お盆。
こいこと。編集部も、今日は基本的にお休みだった。
締め切りに追われているわけでもない。誰かに出勤を頼まれたわけでもない。
来なくていい日である。
――なのだが。
ミユ:あっつ……。
午前10時過ぎ。
編集部のドアを開けたミユは、誰もいない室内を見渡した。
ミユ:やっぱ誰もいないかー。
照明をつけ、エアコンのスイッチを入れる。
ミユ:よし。今日は私の編集部だ。
ナナ:勝手に自分のものにしないで。
ミユ:うわっ!
奥から声がした。
見ると、ナナがコーヒー片手に座っている。
ミユ:ナナさん!? いたの!?
ナナ:いたよ。30分くらい前から。
ミユ:今日休みだよね?
ナナ:うん。
ミユ:仕事?
ナナ:別に。
ミユ:……何しに来たの?
ナナ:それ、今来た人に聞かれたくないんだけど。
ミユ:私はちょっと用事があって。
ナナ:何の?
ミユ:……。
ナナ:何の?
ミユ:冷蔵庫にアイス残ってたなって。
ナナ:帰れ(笑)。
ミユ:それだけじゃないよ! ちょっと編集部にも顔出そうかなって。
ナナ:誰もいないのに?
ミユ:ナナさんいるじゃん。
ナナ:結果論でしょ。
そんな話をしていると、再び編集部のドアが開いた。
ミサキ:おはよう。
ミユ:えっ。
ナナ:増えた。
ミサキ:何よ、その反応。
ミユ:ミサキまで何してるの?
ミサキ:それ、あなたにもそのまま返すけど。
ミユ:私はアイス……じゃなくて、ちょっと用事。
ミサキ:今アイスって言ったわよね。
ナナ:言った。
ミユ:で、ミサキは?
ミサキ:家にずっといるのも嫌だったから来ただけ。
ナナ:出勤する必要ないのに?
ミサキ:休日だからって、一日中家で休日の顔してる必要ないでしょ。
ミユ:休日の顔って何?
ミサキ:休日の顔は休日の顔よ。
ナナ:説明する気ゼロ(笑)。
ミサキ:それより、なんで二人ともいるのよ。
ナナ:私は家にいると昼から飲みそうだったから。
ミユ:それで編集部に避難してきたの?
ナナ:そう。
ミユ:えらいような、根本的には何も解決してないような。
ナナ:午前中から飲んでないんだから、えらいでしょ。
ミサキ:基準が低いのよ。
三人しかいない編集部。
仕事を始める者は、誰もいない。
ミユは目的だったアイスを冷凍庫から取り出し、ナナはコーヒーを飲み、ミサキは自分の席にバッグを置いた。
ミユ:なんか変な感じだね。
ナナ:何が?
ミユ:お盆なのに、義務でもないのに三人とも出勤してる。
ミサキ:出勤って言わないで。仕事する気ないもの。
ナナ:堂々と言った(笑)。
ミユ:じゃあ私たち、暇なのかな。
ミサキ:あなたと一緒にしないで。
ミユ:ミサキも来てるじゃん!
ワニオ:その議論には、私も含まれるのでしょうか。
ミユ:うわあっ!!
ソファの方から声がした。
ワニオがいた。
ミユ:いつからいたの!?
ワニオ:皆さんが来る前からです。
ナナ:いたの!? 私も気づかなかった。
ミサキ:なんで電気もつけずにいたのよ。
ワニオ:誰もいない編集部というものを、一度見てみたかったので。
ミユ:自由研究?
ワニオ:しかしナナさんが来ました。
ナナ:ごめんね、無人じゃなくしちゃって。
ワニオ:その後、ミユさんも来ました。
ミユ:はい。
ワニオ:そしてミサキさんも来ました。
ミサキ:見れば分かるわよ。
ワニオ:現在、通常より少し人が少ないだけの編集部になっています。
ナナ:自由研究、大失敗じゃん(笑)。
ミユ:でも、これで四人か。
誰にも呼ばれていない。
仕事があるわけでもない。
それなのに、お盆の編集部に四人集まった。
ナナ:……やっぱ私たち、暇なんじゃない?
ミサキ:違う。
ミユ:じゃあ何?
ミサキ:知らない。
ワニオ:暇ではないことを証明するためには、何か始める必要がありますか?
ナナ:いや、今日はもういいんじゃない?
ミユ:何が?
ナナ:せっかく誰にも頼まれてないのに四人も来たんだからさ。
ナナ:なんか適当に喋ろうよ。
ミユ:いいね。
ミサキ:仕事するよりはいいわ。
ミユ:そこは隠そうよ(笑)。
こうして、お盆のこいこと。編集部で始まったのは企画会議でも座談会でもなく、ただの雑談だった。
そして最初の話題は、当然のように――。
ミユ:ていうか、みんな本当になんで来たの?
そもそも、なんで休みなのに編集部へ来たの?

ミユ:私はもう言ったからね。次、ナナさん。
ナナ:いや、あなた「アイス」しか言ってないから。
ミユ:アイスだけじゃないって。家にいても暇だったし、ちょっと来ようかなって思ったの。
ミサキ:だから暇だったんじゃない。
ミユ:そう言われると身も蓋もない。
ナナ:まあ、私も似たようなもんだけどね。
ミユ:昼から飲みそうだったから?
ナナ:そう。朝起きてさ、「今日何にもないなー」って思った瞬間、冷蔵庫のレモンサワーが頭に浮かんだの。
ミユ:朝から?
ナナ:朝から飲もうとは思ってないよ。
ミユ:よかった。
ナナ:昼まで待とうと思った。
ミユ:あんまりよくなかった(笑)。
ナナ:で、このまま家にいたら本当に昼から飲んで、一日終わるなと思って。
ワニオ:それを回避するために職場へ来たのですか。
ナナ:そう。
ワニオ:かなり遠回りな禁酒方法ですね。
ナナ:禁酒じゃないから。夜は飲むよ。
ミユ:時間をずらしただけだった(笑)。
ナナ:でもさ、休みの日に昼から飲むのって最高なんだけど、夕方くらいにちょっと後悔するんだよね。
ミユ:なんで?
ナナ:窓の外まだ明るいのに、自分だけ一日終わった感じになるから。
ミサキ:じゃあ飲まなきゃいいじゃない。
ナナ:それができたら編集部まで来てないのよ。
ミサキ:知らないわよ(笑)。
ミユ:じゃあミサキは? 家にいたくなかったって言ってたけど。
ミサキ:別に深い理由なんてないわよ。朝起きて、シャワー浴びて、メイクして、着替えたら、家にいる意味がなくなったの。
ナナ:ちょっと待って。今日誰にも会う予定なかったんでしょ?
ミサキ:ないわよ。
ナナ:なんでちゃんとメイクしたの?
ミサキ:私が私を見るから。
ミユ:強い。
ワニオ:自己完結していますね。
ミサキ:休みの日に一日中部屋着でゴロゴロして、夕方に鏡見て「今日の私、何だったの?」ってなる方が嫌なの。
ミユ:あ、それはちょっと分かるかも。
ナナ:私は全然平気。
ミサキ:でしょうね。
ナナ:何よ。
ミサキ:褒めてる。
ナナ:絶対褒めてない(笑)。
ミユ:でも私も休みの日、夕方までパジャマだと急に焦ることある。「今日何もしてない!」って。
ミサキ:そう。それが嫌なのよ。
ミユ:じゃあ編集部に来て何する予定だったの?
ミサキ:そこまでは考えてなかった。
ナナ:結局暇じゃん(笑)。
ミサキ:暇なんじゃないの。予定を決めてなかっただけ。
ミユ:その二つ、かなり近くない?
ミサキ:全然違う。
ワニオ:ミサキさんの中では違うようです。
ナナ:ワニオ、逃げたな(笑)。
ミユ:で、一番意味分かんないのがワニオだよ。
ワニオ:私は先ほど説明しました。
ミユ:「誰もいない編集部を見たかった」ってやつ?
ワニオ:はい。
ナナ:見てどうするつもりだったの?
ワニオ:特には。
ミユ:目的が薄い(笑)。
ワニオ:普段、人がいる場所から人がいなくなると、少し違って見えませんか。
ミユ:学校の休日みたいな?
ワニオ:近いです。誰もいない教室や、閉店後のお店など。
ナナ:あー、ちょっと分かる。いつも人がいる場所が静かだと変な感じするよね。
ワニオ:それをここでも確認しようと思いました。
ミサキ:確認してどうするの?
ワニオ:特には。
ミサキ:本当に何しに来たのよ。
ワニオ:しかし、皆さんが来てしまいました。
ミユ:「しまいました」って言わないで(笑)。
ワニオ:結果として、無人の編集部は約12分しか観察できませんでした。
ナナ:ちゃんと時間測ってたの?
ワニオ:はい。
ミユ:夏休みの自由研究じゃん。
ミユはアイスの棒をくわえたまま、椅子の背にもたれた。
ミユ:でもさあ。
ナナ:ん?
ミユ:休みなんだから、別に何もしなくていいんだよね。
ミサキ:そうね。
ミユ:なのに私、夕方まで何もしなかった日って、ちょっと損した気分になるんだよね。
ナナ:あー、それは分かる。
ミユ:朝は「今日は一日自由だー!」って思うの。
ミユ:で、スマホ見て、ゴロゴロして、お昼食べて、またスマホ見て。
ナナ:うん。
ミユ:気づいたら夕方5時。
ナナ:あるある。
ミユ:そこで急に、「私、今日何してたんだろう……」って。
ミサキ:スマホ見てゴロゴロしてたんでしょ。
ミユ:事実を言わないでよ。
ワニオ:予定どおり休んでいたのに、なぜ失敗した気分になるのでしょう。
ミユ:そう! それ!
ナナ:じゃあ次、それ話す?
ミサキ:いいんじゃない。
ミユ:なんか本当に、今日テーマ決めずに進んでるね。
ナナ:お盆なんだから、それくらいでいいでしょ。
ワニオ:では、「何もしなかった休日は、本当に無駄なのか」について。
ミユ:急にタイトルつけると会議っぽくなるからやめて(笑)。
何もしなかった休日って、本当に無駄なの?

ナナ:でも私もあるなあ。何もしないって決めてたはずなのに、夕方になると急に焦るやつ。
ミユ:でしょ? 「せっかくの休みだったのに!」ってなる。
ミサキ:私はならない。
ミユ:ミサキは朝からちゃんとしちゃうもんね。
ミサキ:違う。寝るなら寝るで、それを選んだんだからいいじゃないって話。
ナナ:お、意外。
ミサキ:何が?
ナナ:「休日も自分を磨きなさい」とか言うのかと思った。
ミサキ:私を何だと思ってるのよ。
ミユ:休日にもパックしながらスクワットしてそう。
ミサキ:しないわよ。
ミユ:しないんだ。
ミサキ:パックしながらスクワットしたら汗かくでしょ。効率悪いじゃない。
ナナ:そこなんだ(笑)。
ミサキ:でも本当に、寝たかったから寝た。家から出たくなかったから出なかった。それなら別に失敗じゃないでしょ。
ミユ:でもさ、「今日は映画観よう」「部屋片づけよう」「買い物行こう」とか思ってたのに、結局全部やらなかったら?
ミサキ:それはちょっと嫌。
ナナ:ほら(笑)。
ミサキ:何よ。
ナナ:ミサキも同じじゃん。
ミサキ:違うわよ。私は「何もしないこと」が嫌なんじゃなくて、自分で決めたことをやらなかったのが嫌なの。
ミユ:……なんかカッコいいこと言ってる。
ミサキ:普通のことよ。
ワニオ:では、朝の時点で「今日は何もしない」と予定表に書いておけば解決するのでしょうか。
ナナ:予定表に「何もしない」って書くの?
ワニオ:はい。午前10時から午後6時まで。
ミユ:何もしない時間、長っ。
ワニオ:途中に昼食を挟みます。
ナナ:そこだけ予定あるんだ(笑)。
ワニオ:そして午後6時になったら、「本日の予定をすべて達成した」と考えます。
ミユ:それ、ちょっといいかも。
ミサキ:よくないでしょ。
ミユ:なんでよ! さっきミサキが言ってたことと同じじゃん。
ミサキ:何もしないことにそこまで計画性を持たせたら、もう休めてないのよ。
ナナ:確かに(笑)。
ワニオ:難しいですね、休日は。
ナナ:ワニオは休みの日、何してるの?
ワニオ:散歩をすることがあります。
ミユ:へえ。
ワニオ:公園で人を見ています。
ミユ:やっぱり観察してるんだ。
ワニオ:あとはカモなどを見ています。
ナナ:カモはいいよね。休日を無駄にしたとか考えてなさそう。
ミユ:いいなあ、カモ。
ミサキ:二人とも疲れてるの?
ナナ:だってカモ、池に浮いてるだけで成立してるじゃん。
ミユ:私が一日ソファに浮いてたら罪悪感あるのに。
ミサキ:ソファには浮かないでしょ。
ワニオ:カモにも予定があるかもしれません。
ナナ:何の?
ワニオ:午前中に池の東側へ行く。昼食をとる。午後は羽を整える。
ミユ:意外とちゃんとしてる(笑)。
ナナ:私たちより有意義じゃん。
ミサキ:カモに休日で負けるのやめて。
窓の外では、真夏の日差しが道路を白く照らしていた。
編集部の中は静かで、エアコンの風だけが心地よく流れている。
ナナ:でもさ、大人になってからじゃない? 「休みを有効に使わなきゃ」って思うようになったの。
ミユ:ああ、それあるかも。
ナナ:子どもの頃の夏休みなんて、もっと適当だった気がする。
ミユ:朝起きて、テレビ見て、お昼食べて、友達と遊んで。
ナナ:夕方まで意味もなく外にいたりね。
ミユ:それなのに「今日を無駄にした」なんて思わなかったなあ。
ミサキ:そもそも夏休みが長かったからじゃない? 一日くらい無駄にしても、まだ大量に残ってるもの。
ミユ:あー! それだ。
ナナ:大人の連休、残機少ないもんね。
ミユ:三連休の初日とか、絶対失敗したくない。
ナナ:分かる。初日寝て終わると「一日使っちゃった!」ってなる。
ワニオ:休日を残機として認識しているのですね。
ミユ:ワニオはそういうのない?
ワニオ:あまりありません。
ミユ:いいなあ。
ワニオ:先ほどから私はかなり長い時間、何もしていません。
ナナ:そうだね。
ワニオ:今のところ順調です。
ミユ:何が順調なの(笑)。
ワニオ:休日が。
ミサキ:そのメンタルだけは見習ってもいいかもしれないわね。
ミユ:ミサキがワニオを評価した。
ナナ:今日一番の出来事かも。
ミサキ:大げさなのよ。
ナナ:でも本当に、昔の夏休みって長かったよね。
ミユ:長かった。夏ってずっと続くと思ってた。
ナナ:お盆くらいになると、ちょっとだけ「夏休み終わるな」って感じがしてさ。
ミユ:あったあった。
ナナ:実家帰ると、今でもたまに思い出すんだよね。昔の夏のこと。
ミユ:実家かあ。
ナナ:昔の部屋とか、地元の道とか。何年経ってもあんまり変わってない場所あるじゃん。
ミサキ:急にしんみりしてきたわね。
ナナ:お盆だからいいでしょ。
ワニオ:では次は、実家について話すのでしょうか。
ナナ:だからいちいち進行しなくていいって(笑)。
実家に帰ると、なんで昔の自分に戻るんだろうね

ミユ:ナナさんは今年、実家帰るの?
ナナ:顔は出すつもり。そんな遠くないしね。
ミユ:実家って帰った瞬間、なんか変わらない?
ナナ:変わる。
ミユ:やっぱり?
ナナ:普段だったら自分でやるようなことも、実家だと急にやらなくなる。
ミサキ:例えば?
ナナ:お茶とか。
ミユ:分かる!
ナナ:家なら自分で冷蔵庫まで行くじゃん。でも実家だと、なんか座ったまま出てくるの待っちゃう。
ミユ:私なんて普通に冷蔵庫開けるよ。
ミサキ:もっと図々しかった。
ミユ:実家の冷蔵庫なんだからいいじゃん。
ナナ:で、「なんかない?」って聞くんでしょ。
ミユ:聞く。
ミサキ:自分で開けておいて?
ミユ:うん。
ミサキ:すごいわね。
ミユ:何が?
ミサキ:実家への信頼が。
ワニオ:人間は実家に入ると、年齢が少し下がるのでしょうか。
ナナ:あー、それはあるかも。
ミユ:何歳くらい下がる?
ワニオ:平均7歳程度でしょうか。
ミユ:どこから出した数字なの(笑)。
ワニオ:今決めました。
ナナ:堂々と言うな(笑)。
ミサキ:でも、家族の前だと昔の関係に戻る感じは分かる。
ミユ:ミサキも?
ミサキ:何よ。私にだって実家くらいあるわよ。
ミユ:いや、ミサキって実家でもミサキなのかなって。
ミサキ:どういう意味?
ナナ:分かる(笑)。家でも「私の美貌に生活感は不要」とか言ってそう。
ミサキ:言わないわよ。
ミユ:じゃあ実家だと普通なの?
ミサキ:普通よ。
ナナ:お母さんに「ミサキ、お皿運んで」って言われたり?
ミサキ:言われるわよ。
ミユ:運ぶの?
ミサキ:運ぶわよ! 私を何だと思ってるの!?
ナナ:なんか安心した(笑)。
ミサキ:腹立つわね。
四人の間に、しばらく取り留めのない実家話が続いた。
子どもの頃に使っていた部屋。
昔から変わらない近所の店。
帰るたびに少しずつ小さく見える、通学路。
ナナ:地元って不思議だよね。
ミユ:何が?
ナナ:こっちは何年も生きて、仕事したり、いろんな人と会ったりしてるのにさ。
ナナ:昔通ってた道を歩くと、一瞬でその頃のこと思い出すじゃん。
ミユ:あー。
ナナ:自転車で走ってた道とか、友達とずっと喋ってた公園とか。
ミユ:昔好きだった人と帰った道とか?
ナナ:……まあ、そういうのもね。
ミユ:おっ。
ナナ:何、その顔。
ミユ:いや別にー。
ナナ:嬉しそうにするな(笑)。
ミサキ:でも、昔好きだった人って地元とセットで思い出すことあるわよね。
ミユ:ミサキにもいるの? 昔好きだった人。
ミサキ:いるに決まってるでしょ。
ミユ:なんか意外。
ミサキ:私を生まれたときから恋愛強者だと思ってる?
ナナ:ちょっと思ってる。
ミサキ:違うわよ。私だって普通に好きになったり、勝手に期待したり、くだらないことで落ち込んだりしてたわよ。
ミユ:へえ……。
ミサキ:何よ、その珍しい動物を見るみたいな顔。
ワニオ:昔好きだった人というのは、現在好きな人とは少し違うのでしょうか。
ナナ:どういうこと?
ワニオ:例えば10年前に好きだった人を思い出して、「今でも好き」と感じた場合。
ワニオ:好きなのは現在のその人なのでしょうか。それとも10年前のその人なのでしょうか。
ミユ:おお……。
ナナ:ワニオが急に面白いこと言った。
ワニオ:普段は面白くないのでしょうか。
ナナ:そういう意味じゃない(笑)。
ミユ:でも確かに。昔好きだった人って、今どうなってるか分かんないもんね。
ナナ:久しぶりに会ったら全然変わってるかもしれないし。
ミユ:逆に、めちゃくちゃ素敵になってるかもしれないよ。
ナナ:それはそれで困るなあ。
ミサキ:何が困るのよ。
ナナ:いや、久しぶりに会ってさ。「え、こんな格好よかったっけ?」ってなったら、ちょっとドキッとしない?
ミユ:する! 絶対する!
ミサキ:私はしない。
ミユ:即答!
ナナ:また始まった(笑)。
ミサキ:だって、昔好きだった人でしょ?
ミユ:そうだけど。
ミサキ:昔好きだった人が、思い出の中で素敵なのには理由があるのよ。
ナナ:何?
ミサキ:思い出の中の男は、余計なことしないから。
ミユ:……どういうこと?
ミサキ:返信遅くならない。変な服着ない。くだらないことで不機嫌にならない。こっちが幻滅するような発言もしない。
ミサキ:だって、もう思い出の中で止まってるんだから。
ナナ:ああー。
ミサキ:思い出の男は強いのよ。試合に出ないから失点しない。
ミユ:なんか今日一番の名言出た。
ワニオ:ベンチに座り続けている選手は、確かに失点しません。
ミサキ:そういうこと。
ナナ:ワニオとミサキが珍しく噛み合った(笑)。
ミユ:でもさ、それでも偶然会ったら何かあるかもしれないじゃん。
ミサキ:何かって?
ミユ:ほら。お盆に地元帰って、昔好きだった人と偶然会って――。
ナナ:夏祭りなんかやってて?
ミユ:そう! 「久しぶり」ってなって!
ミサキ:始まったわね。
ミユ:何が?
ミサキ:あなたの脳内恋愛ドラマ。
ミユ:いいじゃん! 夏なんだから!
ワニオ:夏であることは、恋愛の発生率に影響するのでしょうか。
ナナ:今度はそこ気になったの?
ワニオ:はい。
ミサキ:じゃあ次は、それで揉めそうね。
ミユ:揉める前提なの(笑)。
夏って、本当に恋愛したくなる?

ワニオ:夏には、恋愛に有利な要素が多いのでしょうか。
ミユ:あるよ! 絶対ある!
ミサキ:何を根拠に「絶対」なのよ。
ミユ:だって夏祭りでしょ、花火でしょ、海でしょ。あと夏の夜!
ナナ:夏の夜はちょっと分かるなあ。
ミサキ:何が違うの? 夜は夜でしょ。
ナナ:違うのよ。昼間あんなに暑かったのに、夜になってちょっと風が出てきてさ。
ナナ:外で飲んでても気持ちよくて、なんとなく帰りたくなくなる感じ。
ミユ:分かる!
ナナ:普段なら「じゃあまたね」で帰るところを、「もう一軒行く?」ってなったり。
ミユ:そこから恋が始まったり!
ナナ:そこまでは知らない(笑)。
ミサキ:私は夏を恋愛向きの季節だと思ったことないけど。
ミユ:なんで?
ミサキ:暑い。
ミユ:はい。
ミサキ:汗かく。
ナナ:はい。
ミサキ:湿気で髪は言うこと聞かない。メイクは崩れる。外を歩けば日焼けする。
ミサキ:どこが恋愛向きなのよ。
ミユ:全部コンディションの話じゃん(笑)。
ミサキ:重要でしょ。
ナナ:じゃあミサキは何月が恋愛向きなの?
ミサキ:10月。
ミユ:具体的(笑)。
ミサキ:暑すぎない。寒すぎない。服も選びやすい。湿気も夏よりマシ。
ナナ:恋愛じゃなくてファッションのベストシーズン決めてない?
ミサキ:恋愛するのは自分なんだから、自分のコンディションがいい季節の方がいいに決まってるでしょ。
ミユ:ミサキらしいなあ。
ワニオ:では、夏の代表的な恋愛イベントについて検討してみましょう。
ナナ:検討するの?
ワニオ:まず花火大会。
ミユ:最高じゃん!
ワニオ:非常に混雑します。
ミユ:まあね。
ワニオ:暑いです。
ミユ:うん。
ワニオ:花火が上がっている間は、会話が聞こえにくいです。
ミユ:そこは花火見るの!
ワニオ:それなら一人でも可能です。
ミユ:そういうことじゃない!
ナナ:開始30秒で花火デート潰した(笑)。
ワニオ:次に海。
ミユ:嫌な予感する。
ワニオ:砂が入ります。
ミユ:どこに?
ワニオ:いろいろなところに。
ナナ:雑(笑)。
ワニオ:日差しも強いです。海水は塩分を含んでいます。そして帰りは疲れます。
ミサキ:海に関してはワニオに同意する。
ミユ:なんで今日この二人こんなに相性いいの?
ナナ:ミサキとワニオ、夏アンチ同盟になってる(笑)。
ミユ:じゃあ夏祭り! 浴衣着て、屋台まわって、好きな人と歩くの。これはいいでしょ?
ワニオ:下駄で長時間歩くのでしょうか。
ミユ:もういい!
ナナ:あははは(笑)。
ミユ:ワニオと夏デートしたら絶対つまんない!
ワニオ:予定はありません。
ミユ:私だって誘ってないよ!
ミサキ:振られてるじゃない。
ミユ:振られてない!
ひとしきり笑ったあと、ナナがコーヒーのカップを持ち上げた。
ナナ:でも、ミユが言いたいことも分かるんだよね。
ミユ:でしょ?
ナナ:夏だから恋愛したくなるっていうより、夏って普段と違うことが多いじゃん。
ナナ:祭り行ったり、旅行したり、夜まで外にいたり。
ミユ:うんうん。
ナナ:そういうときって、いつも一緒にいる人でもちょっと違って見えることはあるかも。
ミサキ:浴衣補正とか?
ナナ:それもある(笑)。
ミユ:ほら! やっぱり夏は恋の季節なんだよ。
ミサキ:そこまで言ってないでしょ。
ワニオ:非日常によって、普段とは違う感情が発生しやすくなる可能性はありそうですね。
ミユ:ワニオも認めた!
ワニオ:ただし、夏が終わります。
ミユ:知ってるよ。
ワニオ:非日常も終わります。
ナナ:急に現実に戻すなあ(笑)。
ワニオ:そこでまだ好きなら、本当に好きなのかもしれません。
ミサキ:……それはちょっと分かる。
ミユ:あれ? またミサキがワニオに同意した。
ナナ:今日どうしたの(笑)。
ミサキ:夏祭りでテンション上がって「好きかも」ってなるのは別にいいのよ。
ミサキ:でも9月の普通の火曜日に会って、それでも好きなら結構本物じゃない?
ナナ:普通の火曜日(笑)。
ミユ:なんで火曜日なの?
ミサキ:一番ロマンチックじゃなさそうだから。
ワニオ:火曜日に失礼では。
ナナ:そこ守るんだ(笑)。
ミユ:でもいいな、それ。
ミユ:花火がなくても、浴衣じゃなくても、普通に会って好きなら本物。
ナナ:急に綺麗にまとめたね。
ミユ:たまには私だってまとめるよ。
ミサキ:今日はまとめなくていいんじゃなかった?
ミユ:あ。
ワニオ:では、この話は結論なしということで。
ナナ:それでいいよ。今日はそういう日なんだから。
そこから話は、夏祭りで何を食べるか、かき氷は何味がいいか、浴衣で本当に一日歩けるのか――と、恋愛からどんどん離れていった。
そして気づけば、窓から差し込む光は少しだけ夕方の色になっていた。
ミユ:……ねえ。
ナナ:ん?
ミユ:私たち今日、結局何しに来たんだっけ?
結局、みんな編集部が好きなんじゃない?

ナナ:何しに来たって……。
ナナが編集部を見回した。
パソコンを開いている者はいない。
ミユのアイスはとっくになくなり、ナナのコーヒーも空。ミサキは途中から完全にくつろぎ、ワニオにいたっては最初から何もする気がなかった。
ナナ:何しに来たんだろうね、私たち。
ミユ:今日、誰か仕事した?
ミサキ:してない。
ナナ:してない。
ワニオ:無人の編集部を12分間観察しました。
ミユ:それ仕事に入れないで(笑)。
ワニオ:では、していません。
ナナ:全滅じゃん。
ミユ:私なんてアイス食べて喋ってただけだよ。
ミサキ:いつもとそんなに変わらないじゃない。
ミユ:失礼な! 普段はちゃんと仕事してるよ!
ナナ:そこは否定しといてあげる(笑)。
ミユ:「あげる」って何!
窓の外を、強い西日が照らしていた。
午前中には真っ白だった夏の空も、少しずつ夕方の色に変わっている。
ナナ:でも、こういうのも悪くなかったね。
ミユ:うん。
ナナ:普段だったら、何かテーマ決めて、「今日はこれについて話しましょう」ってなるじゃん。
ミユ:今日は何も決めなかったもんね。
ミサキ:休日の話から実家になって、昔好きだった人になって、夏の恋愛になって、最後はかき氷の味だったわね。
ワニオ:途中、カモも登場しました。
ナナ:そうだった(笑)。
ミユ:文字にすると本当に何の記事か分かんないね。
ミサキ:別にいいんじゃない?
ミユ:ミサキがそれ言うの珍しい。
ミサキ:何でも意味のある話にしようとする方が疲れるでしょ。
ナナ:お。
ミユ:今日のミサキ、休日に優しい。
ミサキ:何よ、その評価。
ミサキ:休みの日にまで「今日は有意義でした」って証明しなくていいってだけ。
ミユ:……それ、最初に話してたことにもつながるね。
ナナ:本当だ。
ミサキ:つなげなくていいのよ。そういうところよ。
ミユ:あ、怒られた(笑)。
ワニオ:本日は、結論を出さないことが結論なのでしょうか。
ナナ:それも結論にしなくていい(笑)。
ワニオ:難しいですね。
ミユ:ワニオ、今日はずっと何かまとめようとして失敗してるね。
ワニオ:会話には終着点が必要だと思っていました。
ナナ:ない会話の方が多いよ。
ミサキ:特に女同士なんて、最初に何の話してたか分からなくなること普通にあるでしょ。
ミユ:あるある。全然違う話になって、最後に「なんでこの話になったんだっけ?」ってなる。
ワニオ:それでも問題はないのですか。
ナナ:楽しかったらいいの。
ワニオ:なるほど。
ミユ:……。
ミユが少しだけ編集部を見回した。
ミユ:でもさ。
ナナ:今度は何?
ミユ:今日って、お盆で休みだったんだよね。
ナナ:そうだね。
ミユ:誰にも来いって言われてない。
ミサキ:言われてない。
ミユ:仕事も特になかった。
ワニオ:ありませんでした。
ミユ:なのに四人とも来た。
ナナ:……。
ミユ:もしかしてさ。
ミユ:みんな、結構ここ好きなんじゃない?
一瞬、静かになった。
ナナ:……まあ。
ミユ:おっ。
ナナ:家で一人でいるよりは、誰かいた方が楽しいときもあるし。
ミユ:ナナさん、認めた!
ナナ:そんな大げさな話じゃないでしょ(笑)。
ミユ:ミサキは?
ミサキ:私は涼しかったから来ただけ。
ミユ:家にもエアコンあるでしょ。
ミサキ:ここの方が広い。
ミユ:苦しい(笑)。
ミサキ:何がよ。
ミユ:じゃあワニオ。
ワニオ:私は無人の編集部を見に来ました。
ミユ:もうそれ聞いたよ。
ワニオ:目的は達成できませんでした。
ナナ:12分見たんだから達成でいいじゃん(笑)。
ミユ:もう。誰も素直に認めないんだから。
ミサキ:じゃあ、あなたは?
ミユ:え?
ミサキ:編集部が好きだから来たの?
ミユ:私は……。
ミユが冷凍庫の方をちらりと見た。
ミユ:最初はアイス。
ナナ:やっぱりアイスじゃん(笑)。
ミユ:でも来たらみんないたから、結果オーライ!
ミサキ:一番認めてないの、あなたじゃない。
ミユ:あれ?
時計を見ると、もう夕方だった。
ナナ:そろそろ帰る?
ミユ:帰ろっか。
ミサキ:私は買い物して帰る。
ワニオ:私は少し歩いて帰ります。
ナナ:私は帰ったら飲む。
ミユ:結局飲むんだ(笑)。
ナナ:朝から我慢したんだからいいでしょ。
それぞれが帰り支度を始める。
休日として有意義だったのかと聞かれれば、よく分からない。
ただ、誰も「来なきゃよかった」とは言わなかった。
編集部の電気を消す直前、ナナが何気なく言った。
ナナ:で、明日は?
ミユ:え?
ナナ:来るの?
ミユ:……暇だったら来るかも。
ミサキ:私は来ないわよ。
ワニオ:明日なら無人でしょうか。
ナナ:それ、また全員来るやつじゃん(笑)。
ミユ:じゃあ明日もアイス買っとこうかな。
ミサキ:来る気満々じゃない。
お盆のこいこと。編集部。
誰にも頼まれていないのに集まった四人は、最後まで自分たちがなぜ来たのか、よく分からないままだった。
たぶん、それくらいでちょうどいい休日もある。



コメント