編集部の午後は、だいたいゆるい。
記事の確認をしたり、ちょっと雑談したり。
誰かが何か言って、それに誰かが返す。
そんな感じで時間が流れていく。
その日も、特に大きな話題はなかった。
ただ、ひとつだけ。
テーブルの上に、差し入れが置かれていた。
シンプルな蕎麦。
と、
どこかのラーメン。
誰が持ってきたのかは、なんとなくわかる。
ミカコ:
これ、蕎麦のほう食べるから。
ユウト:
あ、じゃあ僕ラーメンで。
自然に分かれた。
迷いもなく。
ミカコは蕎麦。
ユウトはラーメン。
それが当たり前みたいに。
ミカコ:
ラーメンって、ちょっと重くない?
ユウト:
蕎麦こそ軽すぎません?
間をおかずに返ってくる。
軽い言い合い。
でも、なんとなくわかる。
これは始まるやつだ。
ミカコ:
麺類として考えたら、蕎麦のほうが完成されてると思うけど。
ユウト:
いや、ラーメンのほうが自由度高いですよ。
静かだった編集部に、少しだけ熱が入る。
別にケンカじゃない。
でも、どっちも譲らないやつ。
蕎麦か。
ラーメンか。
なんとなく、どうでもいいようで、
ちょっとだけ気になる話が始まった。


蕎麦は“完成されてる食べ物”
ミカコは箸を手に取って、蕎麦を軽く持ち上げた。
細くて、少しざらっとした質感。
余計な飾りはない。
ただの麺。
でも、それでいい。
むしろ、それがいい。
ミカコ:
蕎麦ってさ、無駄がないのよ。
ユウト:
無駄、ですか。
ミカコ:
ええ。
ミカコ:
味付けもシンプルだし、素材そのままで勝負してるでしょ。
ミカコはそのまま、つゆにつけてひと口食べる。
すする音も、どこか静かだ。
噛まずに、喉を通す。
そのあと、ほんのり残る香り。
派手じゃない。
でも、ちゃんと味がある。
ミカコ:
こういうのでいいのよ。
短く言い切る。
それ以上説明する気はなさそうだった。
ユウト:
でも、それってちょっと物足りなくないですか?
ミカコ:
何が?
ユウト:
もっとこう、パンチがあるほうが…。
ミカコは少しだけ眉を上げた。
ミカコ:
パンチって必要?
その一言で、空気が変わる。
強くはない。
でも、芯がある。
ミカコ:
毎日食べるものに、そんなに刺激いらないでしょ。
ミカコ:
むしろ、続くことのほうが大事じゃない?
ミカコはもう一度、蕎麦を口に運ぶ。
変わらない味。
それが、ちゃんと安心できる。
ミカコ:
蕎麦って、ちゃんと戻ってこれる味なのよ。
少しだけ間があって、続ける。
ミカコ:
外してもいいし、凝ってもいいけど、
ミカコ:
結局シンプルなやつが一番残る。
その言い方が、やけにしっくりきた。
派手じゃない。
でも、しっかり強い。
ミカコの中では、もう答えが出ているらしかった。
ラーメンは“進化し続ける食べ物”
ユウトはラーメンのふたを開けて、立ちのぼる湯気を見た。
醤油の香り。
油の気配。
それで、もうラーメンだと思う。
わかりやすい。
でも、そのわかりやすさが、ラーメンの強さでもある。
ユウト:
蕎麦が完成されてる、っていうのはわかります。
ユウト:
でも、ラーメンって別の強さがあるんですよ。
そう言って、箸で麺を持ち上げる。
縮れた麺に、スープがしっかりと絡んでいる。
そのまま、ひと口。
熱さと一緒に、味が一気に入ってくる。
塩気。
コク。
香り。
全部が一緒に来る。
ラーメンって、いつも強引だ。
でも、その感じがいい。
ユウト:
ラーメンって、自由なんですよね。
ミカコ:
自由?
ユウト:
はい。
ユウト:
スープも違うし、麺も違うし、具も違う。
ユウト:
同じ“ラーメン”でも、全然別の食べ物みたいになるじゃないですか。
ミカコは軽く腕を組んだ。
ミカコ:
それ、まとまりがないとも言えるわよ。
ユウト:
でも、そのまとまらなさが面白いんです。
ユウト:
今日は醤油が食べたいとか、味噌がいいとか、こってりがいいとか。
ユウト:
気分に合わせて、ちゃんと選べる。
ユウトはもう一度、ラーメンを口に運んだ。
スープを飲む。
麺をすする。
そのたびに、少しずつ満足感が積み上がっていく。
ユウト:
あと、ラーメンって“今日はこれ食べたかった”って思わせる力が強いんですよ。
ミカコ:
欲望寄りね。
ユウト:
そうかもしれないです。
ユウト:
でも、食べたいって思わせる力って、かなり大事じゃないですか。
ミカコは何も言わない。
否定していない顔だった。
ユウト:
蕎麦は落ち着く食べ物だと思うんです。
ユウト:
でも、ラーメンはちょっと違って、
ユウト:
気分を上げてくれる食べ物なんですよね。
その言い方には、ラーメン愛の熱があった。
誇張じゃなくて、実感として出ている感じ。
ユウト:
完成されてるかどうかでいえば、蕎麦は確かに強いです。
ユウト:
でも、進化し続けるって意味なら、ラーメンのほうが面白いと思います。
ミカコはゆっくり目を細めた。
反論したそうでもあり、
ちょっと納得していそうでもあった。
麺類バトル

しばらくの沈黙のあと、ミカコが先に口を開いた。
ミカコ:
で、結局ラーメンは“楽しい”だけってことね。
ユウト:
いや、それ言い方ちょっとズルくないですか。
すぐに返す。
間がない。
さっきより少し距離が近い。
ユウト:
蕎麦だって、シンプルなだけで評価されすぎてる気もしますけどね。
ミカコ:
シンプルで成立してるのが強いのよ。
ユウト:
でも、それって逆に変化がないってことじゃないですか?
ミカコ:
変化ってそんなに必要?
また同じやり取り。
でも、少しだけ笑っている。
完全に否定してるわけじゃない。
ユウト:
ラーメンは飽きないですよ。
ミカコ:
蕎麦も飽きないわよ。
ユウト:
いや、ラーメンは種類があるから。
ミカコ:
蕎麦は種類いらないの。
一瞬、間があく。
でも、次の瞬間にはまた続く。
ユウト:
それ、ちょっと強引すぎません?
ミカコ:
そうでもないわよ。
ミカコ:
結局、美味しい蕎麦ひとつあればいいじゃない。
ユウト:
でも僕は、今日は醤油がいいとか、今日は味噌がいいとか考えるの好きなんですよ。
ミカコ:
考えるのが好きなのね。
ユウト:
はい。
ミカコ:
私は考えたくない。
さらっと言う。
ユウトは一瞬止まって、それから笑った。
ユウト:
それはそれで、強いですね。
ミカコ:
でしょ。
また静かになる。
ミカコは蕎麦をすする。
ユウトはラーメンを食べる。
どっちも、美味しそうだ。
なんとなく。
見てるだけで、どっちも食べたくなる。
ユウト:
……でも正直、蕎麦もたまに食べたくなります。
ミカコ:
ラーメンも、たまには食べるわよ。
ふたりは同時に笑った。
結論は出ていない。
でも、なんとなく。
どっちも悪くない、って空気にはなっていた。
結局どっちがいいの?
しばらく食べて、落ち着いた頃。
さっきまでのやり取りが、ふっと緩む。
どっちが上か、なんて話はしていたけど、
結局のところ、答えはそんなに単純じゃない。
ユウト:
……で、結局どうなんですか。
ミカコ:
何が?
ユウト:
蕎麦とラーメン。
ミカコは少しだけ考えて、肩をすくめた。
ミカコ:
どっちもいいのよ。
ユウト:
それ、結論としては一番ずるいやつじゃないですか。
ミカコ:
そう?
ミカコ:
でも実際そうでしょ。
間があく。
ミカコは箸を置いて、軽く続けた。
ミカコ:
場面というより、気分ね。
ユウト:
気分、ですか。
ミカコ:
ええ。
ミカコ:
落ち着きたいときは蕎麦。
ミカコ:
ちょっと気分を上げたいときはラーメン。
ユウトは少しだけ考えて、うなずいた。
ユウト:
……ああ、それはわかります。
ユウト:
今日はラーメンの気分だった、っていうのは確かにありますね。
ミカコは水をひと口飲む。
その仕草も、やっぱり落ち着いている。
ミカコ:
結局、食べたいと思うかどうかよ。
ミカコ:
それ以上でも、それ以下でもないでしょ。
シンプルな言い方だった。
でも、それで十分だった。
ユウトはラーメンのスープを少し飲む。
そのあと、ふっと息をついた。
ユウト:
こうやって話してると、逆に蕎麦も食べたくなりますね。
ミカコ:
私はラーメンでもいいわよ、今なら。
さらっと言う。
さっきまでの主張が嘘みたいに、あっさりと。
でも、それが自然だった。
どっちも知ってるからこそ、
どっちも選べる。
それだけの話なのかもしれない。
少し間が開いて、ユウトが言った。
ユウト:
最近、家でもちゃんとしたラーメン食べられるんですよ。
ミカコ:
蕎麦も同じよ。
即答だった。
ユウトはゆっくり笑う。
ユウト:
じゃあ、どっちも家でいけますね。
ミカコ:
ええ。
ミカコ:
その日の気分で選べばいいだけ。
蕎麦か。
ラーメンか。
どっちが優れているかなんて、
考えるほどのことじゃないのかもしれない。
食べたいと思ったほうを、食べればいい。
それで、十分だった。
その論争、もう古いわよ
編集部のドアが、音もなく開いた。
ミサキ:
何してるの?
空気が変わる。
ミカコとユウトが同時に顔を上げた。
ユウト:
あ、ミサキさん。
ミカコ:
麺の話。
ミサキ:
麺?
ミサキは軽く眉を上げて、テーブルの上を見た。
蕎麦とラーメン。
その並びを見て、ふっと笑う。
ミサキ:
ああ、その論争。
ゆったり間を置く。
そして、あっさりと言った。
ミサキ:
もう古いわよ。
ミカコとユウトが同時に止まる。
ユウト:
え?
ミカコ:
古い?
ミサキ:
ええ。
ミサキ:
最強の麺なんて、とっくに決まってるでしょ。
その言い方は、完全に断定だった。
迷いがない。
ミカコが腕を組む。
ミカコ:
じゃあ何?
ミサキは悪戯っぽく首をかしげて、
当然のことみたいに言った。
ミサキ:
うどんに決まってるでしょ。
一瞬、完全に止まる。
時間が止まったみたいに。
ユウト:
……うどん?
ミカコ:
うどん?
ミサキ:
そう。
ミサキ:
シンプルでしょ。
ミサキ:
でも、だしで全部決まる。
ミサキ:
冷やしてもいいし、温かくしてもいいし、アレンジも効く。
軽く指を折りながら、続ける。
ミサキ:
つまり、蕎麦とラーメンのいいとこ取り。
言い切った。
完全に。
ミカコは少しだけ目を細める。
ユウトは、苦笑いした。
ユウト:
……強引ですね。
ミカコ:
でも、嫌いじゃないわ。
ミサキは軽く肩をすくめる。
ミサキ:
でしょ。
そのまま、何事もなかったみたいに席に座った。
蕎麦とラーメンの論争は、
あっさりと、別の方向に流れていった。
結局のところ。
麺なんて、どれも美味しい。
ただ、その日の気分で選べばいい。
……たぶん、それが一番正解だった。



