ワニオは、その日もいつもの公園に来ていた。
特に目的はない。
ただ、人間を観察するのが好きなだけだ。
ベンチに座り、缶コーヒーを開ける。
そのとき、少し離れた場所にいる一人の男性が目に入った。
スーツ姿の中年男性。
うつむいたまま、動かない。
なんとなく。
ワニオは、その男に興味を持った。
何も成し遂げてこなかった男

ワニオはしばらくその男を見ていた。
動かない。
スマホも見ない。
ただ、下を向いている。
人間はだいたい、何かしらの行動をしている。
だがこの男は、それがない。
だからこそ、少しだけ目立つ。
ワニオは立ち上がり、男の隣に座った。
ワニオ:こんにちは。
男は少しだけ驚いた顔をした。
それも無理はない。
公園でワニに話しかけられる経験は、あまりないからだ。
男性:……ああ。
短く返事をする。
視線はすぐに戻った。
ワニオ:何か考えごとですか。
男は少しだけ笑った。
乾いた笑いだった。
男性:……まあね。
男性:ここまで生きてきてさ。
男性:何も成し遂げてこなかったなって思って。
ワニオは、ほんの少しだけ首をかしげた。
ワニオ:何を成し遂げる予定だったのですか。
男は言葉を止めた。
男性:……いや。
男性:別に、具体的に決めてたわけじゃないけど。
男性:なんかこう……もっと何かあると思ってたんだよ。
男性:気づいたら、この年になってて。
男性:何も残ってない気がしてさ。
少しだけ風が吹いた。
男は、また視線を落とした。
成し遂げるって、何ですか

ワニオは缶コーヒーを一口飲んだ。
そして、少しだけ間を置いてから言った。
ワニオ:「成し遂げる」とは何を指しますか。
男は少しだけ顔を上げた。
男性:……え?
ワニオ:仕事で成功することですか。
ワニオ:それとも、お金を稼ぐことですか。
ワニオ:あるいは、誰かに認められることですか。
男性:……うーん。
男性:たぶん、そのへん全部だな。
男性:なんかさ。
男性:わかりやすい“結果”みたいなもの。
ワニオ:なるほど。
ワニオ:では質問です。
男性:またか。
ワニオ:はい。
ワニオ:今日ここに来るまで、何もしていませんか。
男性:いや……それはしてるよ。
男性:仕事して、帰ってきて。
男性:なんとなくここに座ってるだけだ。
ワニオ:それは行動です。
男性:まあな。
ワニオ:ですが、それは「成し遂げた」とは呼ばれません。
男性:……そうだな。
ワニオ:人間は、成果だけを人生として数えます。
ワニオ:過程は、ほとんど無視されます。
男は黙ったまま、少しだけ考える。
ワニオ:たとえば。
ワニオ:昨日、誰かと話しましたか。
男性:……同僚と少し。
ワニオ:それは関係の維持です。
ワニオ:ですが「成し遂げた」とは呼ばれません。
男性:たしかに。
ワニオ:では、食事はしましたか。
男性:……したよ。
ワニオ:それは生命の維持です。
ワニオ:ですが、やはり評価されません。
男性:……そう言われると、なんか変な感じだな。
ワニオ:人間は、ほとんどの活動を「当たり前」として処理します。
ワニオ:そして、当たり前はカウントされません。
男性:……。
ワニオ:結果だけを見れば。
ワニオ:確かに「何もない」ように見えるかもしれません。
ワニオ:ですが実際は。
ワニオ:ほとんどの人生が、見落とされています。
男は少しだけ顔を上げた。
表情が、ほんの少し変わる。
男性:……それってさ。
男性:じゃあ、俺は何もしてなかったわけじゃないってことか。
ワニオ:はい。
ワニオ:むしろ、かなり活動しています。
男性:でもさ。
男性:それじゃあ、やっぱり“成し遂げた”感じはしないだろ。
ワニオ:それは、定義の問題です。
男性:定義?
ワニオ:はい。
ワニオ:「成し遂げる」とは、他人に認識される形にすることです。
ワニオ:認識されなければ、なかったことになります。
男性:……それ、ちょっと怖いな。
ワニオ:ええ。
ワニオ:ですが、現実です。
ワニオ:だからこそ人は。
ワニオ:「結果」を求めます。
男性:……じゃあさ。
男性:結果がない俺は、やっぱダメなのか。
ワニオは少しだけ、視線を前に向けた。
そして静かに言った。
ワニオ:いいえ。
ワニオ:数え方が偏っているだけです。
数え方を変えると、少しだけ軽くなる
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
風の音だけが聞こえる。
男はゆっくりと息を吐いた。
男性:……数え方、か。
ワニオ:はい。
男性:なんかさ。
男性:ずっと、でかいことばっかり見てた気がするわ。
男性:昇進とか、成功とか、そういうやつ。
ワニオ:それはわかりやすい指標です。
男性:でも、それだけで判断してたら。
男性:そりゃ何もないって思うよな。
ワニオ:はい。
ワニオ:基準が大きすぎると、ほとんどがゼロになります。
男性:……それ、ちょっと笑えるな。
男は小さく笑った。
最初に見たときより、ほんの少しだけ表情が柔らいでいる。
男性:じゃあさ。
男性:俺、今日も一応何かはやってたってことか。
ワニオ:はい。
ワニオ:かなり多くのことをしています。
男性:……そんな気は全然しないけどな。
ワニオ:それは正常です。
ワニオ:人間は、自分の行動に慣れすぎています。
男性:慣れか。
ワニオ:慣れていることほど、価値を感じにくくなります。
男性:……なるほどな。
男は少しだけ空を見上げた。
男性:なんかさ。
男性:全部解決したわけじゃないけど。
男性:さっきよりは、ちょっとマシかも。
ワニオ:それで十分です。
ワニオ:人間は、一度に解決しません。
男性:現実的だな、お前。
ワニオ:観察しているだけです。
男はもう一度、小さく笑った。
男性:ありがとうな。
男性:なんか……変な気分だけど、悪くないわ。
ワニオ:どういたしまして。
男はゆっくり立ち上がった。
来たときより、ほんの少しだけ背筋が伸びている。
そのまま、振り返らずに歩いていった。
ワニオはしばらく、その背中を見ていた。
観察のあとに、いつもの時間

しばらくして。
ワニオはベンチに座ったまま、缶コーヒーを傾けていた。
中身はもうほとんど残っていない。
特に何かを考えているわけでもない。
ただ、さっきの男のことを少しだけ思い出していた。
そのとき。
ミユ:ワニオー。
後ろから声がした。
振り向くと、ミユがパンの袋を持って立っている。
少しだけ息を弾ませているところを見ると、歩いてきたばかりらしい。
ミユ:はい、これ。
ミユ:なんか食べてなさそうだから買ってきた。
ワニオ:ありがとうございます。
ミユ:で、今日はなに観察してたの。
ワニオ:人生を評価している人間です。
ミユ:なにそれ、重。
ワニオ:よくある現象です。
ミユ:へぇ。
ミユは隣に座って、袋からパンを取り出した。
ひとつをワニオに渡し、自分もかじる。
ミユ:で、その人どうだったの。
ワニオ:少しだけ軽くなりました。
ミユ:ワニオがなんか言ったの?
ワニオ:いいえ。
ワニオ:本人が気づいただけです。
ミユ:あー、またそれね。
ミユは少し笑った。
パンをちぎりながら、空を見上げる。
ミユ:なんかさ。
ミユ:そういうの、ちょっといいよね。
ミユ:知らない人なのに、ちょっとだけ軽くなるやつ。
ワニオ:ええ。
ワニオ:人間は、少しのきっかけで変化します。
ミユ:単純だねー。
ワニオ:効率的とも言えます。
ミユ:ポジティブか。
風が少し吹いた。
パンの袋がかさっと鳴る。
ミユ:あたしもさ。
ミユ:たまにあるよ。
ミユ:なんか、何もしてない気がする日。
ワニオ:はい。
ミユ:そういうとき、また来るわ。
ミユ:ここ。
ワニオ:承知しました。
ワニオ:観察対象として対応します。
ミユ:それやめろって。
ミユは笑った。
ワニオも、少しだけ目を細める。
さっきまでそこにいた男の姿は、もう見えない。
でも。
たぶんどこかで、少しだけ軽くなっている。
そんな気がした。
ミユはもう一口パンをかじって、言った。
ミユ:……ねぇワニオ。
ワニオ:はい。
ミユ:あたしのことも、ちゃんと観察しといてよ。
ワニオ:もちろんです。
ワニオ:最優先対象ですので。
ミユ:なんかそれ、ちょっとだけムカつくけど。
でも、まあいいか。
この公園に来れば、だいたいワニオはいる。
それだけで。
少しだけ安心するのも、たぶん事実だった。

