「大きく変わる可能性があります。」

「はい。」

「ご主人と。」

「出会わない可能性もあります。」

女性は。

一度だけ。

目を閉じた。

それから。

封筒を差し出した。

「お願いします。」

受付の男は。

封筒を受け取った。

赤い印を押す。

表の過去便とは違う印だった。

特別便。

十七年前。

親友へ。

男は。

店の奥にある、 別の投入口へ向かう。

ナツメが、 思わず立ち上がった。

「ちょっと待って。」

男が止まる。

女性も、 ナツメを見る。

ナツメ自身。

何を止めたかったのか。

分からなかった。

親友を助けることを。

止めたいわけではない。

今の夫との人生を。

なくしてほしくもない。

両方残せばいい。

そう言いたかった。

でも。

そんなことができるなら。

女性は。

十七年間も苦しまなかった。

ナツメは。

小さく首を横に振った。

「……ごめん。」

「なんでもない。」

受付の男は、 再び歩く。

投入口の前へ立つ。

そして。

封筒から手を離した。

カタン。

小さな音だった。

それだけで。

一人の人生と。

もう一人の人生が。

これから大きく変わるかもしれなかった。

女性は。

投入口を見つめている。

「今。」

「どこにあるん?」

ナツメが聞く。

受付の男は答える。

「仕分け中です。」

「いつ届く?」

「間もなく。」

店の奥で。

シャッターが開く音がした。

ナツメは、 窓へ走る。

裏口から。

一台の配送車が出てきた。

表の過去便とは違う。

小さな灰色の車。

荷台には。

一通だけ。

手紙が載っている。

女性の手紙だった。

エンジンが鳴る。

車が動き出す。

十七年前へ。

ナツメは。

窓越しに、 その車を見送った。

「なあ。」

「届いたら。」

「すぐ変わるん?」

受付の男が答える。

「はい。」

「親友。」

「助かったか分かる?」

「分かります。」

「旦那さんと。」

「どうなったかも?」

「分かります。」

ナツメは、 女性を見る。

女性は。

目を閉じていた。

両手を。

胸の前で重ねている。

左手には。

まだ。

結婚指輪があった。

ワニオが、 静かに窓の外を見る。

「もうすぐ。」

「届くようですね。」

遠くで。

灰色の配送車が。

商店街の角を曲がった。

その瞬間。

ナツメが立ち上がった。

虹色のしっぽが、 ふわりと揺れた。

「行こか。」

ワニオが、 ナツメを見る。

「結果を。」

「見ないのですか。」

ナツメは。

扉へ向かう。

「見ん。」

「なぜです?」

ナツメは。

扉の前で、 一度だけ止まった。

女性を振り返る。

十七年前の親友の写真と。

今の夫からもらった指輪。

その両方を持った女性が。

静かに座っていた。

「知らん。」

ナツメは言った。

「でも。」

「ここから先は。」

「うちらが見るもんちゃう気がする。」

カラン。

扉が開く。

小さな虹色の猫は。

振り返らず。

配送会社を出た。

女性の結果を見ずに立ち去るナツメとワニオ。

今に届ける

外へ出ると。

空は、 夕暮れに変わり始めていた。

商店街の屋根を。

橙色の光が、 斜めに照らしている。

ナツメは。

何も言わず歩いた。

ワニオも。

何も聞かなかった。

少し歩いて。

ナツメが、 ようやく口を開く。

「なあ。」

「はい。」

「あの人。」

「今ごろどうなっとるんやろ。」

ワニオは。

前を向いたまま答える。

「手紙が届いていれば。」

「もう。」

「私たちが会った女性とは。」

「違う人生を歩いているのでしょう。」

ナツメは。

少しだけ振り返りそうになった。

でも。

振り返らなかった。

「親友。」

「助かったかな。」

「分かりません。」

「旦那さんとは?」

「分かりません。」

「また出会ったかもしれへん?」

「その可能性もあります。」

「全然違う人と。」

「結婚しとるかもしれへん?」

「その可能性もあります。」

「結婚してへんかもしれへん?」

「あります。」

ナツメは、 立ち止まった。

「なんも分からんやん。」

ワニオも、 立ち止まる。

「未来ですので。」

ナツメは。

少しむっとする。

「便利やな。」

「その言葉。」

「そうでしょうか。」

二人は、 また歩き出す。

しばらくして。

ナツメが言った。

「もし。」

「あの人。」

「旦那さんと会われへんかったら。」

「手紙出したん。」

「間違いやったんかな。」

ワニオは、 すぐには答えなかった。

商店街の向こうから。

自転車に乗った学生が来る。

買い物袋を提げた老人が歩いている。

店じまいを始める八百屋。

いつもの夕方だった。

「ナツメさん。」

「何?」

「親友の方が助かって。」

「ご主人とも再び出会えたら。」

「正解ですか。」

「そら。」

ナツメは言いかける。

そして。

止まった。

「……知らん。」

「では。」

「親友の方が助かって。」

「ご主人とは出会わなかったら。」

「不正解ですか。」

ナツメは、 少し考える。

「それも。」

「知らん。」

ワニオは、 小さくうなずく。

「私も。」

「分かりません。」

ナツメは。

足元の小石を、 前足で転がした。

「でも。」

「あの人。」

「結果分からんのに送ったんやな。」

「はい。」

「旦那さんと会える保証もない。」

「はい。」

「幸せになる保証もない。」

「ありません。」

「それでも。」

「親友に生きててほしかった。」

ワニオは、 何も言わなかった。

ナツメの虹色の毛並みに。

夕日が当たる。

七色だった毛が。

今は全部、 同じ橙色に見えた。

「なんか。」

ナツメが言う。

「損得で考えたら。」

「絶対出されへんな。」

「そうですね。」

「今の幸せ。」

「全部なくなるかもしれへんもんな。」

「はい。」

「でも。」

ナツメは。

少しだけ笑った。

「大切って。」

「損得で決めるもんちゃうんやな。」

ワニオは、 ナツメを見る。

「そうかもしれません。」

二人は、 商店街を歩いていく。

そのとき。

後ろから、 一人の少女が走ってきた。

ナツメたちの横を、 勢いよく通り過ぎる。

手には。

小さな封筒。

ナツメの耳が、 ぴくりと動いた。

「手紙。」

少女は。

少し先で立ち止まる。

前を歩いていた、 もう一人の少女へ声をかけた。

「待って。」

呼ばれた少女が、 振り返る。

走ってきた少女は。

少し恥ずかしそうに。

封筒を差し出した。

「これ。」

「家で読んで。」

受け取った少女が、 笑う。

「なにこれ。」

「今読まないで。」

「なんで?」

「いいから。」

二人は。

笑いながら歩いていった。

ナツメは、 その後ろ姿を見る。

「過去便ちゃうん?」

「違いますね。」

「普通の手紙?」

「普通の手紙です。」

ナツメは、 少し考える。

「……今でも。」

「届くんやな。」

ワニオは、 うなずく。

「はい。」

「過去便より。」

「ずっと早く。」

ナツメは、 歩いていく二人を見る。

「しかも。」

「未来も変わる。」

ワニオは。

少しだけ笑った。

「ええ。」

「何が変わるかは。」

「分かりませんが。」

「またそれや。」

ナツメも笑った。

二人は、 商店街の出口へ向かう。

しばらくすると。

後ろから、 エンジンの音が聞こえた。

一台の配送車が。

ゆっくり近づいてくる。

灰色の車だった。

特別便。

ナツメたちの横を通り過ぎる。

荷台には。

何通もの手紙が積まれていた。

十年前へ。

二十年前へ。

もう会えない誰かへ。

まだ何も知らない誰かへ。

車は。

夕暮れの道を走っていく。

ナツメは。

今度は振り返らなかった。

親友が助かったのか。

女性が夫と再び出会えたのか。

知らない。

知らなくていい。

過去にしか。

届けられない言葉がある。

でも。

今なら。

まだ届けられる言葉もある。

ありがとう。

ごめん。

好き。

会いたい。

元気でいて。

どんな言葉も。

届いたあとに。

何が起きるのかは分からない。

それでも。

誰かに届けたいと思ったとき。

人は。

手紙を書くのかもしれない。

夕暮れの向こうへ。

灰色の配送車が消えていく。

ナツメの虹色のしっぽも。

商店街の角を曲がって。

やがて見えなくなった。

友達に手紙を渡す少女。現在の手紙は未来を変える可能性がある。
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