帰り道だった。
特に何もない、いつもの道。
でも、頭の中はずっと同じだった。
あの子のこと。
ツムギのこと。
……いや。
名前を出した瞬間、ちょっとだけ空気が変わった気がした。
ソウタは足を止めた。
ソウタ:……やっぱり、おかしいよな
朝、起きたとき。
歯を磨いてるとき。
電車に乗ってるとき。
記事を書いてるとき。
気づいたら、全部そこにいる。
ツムギが。
……別に、何かあったわけじゃない。
話したのだって、ほんの少し。
なのに。
なんでこんなに。
ソウタ:……あふれてるんだろ
ぽた。
と、音がした。
地面を見た。
アスファルトの上に、水が落ちていた。
……いや。
水じゃない。
文字だった。
「すき」
と、書いてあった。
ソウタ:……え?
もう一滴、落ちた。
「すき」
また落ちた。
「すき」
……なんだこれ。
顔を触る。
濡れている。
涙じゃない。
もっと、軽い。
言葉みたいなものが、滲み出ている。
???:あーあ、こぼしとるなぁ
振り返る。
ベンチがあった。
……さっきまで、なかった気がする。
その上に、ナツメが座っていた。
スーツを着ている。
でも足元は砂浜で、靴は波に洗われていた。
ナツメ:それ、止まらんで
ソウタ:……え、なにがですか
ナツメ:好きや
ナツメはそう言って、ソウタの足元を指差した。
「すき」が、どんどん増えている。
アスファルトが見えなくなっていく。
ソウタ:これ、なんなんですか……
ナツメ:溢れとるやつやな
ソウタ:いや、溢れるっていうか……出てますよね
ナツメ:一緒や
ナツメはポケットからコップを取り出した。
底がなかった。
そのまま地面に置く。
「すき」が全部、すり抜けた。
ナツメ:ほらな
ソウタ:いや、何がですか
ナツメ:好きはな、溜めるもんちゃう
ナツメ:漏れるもんや
ナツメは立ち上がった。
ベンチが、水に変わった。
いや、最初から水だったのかもしれない。
ナツメ:歩くで
ソウタ:どこにですか
ナツメ:あふれとるとこ
ナツメが歩き出す。
足跡が全部、「すき」になっていく。
ソウタは、なぜかそれを追いかけていた。
好きがこぼれる場所に着いた
歩いているはずだった。
でも、足の感覚が途中からおかしかった。
ぐにゃ。
とした。
ソウタ:……あれ?
下を見る。
地面が、柔らかい。
というか。
ゼリーだった。
透明なゼリーの中に、「すき」が浮かんでいる。
ソウタ:え、ちょっと待ってくださいこれ
ナツメ:踏み心地ええやろ
ソウタ:いや、よくないです
ナツメ、味見する
ナツメはしゃがみこんで、そのゼリーを指ですくった。
口に入れた。
ナツメ:……うん
ナツメ:初期衝動やな
ソウタ:何を評価してるんですか
ナツメ:まだ薄味や
ソウタ:味あるんですかこれ
ナツメはもう一口食べた。
ナツメ:あと三日で煮詰まるな
ソウタ:煮詰まるんですか!?
「すき」が動き出す
その瞬間。
ゼリーの中の「すき」が、一斉に動いた。
ぴちゃぴちゃと跳ねる。
文字が、魚みたいに泳ぎ始めた。
ソウタ:え、え、え!?
ナツメ:あー、起きたな
ソウタ:何がですか!?
ナツメ:自覚や
ソウタ:自覚ってこんな物理的に来るんですか!?
「すき」が一匹、ぴょんと跳ねてソウタの足にくっついた。
じわっと溶ける。
その瞬間。
ツムギの笑った顔が、頭の中に広がった。
ソウタ:……うわ
ナツメ:それな
ソウタ:いや今の、ちょっとリアルすぎません?
ナツメ:好きはな、だいたい急に現実味出してくる
好きがあふれすぎた結果
「すき」が、止まらなかった。
一匹、また一匹。
ゼリーの中から飛び出してくる。
足元に溜まる。
くっつく。
溶ける。
そのたびに。
ツムギの声。
ツムギの仕草。
ツムギの笑い方。
全部、頭の中に流れ込んでくる。
ソウタ:ちょ、ちょっと待ってください…!
ソウタ:これ、量おかしくないですか!?
ナツメ:せやな
ナツメ:だいぶ好きやな
ソウタ:そんな軽い分析あります!?
足元が見えなくなってきた。
「すき」で埋まる。
というか、もう。
沈んでいる。
ソウタ:うわ、ちょ、これ沈みますって!
ナツメ:沈むで
ソウタ:助けてくださいよ!
ナツメ:いや無理や
ソウタ:無理なんですか!?
ナツメ、助けない
ナツメは、なぜか少し離れたところに立っていた。
さっきまで同じ場所にいたはずなのに。
距離が伸びている。
というか。
ソウタが沈んでいるのかもしれない。
ナツメ:それな
ソウタ:いや何がですか!?
ナツメ:助けるもんちゃうねん
ナツメ:入るもんや
ソウタ:入りたくて入ってないですけど!?
ナツメ:気づいたら入っとるやろ
ソウタ:……はい
言い返せなかった。
確かに。
気づいたら、ここにいた。
気づいたら、好きだった。
ナツメ:ほな、それが答えや
あふれる前に、もう溢れてる
「すき」が、胸の高さまで来た。
動くたびに、波ができる。
波紋が広がる。
その中心に。
ツムギがいる。
ソウタ:……なんで、こんな
ソウタ:急に、こんなことになるんですか
ナツメは、少しだけ笑った。
ナツメ:急ちゃうで
ナツメ:ずっとや
ソウタ:え
ナツメ:溜まっとっただけや
ナツメ:見えへんとこで
ナツメ:ずっと
ナツメは、足元を指差した。
「すき」の下に、もっと古い層があった。
うっすらと。
でも確実に。
ナツメ:ほらな
ナツメ:溢れたんやない
ナツメ:元から、ここまで来とったんや
ソウタは、動きを止めた。
沈むのも、やめた。
ただ、その場に浮いた。
ナツメ:好きはな
ナツメ:コップちゃう
ナツメ:気づいたときには、もう外に出とる
少しだけ間があって。
ナツメ:だから、あふれる前に
ナツメ:もう溢れてるんや
現実に戻ったあとも、少しだけ濡れている
ふっと、足の感覚が戻った。
硬い。
アスファルトだ。
ゼリーも、「すき」も、もうなかった。
いつもの帰り道。
街灯。
車の音。
全部、普通に戻っていた。
ソウタ:……あれ
振り返る。
ベンチはない。
砂浜もない。
ナツメもいない。
ソウタ:……夢?
ポケットを触る。
何も入っていない。
手のひらも乾いている。
でも。
なぜか、少しだけ重い。
胸のあたりが。
ソウタ:……あふれてるな
さっきより、はっきり分かる。
止めようとしても、止まらない感じ。
でも。
さっきより、怖くなかった。
ナツメの言葉は、あとから効いてくる
歩きながら、思い出す。
ナツメの言葉。
意味は、あんまり分からない。
でも。
なぜか、ちゃんと残っている。
あふれたんじゃない。
元から、そこまで来てた。
ソウタ:……そっか
ぽつりと、声が出た。
そのとき。
スマホが震えた。
画面を見る。
ツムギからだった。
『今日ありがとうございました!また話聞かせてください』
短いメッセージ。
でも。
それだけで。
さっきの「すき」が、全部戻ってきた気がした。
ソウタ:……やばいな
笑いながら、打ち込む。
指が少しだけ速い。
言葉が、すぐに出てくる。
止まらない。
好きな気持ちは、止めなくていい
夜の道を歩きながら。
ソウタは、少しだけ上を見た。
空は、普通だった。
星も、普通だった。
でも。
どこかに、まだ残っている気がした。
あの場所が。
あのゼリーが。
あの「すき」が。
ソウタ:……まぁ、いいか
止める理由は、もうなかった。
好きなものは、好きでいい。
あふれるなら、あふれたままでいい。
たぶん、それが一番自然だから。
遠くで、誰かの声がした気がした。
ナツメ:ええ味になってきたで
ソウタ:……聞こえてますけど
返事はなかった。
でも。
ちょっとだけ、笑えた。

