今日は、蕎麦の気分だった。
理由は特にない。
ただ、なんとなく。
こういう日は、外れない店に行きたい。
静かで、落ち着いていて、余計なことを考えなくていい場所。
ミカコ:……そういう店、減ったわよね
仕事帰りの道。
ふと、看板が目に入った。
蕎麦処「ナツメ」
ミカコは、立ち止まった。
ミカコ:……はい解散
一歩、引く。
二歩、戻る。
もう一度、見る。
蕎麦処「ナツメ」
ミカコ:……いや、同姓同名って可能性もあるわよね
入口の横に、小さな立て看板が出ていた。
『本日のおすすめ:既読無視そば、未練おろし、恋の大盛り(増量不可)』
ミカコ:……帰る理由、増やすのやめてくれる?
しばらく沈黙。
お腹が鳴る。
ミカコ:……まぁいいわ
ミカコ:蕎麦がまともなら、それでいい
その判断が、間違いだったことを。
ミカコは、まだ知らない。

入店した瞬間、すでに普通じゃない
カラン、と軽い音がした。
扉を開けた瞬間、ふわっと出汁の香りがした。
ミカコ:……あ、ちゃんとしてる
一瞬だけ、安心する。
店内は木目調で、照明も落ち着いている。
カウンター席がいくつかと、奥にテーブルが一つ。
――見た目だけは、普通だった。
ただ。
静かすぎた。
ミカコ:……音、なさすぎない?
厨房の音も、客の気配もない。
空気だけが、妙に整っている。
嫌な予感が、少しずつ現実味を帯びてくる。
そのとき。
カウンターの奥から、声がした。
ナツメ:いらっしゃい
ナツメ:今日はどの“後悔”を啜りに来たんや
ミカコ:……帰るわね
即答だった。
だが。
振り返る。
さっき開けたはずの扉が、なかった。
ミカコ:……はい詰み
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは――
虹色の猫だった。
エプロンをつけている。
しかも、なぜか出汁をかき混ぜている。
ミカコ:……一応聞くけど
ミカコ:あんた、ナツメよね
ナツメ:せやで
ナツメ:今日は猫の日やから、猫でやっとる
ミカコ:営業形態を日替わりで変えるな
ナツメは、真顔で頷いた。
ナツメ:ほな、席どうぞ
ミカコ:選択肢ある?
ナツメ:ないで
ミカコ:でしょうね
ミカコはカウンターに座った。
椅子は普通だった。
それが逆に怖い。
ナツメ:注文どうする?
ミカコ:ざる蕎麦
即答。
ナツメ:ないで
ミカコ:あるでしょ
ナツメ:気持ちはあるけど、蕎麦はない日や
ミカコ:その言い訳で営業してるの?
ナツメ:今日は“心で啜る日”や
ミカコ:帰らせてくれる?
ナツメ:扉ないで
ミカコ:知ってる
注文が成立しない蕎麦屋
ナツメは、どこからか紙を一枚取り出した。
メニューらしい。
ミカコは受け取って、目を通す。
数秒後、閉じた。
ミカコ:……読める単語が少なすぎる
ナツメ:厳選しとるからな
ミカコ:削ぎ落としすぎなのよ
もう一度、開く。
書いてあるのはこれだった。
・既読無視そば(冷)
・未練おろし
・期待つゆ(濃いめ・薄め・重め)
・恋の大盛り(増量不可)
ミカコ:……増量不可の大盛りって何よ
ナツメ:気持ちだけ増えるやつや
ミカコ:それが一番困るのよ
ナツメ:どれにする?
ミカコ:ざる蕎麦
ナツメ:ないで
ミカコ:知ってる
出てきたのは、蕎麦じゃない
ナツメは無言で厨房に引っ込んだ。
……と思ったら、すぐ戻ってきた。
手に持っているのは、ざる。
――ざるだけ。
ミカコ:いや、麺は?
ナツメ:これから来る
ミカコ:来るの待つ形式なの?
その瞬間。
天井から、細い糸が一本、すっと垂れてきた。
ざるの上に落ちる。
さらに一本。
また一本。
ミカコ:……蕎麦、上から供給する店初めて見たわ
ナツメ:自然派や
ミカコ:どの自然?
糸は増え続ける。
見た目は完全に蕎麦っぽい。
でも。
触ると、少し温かい。
ミカコ:……これ、何で温度あるのよ
ナツメ:感情や
ミカコ:絶対違う
薬味が全部、重い
ナツメが、小皿を三つ置いた。
それぞれにラベルが貼ってある。
『未練』
『期待』
『既読』
ミカコ:……既読は薬味じゃないのよ
ナツメ:入れすぎると苦なるで
ミカコ:もう概念なのよ
ナツメ:未練は香り付けやな
ミカコ:香りで済むなら誰も苦労しないわ
ナツメ:期待はな、つゆに溶ける
ミカコ:その説明が一番怖い
ナツメは満足そうに頷いた。
ナツメ:ほな、完成や
ミカコ:どこが?
なぜか普通に美味い

ミカコは、しばらく黙っていた。
ざるの上の“それっぽいもの”を見つめる。
薬味を見る。
ナツメを見る。
ミカコ:……一応、聞くわ
ミカコ:これ、食べて大丈夫なやつ?
ナツメ:人類は今のところ大丈夫や
ミカコ:安心できない情報をありがとう
ミカコは箸を取った。
細い糸状のそれを、少しだけすくう。
つゆにつける。
――ためらう。
ミカコ:……いくわよ
一口、啜る。
数秒、無言。
ミカコ:……あれ
ナツメ:せやろ
ミカコ:……普通に美味しいんだけど
ナツメ:せやで
ミカコ:いや、待って
ミカコ:全部おかしかったのに、味だけ普通なのやめてくれる?
ナツメ:そこが一番の不条理や
ミカコ:納得しかけてる自分が一番怖いのよ
食べ進めるほど、余計なものが減っていく
もう一口。
次は、少しだけ『未練』をつけてみる。
――思ったより、悪くない。
ミカコ:……これ、意外と邪魔しないわね
ナツメ:ちょっとだけ残っとるくらいが、ちょうどええ
ミカコ:料理としては認めたくないけど、分かるのが腹立つ
『期待』を少し。
今度は、少しだけ味が濃くなる。
ミカコ:……入れすぎたら重くなりそうね
ナツメ:なるで
ミカコ:でしょうね
最後に、『既読』。
ほんの少しだけ、つける。
ミカコ:……あ
ナツメ:苦いやろ
ミカコ:……絶妙に嫌な感じするわね
ナツメ:入れすぎる人、多いねん
ミカコ:知ってる

結局、蕎麦はどうでもよかった
気づいたら、半分以上なくなっていた。
ミカコは、箸を置く。
ミカコ:……で、結局これ何だったの
ナツメ:蕎麦や
ミカコ:違うでしょ
ナツメ:違うけど、蕎麦や
ミカコ:一番嫌いなタイプの回答ね
少しだけ沈黙。
ミカコ:……まぁいいわ
ミカコ:美味しかったし
ナツメ:せやろ
ミカコ:でも二度と来ない
ナツメ:また来るで
ミカコ:来ない
ナツメ:来る時はな
ナツメ:蕎麦が食べたい時ちゃう
ナツメ:ちょっとだけ、考えすぎた時や
ミカコ:……それが一番来たくないタイミングなのよ
店を出る。
――扉は、普通にあった。
ミカコ:……最初からそうしてなさいよ
振り返る。
そこにあったのは、普通の蕎麦屋だった。
看板も、普通。
メニューも、普通。
ミカコ:……は?
少しだけ、考える。
――やめた。
ミカコ:……まぁいいか
そのまま歩き出す。
ポケットの中で、何かが少しだけ軽くなっていた。
たぶん、それで十分だった。



