路地裏にある小さな和ビストロは、静かに飲みたい夜にちょうどいい店だった。
木目のカウンターに並ぶワインボトル。奥の厨房からは、焼いた魚の香ばしい匂いが漂ってくる。
派手じゃない。でも、長居したくなる空気がある。
ナナは白ワインを片手にメニューを眺めながら、楽しそうに笑っていた。
ナナ:
ここいいねぇ。なんか“大人が逃げ込む店”って感じする
ミカコ:
その表現、ちょっと分かるの嫌だな
そこへ、少し遅れてユキノがやってくる。
柔らかいベージュのジャケットに、黒のインナー。仕事帰りらしい落ち着いた格好だった。
ユキノ:
ごめん、お待たせ
ナナ:
きたきた。今日はユキノ回だからね
ユキノ:
なんか嫌な予感する言い方なんだけど
ミカコ:
今日はちょっと重めテーマだから
ユキノ:
あー…そういう日か
店員が、小皿に盛られたカルパッチョと日本酒をテーブルに置いていく。
少しだけ静かな空気。
でも、それくらいの温度感がちょうどよかった。
ナナ:
じゃあ今日のテーマね
ナナ:
「別れたこと、後悔した恋ある?」
ユキノは一瞬だけ視線を落として、それから小さく笑った。
ユキノ:
…あるに決まってるじゃん

「別れなきゃよかった」って思ったことある?
ナナ:
いやでもさ、正直みんな一回くらいあるでしょ。「あの別れ、早まったかも」みたいなの
ミカコ:
あるね
ミカコ:
後悔っていうか、「あの時もう少し違う動きできたかも」って思うことはある
ナナ:
あー、わかる
ナナ:
あたし普通にあるよ。しかも別れてしばらくしてから来るんだよね
ユキノ:
時間差で来るやつね
ナナ:
そうそう。別れた直後って意外と勢いで乗り切れるの
ナナ:
でも半年後とか、急にくる。「あれ、あの人結構よかったんじゃ…?」って
ミカコ:
人って嫌だったこと忘れるからね
ナナ:
それはある。脳が都合よく編集してくる
ユキノが小皿の出汁巻きを少し切りながら、静かに笑う。
ユキノ:
でもさ、後悔する恋って、ちゃんと好きだった恋なんだと思う
ナナ:
あー…それはあるかも
ミカコ:
どうでもいい相手は、そもそも思い出さないしね
ユキノ:
うん。別れたあとも残るってことは、それだけ自分の中にあったってことだから
ナナ:
ユキノそういうこと静かに刺してくるよね
ユキノ:
今日はそういう日でしょ?
三人が少し笑う。
重いテーマなのに、どこか空気は柔らかかった。
ミカコ:
でも後悔って、必ずしも「戻りたい」ではないんだよね
ナナ:
あー、それ大事
ミカコ:
別れは正しかった。でも悲しかったって恋もあるから
その言葉に、ユキノが静かに頷いた。
ユキノ:
…それは本当にそう思う
後悔する恋って、どんな恋?
ナナ:
でもさ、後悔する恋って共通点ある気がしない?
ミカコ:
あると思う
ユキノ:
わたしは、ちゃんと向き合ってた恋ほど後悔残る気がするな
ナナ:
あー…遊びの恋ってそこまで引きずらないもんね
ミカコ:
うん。表面的な関係は終わってもダメージ浅い
ユキノ:
でも本気だった恋って、生活とか価値観とか、人生そのものに入り込むから
ナナ:
別れたあとも“癖”みたいに残るんだよね
ミカコ:
いる前提で生活してた人がいなくなるからね
店員が、焼いた白身魚の皿をテーブルに置いていく。
ふわっと立ち上がる香ばしい匂いに、一瞬、会話が止まる。
ナナ:
あとさ、タイミングで壊れた恋も後悔しない?
ユキノ:
する
ユキノ:
嫌いになったわけじゃないのに終わる恋って、答えが出ないまま残るから
ミカコ:
仕事とか距離とか、当時の余裕とかね
ナナ:
「今だったらうまくやれたかも」って思っちゃうやつ
ユキノ:
でも逆に言えば、当時は無理だったんだと思う
ミカコ:
それはあるね。後からなら何とでも言えるし
ユキノ:
うん。だから後悔はするけど、過去の自分を責め続けるのとは違うかな
ナナ:
ユキノって、そういう整理の仕方するよね
ユキノ:
離婚すると嫌でも考えるからね、そういうの
その言い方は淡々としていた。
でも、軽く笑ったあとに残る空気には、少し重みがあった。
ミカコ:
あと後悔する恋って、未熟だった頃の恋も多い気がする
ナナ:
あー、若い頃ね
ミカコ:
今なら言えたことを言えなかったり、変な意地張ったり
ユキノ:
好きだったのに、うまく愛せなかった恋ね
ナナ:
それ聞くと、なんか胸痛いわ…
「別れ」は正しかったのに、後悔は残る
ナナ:
でもさ、これ一番ややこしいんだけど
ナナ:
「別れて正解だった」って分かってるのに、後悔残る恋ない?
ミカコ:
あるね
ミカコ:
むしろ大人になるほど、そのパターン増える気がする
ユキノ:
うん。若い頃みたいに「嫌いになったから終わり」だけじゃなくなるから
ナナ:
あー…それだ
ユキノ:
好きだったし、一緒にいて楽しかった。でも続けると、お互い壊れるって分かる恋もあるんだよね
その言葉に、ナナが静かにワインを口に運ぶ。
いつもの勢いのある返しが、少しだけ遅れる。
ミカコ:
恋愛って、“好き”だけで続けられない部分あるからね
ナナ:
タイミングとか、生活とか、将来とか
ユキノ:
そう。だから別れる判断自体は間違ってなかったって思うこともある
ナナ:
でも悲しいんだよね
ユキノ:
悲しいよ
ユキノ:
だって、“好きだった事実”は消えないから
店の照明が、グラスの中の白ワインをゆっくり揺らしている。
騒がしくない店だからこそ、言葉が静かに残った。
ミカコ:
あとさ、大人の恋愛って、別れたあとも完全には切れないことあるよね
ナナ:
あー…わかる
ミカコ:
思い出とか習慣とか、そういうのだけ残る
ユキノ:
ふとした瞬間に来るんだよね。好きだった店とか、音楽とか
ナナ:
あと冬の夜とかね。急に全部来る
ミカコ:
季節で恋愛思い出すの、なんなんだろうね
ユキノ:
ちゃんと生きてた時間だったからじゃない?
ナナ:
うわ、それいい言葉だわ
ユキノ:
でもね、後悔って悪いものじゃないと思うの
ミカコ:
どういう意味?
ユキノ:
後悔するって、それだけ本気だったってことだから
ユキノ:
ちゃんと好きになった恋があったって、少し誇っていいと思う
ナナが小さく「それはそうかも」と呟いた。
「戻りたい」と「思い出になる」は違う
ナナ:
でもさ、後悔してると「戻りたい」は別だよね
ミカコ:
かなり別物
ユキノ:
そこ混ざると危ないんだよね
ナナ:
あたし昔それやったわ
ミカコ:
出た経験談
ナナ:
いやほんと、「あの恋よかったなぁ」って思ってたら、いつの間にか「戻ればよくない?」になってたの
ユキノ:
それで?
ナナ:
普通にダメだった
三人が吹き出す。
重かった空気が、軽くほどける。
ナナ:
いやでもさ、思い出の中って美化されるじゃん
ミカコ:
されるね。嫌だった部分はだいたい薄まる
ナナ:
そうそう。「優しかったなぁ」しか残らないの
ユキノ:
でも実際戻ると、ちゃんと現実も戻ってくるからね
ミカコ:
そこ重要
ミカコ:
恋愛って、“思い出の相手”と“実際の相手”が違うこと普通にあるから
ナナ:
うわ、それ刺さる
店員が追加の小皿を置いていく。
和風ソースのかかったローストビーフから、湯気がゆっくり立ち上がっていた。
ユキノ:
あとね、「戻りたい」って思う時って、自分が弱ってる時も多い気がする
ナナ:
それはあるかも
ミカコ:
寂しい時ほど過去って綺麗に見えるしね
ユキノ:
だから、後悔してる自分を否定しなくていいけど、勢いで過去に戻ろうとしないのは大事かなって
ナナ:
あー…大人の答えだ
ミカコ:
でも実際そうだと思う
ユキノ:
うん。恋って、終わったあと全部消えるわけじゃないのよ
ユキノ:
でも、全部を“やり直し”にしなくてもいいとも思う
ナナ:
思い出として残すってこと?
ユキノ:
そう。大事だった恋として、自分の中に置いておくって感じかな
ミカコ:
それができると、ちょっと前向ける気はするね
後悔した恋が、今の自分を作ってる

ナナ:
なんか今日さ、普通にしみる話多いんだけど
ミカコ:
今日はそういう回だからね
ナナ:
でもちょっと思ったわ
ナナ:
後悔した恋って、結局ずっと残るんだね
ユキノ:
残ると思う
ユキノ:
でも、それって悪いことじゃない気がするんだよね
ユキノがグラスを持ちながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
店の空気は静かで、誰も急かさなかった。
ミカコ:
まぁ、全部綺麗に忘れられる恋ばっかりだったら、人ってもっと浅いかもね
ナナ:
それはある。痛かった恋ほど覚えてるし
ユキノ:
うん。後悔って、相手と向き合った証拠でもあるから
ナナ:
なんか救われる言い方するね
ユキノ:
だって実際そうだと思うの
ユキノ:
恋愛って、うまくいったかどうかだけじゃないから
ミカコ:
あー…それ大事
ユキノ:
別れても、その恋で変わった自分がいるなら、全部無駄ではないと思う
ナナが小さく頷きながら、ワインを飲む。
ナナ:
たしかにさ、昔よりちゃんと人に優しくなれた気はする
ミカコ:
傷ついた分、分かること増えるしね
ユキノ:
だから、後悔した恋も含めて、今の自分なんじゃないかな
ナナ:
…なんか今日、めっちゃ大人の回じゃない?
ミカコ:
年齢的にね
ナナ:
そこは言わなくていいのよ
三人が笑う。
重いテーマだったはずなのに、不思議と苦しくはなかった。
ユキノ:
じゃあ最後に
ユキノ:
後悔した恋にも
ミカコ:
無駄じゃなかった時間にも
ナナ:
今の自分にも
三人のグラスが、静かに触れ合う。
少しだけ昔を思い出して、少しだけ前を向けた夜だった。
まとめ
後悔する恋があるのは、 ちゃんと好きだった証拠。
別れが正しかったとしても、 悲しさまで間違いだったわけじゃない。
恋の後悔も、 今の自分を作る一部なのかもしれない。




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