ケンジさんって、大人ですよね
夜の編集部。
仕事を終えた人たちが少しずつ帰宅し、フロアは昼間とは違う静けさに包まれていた。
休憩室では、ケンジが缶コーヒーを片手に窓の外の夜景を眺めている。
そこへナナが入ってきた。
ナナ:あれ、ケンジさん。
ケンジ:おう。ナナか。
ナナ:まだ帰ってなかったんですね。
ケンジ:ちょっと休憩してから帰ろうと思ってな。
ナナ:じゃあ私も。
ナナは冷蔵庫からお茶を取り出し、ケンジの向かいに腰を下ろした。
しばらく二人とも何も話さず、静かな時間が流れる。
ナナ:……ケンジさんって、大人ですよね。
ケンジ:ん?
ナナ:なんか急に思って。
ケンジ:急だな。
ナナ:編集部でみんなと話してても、余裕あるじゃないですか。
ケンジ:そう見える?
ナナ:見えますよ。
ケンジ:演技かもしれないぞ。
ナナ:えっ。
ケンジ:冗談。
ナナ:びっくりした。
ケンジ:でも、なんで急にそんなこと言うんだ?
ナナ:この前、イツキが「30歳過ぎた人って、ちゃんとした大人だと思ってました」って言ってたんですよ。
ケンジ:あいつらしいな。
ナナ:それ聞いて考えちゃって。
ケンジ:何を?
ナナ:大人って、いつから大人なんだろうって。
ケンジ:難しい質問だな。
ナナ:ケンジさんなら答え知ってるかなって。
ケンジ:期待しすぎ。
ナナ:だって人生の先輩ですし。
ケンジ:年齢だけならな。
ナナ:じゃあ聞きます。
ケンジ:おう。
ナナ:ケンジさんは、自分のこと大人だと思います?
ケンジは少しだけ考えるように缶コーヒーを見つめた。
そして小さく笑う。
ケンジ:……それが、いまだによく分からないんだよ。

四十代後半でも、大人かどうかは分からない
ナナ:え、そうなんですか?
ケンジ:そうなんだよ。
ナナ:意外。
ケンジ:俺も二十代の頃は思ってた。
ナナ:何をです?
ケンジ:四十代なんて、何でも知ってる大人なんだろうなって。
ナナ:分かります。
ケンジ:でも実際なってみるとさ。
ナナ:うん。
ケンジ:知らないことばっかりだし、失敗もするし、悩みも増える。
ナナ:なんか安心しました。
ケンジ:安心するところか?
ナナ:だって私も同じなんですよ。
ケンジ:ナナも?
ナナ:三十代になったらもっと落ち着くと思ってました。
ケンジ:違った?
ナナ:全然。
ケンジ:ははは。
ナナ:仕事では平気な顔してても、家に帰って「あれで良かったかな」って反省してます。
ケンジ:あるあるだな。
ナナ:この歳になれば迷わなくなると思ってたのに。
ケンジ:むしろ逆かもしれない。
ナナ:逆?
ケンジ:経験が増えるから、簡単に答えを出せなくなる。
ナナ:ああ。
ケンジ:若い頃は白か黒かで考えてたことも。
ナナ:うん。
ケンジ:今は「どっちも分かるな」って思うことが増えた。
ナナ:それ、最近すごくあります。
ケンジ:だろ。
ナナ:昔は「なんでそんなことするの?」って思ってた人の気持ちが、今は少し分かるんですよ。
ケンジ:それが歳を重ねるってことかもしれないな。
ナナ:じゃあ、大人になるって。
ケンジ:うん。
ナナ:何でもできるようになることじゃないんですね。
ケンジ:少なくとも俺は違うと思う。
ナナ:なんか、ちょっとホッとしました。
ケンジ:じゃあ俺も、まだ大人になれてなくても大丈夫だな。
ナナ:四十代がそれ言うと説得力ありますね。
ケンジ:褒められてるのか、それ。

大人は、自分の機嫌を自分で取れる人かもしれない
ナナ:じゃあ結局、大人って何なんでしょうね。
ケンジ:難しいな。
ナナ:責任を持つこと?
ケンジ:それもある。
ナナ:結婚すると大人?
ケンジ:いや、それも違う。
ナナ:子どもがいる人?
ケンジ:それだけでもないな。
ナナ:じゃあ年齢?
ケンジ:さっき俺が否定したばかりだろ。
ナナ:そうだった。
二人は顔を見合わせて笑った。
ケンジ:俺が最近思うのはさ。
ナナ:はい。
ケンジ:自分の機嫌を、自分で取れる人じゃないかな。
ナナ:自分の機嫌。
ケンジ:嫌なことがあっても、それを全部人にぶつけない。
ナナ:ああ。
ケンジ:疲れてても、周りを傷つけていい理由にはしない。
ナナ:それ、大事ですね。
ケンジ:もちろん愚痴を言う日もあるよ。
ナナ:ありますよね。
ケンジ:でも、人のせいにし続けるのとは違う。
ナナ:確かに。
ケンジ:自分で切り替え方を知ってる人は、大人だなって思う。
ナナ:ケンジさんは何で切り替えるんですか?
ケンジ:ギターかな。
ナナ:ああ、ケンジさんらしい。
ケンジ:弾いてると頭が空っぽになるんだ。
ナナ:私はお酒かな。
ケンジ:飲みすぎるなよ。
ナナ:分かってますって。
ケンジ:本当か?
ナナ:……たまには。
ケンジ:正直でよろしい。
夜の休憩室に、穏やかな笑い声が広がる。
ナナ:でも、自分の機嫌を自分で取るって、簡単そうで難しいですね。
ケンジ:だからみんな練習中なんだよ。
ナナ:練習中。
ケンジ:大人って完成形じゃない。
ナナ:うん。
ケンジ:たぶん、一生練習中なんだ。
ナナ:その考え方、好きです。

だから、大人は終わらない
休憩室の時計を見ると、もうすぐ夜十時。
編集部もすっかり静かになっていた。
ナナ:なんか今日、答えが出そうで出ませんでしたね。
ケンジ:そういう話もあるさ。
ナナ:「何歳から大人です」って答えがあると思ってました。
ケンジ:俺も昔はそう思ってたよ。
ナナ:でも実際は違った。
ケンジ:違ったな。
ナナ:じゃあ、ケンジさんは今も成長してるってことですか?
ケンジ:してると思いたいな。
ナナ:その歳でも?
ケンジ:その歳でも。
ナナ:なんか安心します。
ケンジ:安心?
ナナ:だって、大人にならなきゃって焦らなくていいんだなって。
ケンジ:焦る必要はないよ。
ナナ:少しずつでいいんですね。
ケンジ:少しずつでいい。
ケンジ:人生って、完成するものじゃなくて更新していくものだから。
ナナはその言葉を聞いて、小さく笑った。
ナナ:その考え方、好きです。
ケンジ:まあ、明日にはまた失敗するかもしれないけどな。
ナナ:説得力なくさないでくださいよ。
ケンジ:ははは。
二人は立ち上がり、それぞれ空になった缶コーヒーとペットボトルを片付ける。
ナナ:じゃあ、お疲れさまでした。
ケンジ:お疲れ。
ナナ:そうだ。
ケンジ:ん?
ナナ:今日の結論。
ケンジ:おう。
ナナ:私もケンジさんも、まだ大人見習いってことで。
ケンジ:四十代後半でも見習いか。
ナナ:一生見習いなのかもしれませんね。
ケンジ:それくらいが、ちょうどいい。
休憩室の照明がひとつ消える。
夜の編集部に残っていたのは、少しだけ肩の力が抜けた二人の笑顔だった。


