【ミサキ様が通る!】マリさんの「昔ちょっとね」

会員制のBARにいるミサキ、ユウカ、マリ、余裕の表情のマリ。
目次

ユウカから、妙な誘いが来た

会員制のBARに誘うユウカ。興味を持つミサキ。

「ミサキ、今度ちょっと面白いところ行かない?」

編集部で声をかけてきたユウカは、だいたいこういう顔をしている時にろくでもないものを持ってくる。

合コンだったり。

誰かの恋愛相談だったり。

よく分からないイベントだったり。

ただし。

ろくでもないけど、だいたい面白い。

そこが腹立たしい。

「何?」

「BAR。」

「行かない。」

「まだ何も説明してないじゃん。」

「BARなんてそこら中にあるでしょ。」

「会員制。」

「行く。」

「早っ。」

仕方ないじゃない。

わたし、限定とか会員制とか招待制とか、そういう言葉に弱いのよ。

……我ながら分かりやすい女ね。

ユウカによると、知り合いの小さな出版社の編集者から声をかけられたらしい。

その人が時々顔を出している会員制のBARで、小さな交流会が開かれる。

普段は会員か、その同伴者くらいしか入れない。

でもその夜は、店の常連たちがそれぞれ何人かゲストを連れてきてもいいことになっているらしい。

「それで私も一人連れてきていいって言われて。」

「それがわたし?」

「そう。」

「見る目あるじゃない。」

「自分で言う?」

「誰も言ってくれなかったら困るでしょ。」

「困らないよ。」

この女。

わたしへの扱いが年々雑になっている気がする。

「でね。そこに来る人が結構面白くて。」

ユウカがスマホを見ながら続ける。

「小説家とか、編集者とか、アート系の人とか。」

「へえ。」

「普通に名前聞いたことある人も来るらしいよ。」

その一言で、わたしの興味が一段上がった。

最近。

小説を書いてみたいと思うことがある。

別に、今すぐ小説家になりたいわけじゃない。

ライターを辞めるつもりもない。

ただ。

人の恋愛について書いていると、ときどき思うのだ。

もっと自由に、人間を書いてみたい。

事実を整理して、読者に分かりやすく伝える文章ではなく。

誰かの格好悪さとか。

欲とか。

嫉妬とか。

自分でも説明できない感情とか。

そういうものを、物語として書いたらどうなるんだろう。

……まあ。

わたしが書いたら、性格の悪い登場人物ばかりになりそうだけど。

それはそれで面白いか。

「行くわ。」

「だから、さっきから行くって言ってるじゃん。」

「改めて正式に参加表明したの。」

「はいはい。」

そこで話は終わると思った。

ところがユウカは、スマホを置かない。

「……でさ。」

「何よ。」

「もう一人、誘わない?」

「一人しか連れていけないんじゃなかったの?」

「聞いてみたら、もう一人くらいならいいって。」

「誰?」

ユウカは少し考えるような顔をしてから言った。

「マリさん。」

わたしは一瞬だけ黙った。

そして。

「……いいんじゃない?」

即、賛成した。

「でしょ?」

「こういう場所でも普通にしてそうだし。」

「それ。」

ユウカが指をさす。

「私たち二人だけだと、ちょっと不安じゃない?」

「わたしは別に不安じゃないけど。」

「じゃあ二人で行く?」

「マリさん誘いましょう。」

「不安なんじゃん。」

うるさい。

知らない場所に行くのに保険をかけて何が悪い。

しかも、マリさんは妙にこういう時頼りになる。

偉そうにするわけでもない。

知ったかぶりもしない。

それなのに、どこへ連れていっても「場違いな人」にならない気がする。

理由はよく分からない。

たぶん、あの人自身が周りからどう見られるかを、あまり気にしていないからだと思う。

ユウカがその場でメッセージを送った。

しばらくして返信が来る。

「マリさん、来るって。」

「早いわね。」

「ただ、仕事があるから少し遅れるかもって。」

「了解。」

これで決まり。

小説家。

編集者。

アーティスト。

会員制BAR。

そして、わたし。

悪くない夜になりそうじゃない。

強い女とコミュ強、揃って借りてきた猫になる

錚々たるメンツの集まりに柄にもなく緊張するミサキとユウカ。

当日。

ユウカと待ち合わせて、例のBARへ向かった。

場所は都内の少し静かなエリア。

駅前の賑やかな通りから一本、さらにもう一本入ったところにある。

看板らしい看板はない。

古いビルの前で、ユウカがスマホを見ながら立ち止まった。

「……ここだと思う。」

「思う?」

「初めて来るんだもん。」

「ちょっと待って。」

「何?」

「あなた、もっと常連みたいな顔してわたしを誘わなかった?」

「してないよ。」

「してたわよ。」

「ミサキなら大丈夫かなって。」

「何よ、その雑な信頼。」

入口で名前を告げる。

ユウカを招待した編集者の名前を伝えると、スタッフはすぐに確認してくれた。

重そうな扉が開く。

中へ入った瞬間。

わたしは思った。

……あら。

これは。

思っていたより、ちゃんとしている。

照明は暗め。

長いカウンターの奥には、見たことのないボトルが並んでいる。

壁には何枚か絵が飾られていた。

音楽も流れているけれど、会話を邪魔しない程度。

いわゆる「高級店」とは少し違う。

でも。

ここにいる人たちは、この場所を知っている。

そんな空気があった。

受付でユウカを招待した編集者に挨拶をして、店内へ案内してもらう。

そして。

ユウカが、わたしの腕を小さくつついた。

「ミサキ。」

「何?」

「右奥。」

「右奥が何よ。」

「見て。」

言われた方向へ、さりげなく視線を向ける。

窓際の席で、白髪交じりの男性がワインを飲んでいた。

見覚えがある。

というより。

普通に知っている。

「……あの人。」

「だよね?」

「○○賞取った人でしょ。」

「やっぱりそうだよね。」

ユウカの声が小さい。

普段なら、初対面の相手だろうが三分もあれば会話を始める女が。

声を潜めている。

珍しいものを見た。

「ユウカ。」

「何?」

「緊張してる?」

「してない。」

「してるじゃない。」

「ミサキは?」

「するわけないでしょ。」

そう言って、わたしはワイングラスを持った。

両手で。

……。

なんで両手で持ってるのよ、わたし。

そっと片手に戻した。

誰にも見られていないことを願う。

店内を改めて見渡す。

有名人だらけというわけではない。

知らない人の方が多い。

でも、ユウカから説明されると、その知らない人まで妙にすごい。

「あの人、美術系の雑誌で連載持ってる人らしいよ。」

「へえ。」

「あっちの女性、ギャラリーやってるって。」

「そう。」

「壁の絵あるじゃん。」

「あるわね。」

「描いた人、あそこにいる。」

「……本人いるの?」

「いる。」

困った。

全員、急に強そうに見えてきた。

もちろん、誰もわたしたちを威圧しているわけじゃない。

普通に飲んでいるだけ。

笑っている人もいる。

楽しそうに話している。

なのに。

耳に入ってくる単語が違う。

「次の作品が――」

「担当編集が――」

「個展の時に――」

「あの出版社なら――」

知らない世界の会話。

ここでは誰かの肩書きを知らないことすら、ちょっと怖い。

いつものわたしなら。

知らないなら聞けばいい。

面白そうなら話しかければいい。

それで済む。

でも今日は、ほんの少し違った。

わたし、こういう場所で緊張することあるのね。

四十年近く生きて、またひとつ自分を知った。

……いや、まだ二十代だけど。

危ない。

マリさんの人生観に引っ張られたわ。

「ねえ。」

ユウカが小声で言った。

「何?」

「マリさん、何時に来るって?」

わたしはスマホを見る。

「あと十五分くらい。」

「そっか。」

「……何よ。」

「別に。」

「心待ちにしてるじゃない。」

「ミサキだってスマホ確認したじゃん。」

「時間を見ただけよ。」

「マリさんのメッセージ開いてたけど。」

「細かい女ね。」

二人でワインを飲む。

そして。

なぜか会話が途切れる。

コミュ強のユウカ。

自信だけなら人に譲る気のないわたし。

その二人が。

知らない世界の片隅で、揃って借りてきた猫になっていた。

……早く来なさいよ、マリさん。

マリさん、普通に来る

特別な集まりでも特に気負うことなく普通にくるマリ。

それから十分ほどして。

入口の扉が開いた。

「あ。」

先に気づいたのはユウカだった。

マリさん。

特別気合いを入れた格好でもない。

いつものマリさんより少しだけ夜のお出かけ仕様。

それくらい。

店内を見回して、こちらを見つける。

そして普通に歩いてきた。

「ごめんね。待った?」

「マリさーん。」

ユウカの声が、明らかに安心している。

「何、その声(笑)」

「いや、ちょっと。」

「何よ。」

「マリさんが来て安心した。」

「私、保護者?」

「違います。」

「半分くらいそうです。」

「どっち(笑)」

わたしはワインを飲みながら、そのやり取りを眺めていた。

「ミサキちゃんも待った?」

「別に。」

「さっきあと何分か確認してたよ。」

ユウカ。

余計なことを言うんじゃない。

「時間を確認しただけです。」

「そう?」

マリさんは笑って席についた。

店員がやってきて、注文を取る。

マリさんはワインを頼んだ。

それだけ。

わたしは少し拍子抜けした。

もっとこう。

「素敵なお店ね」とか。

「こういうところ初めて」とか。

何かしら反応があると思っていた。

でも。

ない。

壁の絵を見て驚くことも。

周囲の客を気にすることも。

誰が有名人なのか探すこともない。

本当に、いつものマリさんだった。

「マリさん。」

「ん?」

ユウカが身を寄せる。

「あそこにいる人、知ってます?」

さっきの小説家を目で示す。

マリさんもそちらを見る。

「有名な人なの?」

「えっ。」

「小説家。」

「そうなんだ。」

「○○賞取った人ですよ。」

「へえ。」

ユウカがわたしを見る。

わたしもユウカを見る。

知らないんかい。

いや。

いいのよ。

知らなくても。

むしろ、知らないのにこの落ち着き。

どういう精神構造なの。

「マリさん、緊張しないんですか?」

わたしが聞く。

「何が?」

「こういう場所。」

マリさんが店内を見回した。

「素敵なお店じゃない。」

「そうじゃなくて。」

「周り。」

「小説家とか、編集者とか、アーティストとかいるんですよ。」

「そうみたいね。」

「それだけ?」

「それ以上ある?」

……ない。

ないんだけど。

なんか腹立つ。

「私たち、さっきまで若干緊張してたんですよ。」

ユウカがあっさり白状した。

「ちょっと。」

「いいじゃん、もう。」

「ミサキちゃんも?」

マリさんが少し意外そうにわたしを見る。

「若干です。」

ここは強調しておく。

若干。

ほんの少し。

誤差の範囲。

「珍しいね。」

「わたしだって人間ですから。」

「知ってる(笑)」

しばらく三人で飲んだ。

マリさんが来てから、わたしもユウカも普通に話せるようになった。

別にマリさんが何かしてくれたわけじゃない。

ただそこにいるだけ。

なのに。

さっきまで妙に格式高く見えていたBARが、ただのお酒を飲む場所に戻った。

不思議な人だ。

「そういえばミサキちゃん、小説書きたいんだって?」

「ユウカ。」

「何?」

「余計な情報を流さないで。」

「いいじゃん。」

マリさんが楽しそうに笑う。

「いいじゃない。書いてみたら?」

「まだ、ちょっと思ってるだけです。」

「最初はみんなそうなんじゃない?」

「マリさん、小説とか読むんですか?」

「読むよ。」

「へえ。」

「何、その意外そうな顔。」

「別に。」

そんな話をしていた時だった。

少し離れた席から、一人の男性がこちらを見ていることに気づいた。

有名な賞を取った小説家だった。

視線の先を追う。

ユウカじゃない。

わたしでもない。

マリさんを見ている。

男性は少し考えるような顔をした。

そして。

席を立った。

こちらへ歩いてくる。

「……ねえ。」

ユウカが小声で言う。

「分かってる。」

男性は、わたしたちのテーブルの前で立ち止まった。

そしてマリさんを見た。

「……マリさん、ですよね?」

マリさんが顔を上げる。

一瞬だけ驚いたあと。

いつもの穏やかな笑顔になった。

「あら。」

「久しぶり。」

…………。

わたしとユウカは。

たぶん、まったく同じ顔をしていた。

向こうから挨拶に来た

有名な小説家がマリに話しかける。驚くミサキとユウカ。

その人のことは、もちろん知っていた。

数年前、大きな文学賞を取った小説家。

その後も話題作を何冊も出していて、映画化された作品もある。

本をそれほど読まない人でも、名前か顔のどちらかは知っている。

わたしも作品を読んだことがあった。

さっきユウカと二人で。

「本物いるじゃん。」

なんて小声で話していた相手である。

その人が。

今、マリさんに「久しぶり」と言われている。

……ちょっと待って。

どういうこと?

「やっぱりマリさんだ。」

彼は嬉しそうに笑った。

年齢はマリさんと同じくらいだろうか。

少し下かもしれない。

雑誌のインタビューで見るより、実物の方が柔らかい印象だった。

「久しぶりね。元気そうじゃない。」

「マリさんも。」

「何年ぶり?」

「かなり経ちますよ。」

「そうよねえ。」

普通。

あまりにも普通。

久しぶりに会った知人同士の会話。

ただし。

片方はマリさんで、片方は映画化作品を持つ小説家である。

情報量がおかしい。

わたしは隣を見る。

ユウカもこちらを見た。

目だけで会話する。

知り合いなの?

知らない。

なんで?

私に聞かないで。

たぶん、そんな会話だった。

彼がこちらに気づく。

「すみません。お話中でしたよね。」

「いいのよ。友達だから。」

友達。

マリさんがそう言ってくれたことは普通に嬉しい。

でも今はそこじゃない。

ユウカがすぐに笑顔になる。

さすがコミュ強。

こういう時の復帰だけは早い。

「ユウカです。」

わたしも軽く頭を下げる。

「ミサキです。」

「もちろん知ってます。」

……え?

一瞬だけ期待した。

ついにわたしも文化人界隈にまで名が轟いた?

「さっき、マリさんのお友達だと紹介してもらったので。」

「ああ。」

そういうこと。

危ない。

三秒だけ調子に乗ったわ。

「でも、お名前はどこかで見たことある気がします。」

「恋愛メディアで書いてます。」

「そうなんですね。」

……よし。

半歩くらいは文化人界隈に入ったことにしておこう。

今日はそれで満足。

そんなことより。

気になるのはマリさんとの関係だ。

彼はマリさんを見る。

「でも、本当に懐かしいな。」

「そうね。」

「あの頃は、ずいぶんお世話になりました。」

ん?

お世話になった?

ユウカの姿勢が少し前のめりになる。

わたしも耳だけは完全にそちらへ向いていた。

マリさんは困ったように笑った。

「大げさよ。私、何もしてないじゃない。」

「いやいや。」

彼も笑う。

「あの時は本当に――」

来た。

わたしの中の取材スイッチが入る。

さあ、話しなさい。

何があったの。

いつの話。

何をしたの。

なぜあなたがマリさんに世話になってるの。

ところが。

「もう昔の話はいいじゃない。」

マリさんが笑って遮った。

「今じゃ立派な先生なんだから。」

「先生はやめてくださいよ。」

「じゃあ大先生?」

「もっと嫌です。」

二人で笑う。

…………。

終わった。

いやいやいや。

そこからでしょうよ。

わたしとユウカが一番聞きたいところ、今からでしょうよ。

彼は自分の席にいる人たちを振り返った。

「またあとでゆっくり話しましょう。」

「ええ。」

「会えてよかったです。」

「私も。」

そして。

彼はごく自然に頭を下げた。

「本当に、あの頃はありがとうございました。」

「だから、もういいって(笑)」

「じゃあ、また。」

「またね。」

彼は自分の席へ戻っていった。

わたしとユウカは、その背中を見送った。

そして。

同時にマリさんを見る。

マリさんは何事もなかったようにワインを飲んだ。

「……何?」

ユウカが口を開く。

「マリさん。」

「うん。」

「今の人、知ってるんですか?」

「知ってるよ。」

「それは見れば分かります。」

珍しくユウカのツッコミが速い。

わたしも続ける。

「何で知り合いなんですか?」

「昔ちょっとね。」

出た。

大人が詳細を話したくない時に使う、最強の言葉。

昔ちょっと。

何年前なのかも。

何をしていたのかも。

どこで知り合ったのかも。

何ひとつ説明していない。

「あの人、マリさんにお世話になったって言ってましたよね。」

「本人が大げさに言ってるだけよ。」

「何をしたんですか?」

「何もしてないわよ。」

「じゃあ、なんでお礼言われるんですか?」

「さあ?」

……強い。

この人。

守りが固すぎる。

ユウカがわたしを見る。

わたしもユウカを見る。

さっきまで。

このBARで一番底が知れないのは、名前の知らない芸術家たちだと思っていた。

違った。

わたしたちのテーブルにいた。

マスターまで来た

マリが有名小説家やマスターと顔見知りなことを追求するミサキとユウカ。

「昔ちょっとね。」

その便利すぎる一言で、すべてを片づけたマリさん。

もちろん。

わたしがそれで納得するわけがない。

「昔って、いつ頃ですか?」

「昔よ。」

「だから、いつ?」

「ミサキちゃんが今より若かった頃。」

「わたし今も若いんですけど。」

「じゃあ、もっと若かった頃。」

……この人。

絶対に答える気がない。

ユウカも諦めていなかった。

「何つながりなんですか?」

「知り合い。」

「それは知ってます。」

「じゃあ解決ね。」

「してないです。」

わたしとユウカ。

二人がかり。

普段なら、だいたい何かしら聞き出せる組み合わせだと思う。

わたしは相手の反応を見る。

ユウカは懐に入る。

なのに。

マリさんには、まるで効かない。

拒絶しているわけじゃない。

嫌そうな顔もしない。

ニコニコしながら全部かわしていく。

暖簾に腕押しって、こういうことなのね。

人生で初めて実物を見た気がする。

「まあまあ。」

マリさんがグラスを持ち上げる。

「せっかく来たんだから、楽しもうよ。」

「誰のせいで楽しむどころじゃなくなったと思ってるんですか。」

「私?」

「あなたです。」

「何もしてないけど。」

それが一番怖いのよ。

そんなやり取りをしていると。

今度はカウンターの中にいた男性が、こちらへ歩いてきた。

この店のマスターだ。

さっき入店した時、ユウカを招待した編集者と少し話していたのを見ている。

年齢は五十代くらいだろうか。

落ち着いた雰囲気の人。

マスターはわたしたちのテーブルまで来ると。

マリさんを見て笑った。

「マリさん。」

…………。

また?

「いらしてたんですね。」

マリさんも少し驚いたように顔を上げる。

「ご無沙汰してます。」

「本当にお久しぶりです。」

「お元気そうで。」

「マリさんも。」

わたしは黙った。

ユウカも黙った。

もう騒がない。

学習した。

今は黙って聞いた方が情報が取れる。

……何よ。

完全に取材じゃない。

マスターは懐かしそうにマリさんを見る。

「何年ぶりになりますかね。」

「かなり経ちますね。」

「そうですよね。」

「でも、お店は変わらないですね。」

「人間だけ歳を取りました。」

「お互い様(笑)」

普通に笑い合っている。

つまり。

マリさん、この店自体を知っていた。

わたしはユウカの足を軽く蹴った。

ユウカがこちらを見る。

目だけで伝える。

聞いてないわよ。

ユウカも目で返す。

私も。

マスターは少しだけマリさんと話してから、

「ごゆっくり。」

と頭を下げた。

「ありがとうございます。」

そしてカウンターへ戻っていく。

三秒。

わたしは三秒だけ待った。

一応、大人だから。

そして。

「マリさん。」

「何?」

「あなた、何者なんですか?」

とうとう聞いた。

もう遠回しに探るのはやめた。

本人に聞いた方が早い。

マリさんは少し考える。

そして。

「ライター。」

「知ってます。」

「こいこと。の。」

「もっと知ってます。」

ユウカが笑いをこらえている。

「そうじゃなくて。」

わたしはマリさんを指さした。

「なんで、さっきの人と知り合いなんですか。」

「なんで、この店のマスターまで知ってるんですか。」

「何してたんですか、昔。」

「色々。」

「出た。」

「何が?」

「今度は『色々』。」

「便利よ、この言葉。」

「でしょうね。」

ユウカも参戦する。

「マリさん、昔この辺で働いてたとか?」

「どうだったかな。」

「この店の常連だった?」

「来たことはあるよ。」

「誰と?」

「色んな人。」

「何してた時?」

「昔。」

「戻った!」

ユウカがとうとう声を上げた。

マリさんは楽しそうに笑っている。

……絶対遊ばれてる。

この人。

わたしたちが知りたがっているのを分かった上で、楽しんでるわ。

「でもね。」

マリさんがワインを一口飲む。

「そんな大した話じゃないのよ。」

「それを決めるのは私たちです。」

「なんで(笑)」

「だって、映画化されるような小説を書いてる人がわざわざ挨拶に来て。」

「この店のマスターまでわざわざ来て。」

「それで『昔ちょっと』は無理があります。」

「そう?」

「あります。」

「ユウカもそう思う?」

「思います。」

二対一。

今度こそ勝った。

そう思った。

でもマリさんは。

「じゃあ、そういうことにしておいて。」

にっこり笑った。

…………。

何が「そういうこと」なのよ。

結局。

小説家との関係も。

この店との関係も。

マリさんが昔何をしていたのかも。

何ひとつ分からない。

分かったのは。

わたしたちが思っていたより、マリさんの「昔」は広そうだ。

それだけだった。

……その時点では。

なぜここであの人の名前が出るのよ

小説家の口からケンジの名前まで出て驚くミサキとユウカ。

もう今日は諦めよう。

そう思った。

マリさんの昔を聞き出すのは、たぶん無理。

本人が話したくないものを無理に聞く趣味もない。

……ここまで散々聞いておいて何だけど。

わたしにも一応、節度というものはある。

かなり後ろの方に。

というわけで。

三人で普通に飲むことにした。

マリさんが来てから一時間ほど。

最初に感じていた場違い感も、いつの間にか薄れていた。

ユウカは近くにいた編集者と話し始め。

わたしも紹介された人と、小説と恋愛記事の違いなんかを話した。

来てよかった。

知らない世界に入るのは、やっぱり面白い。

そんなことを思いながら席へ戻ると。

さっきの小説家が、またこちらへ来ていた。

今度はグラスを片手に、マリさんと話している。

ユウカも戻ってくる。

「もう少しだけ、お邪魔していいですか?」

「もちろん。」

マリさんが答える。

今度はわたしたちも普通に会話へ加わった。

最近読んだ本。

文章を書く仕事。

映画化された自分の作品を初めて観た時の感覚。

小説家本人の話は、やっぱり面白かった。

わたしもいくつか質問した。

今度は取材じゃない。

……たぶん。

職業病というものは、本人には判別しづらい。

そんな雑談の途中。

彼がふと思い出したように言った。

「そういえば。」

マリさんを見る。

「ケンジさんとは、今も連絡取ってるんですか?」

…………。

わたしの中で。

何かが止まった。

隣を見る。

ユウカも止まっている。

今。

ケンジさんって言った?

もちろん。

世の中にケンジという名前の男性はいくらでもいる。

だから、まだ決めつけるのは早い。

そう思った次の瞬間。

マリさんが普通に答えた。

「取ってるどころか。」

少し笑う。

「実は今、同じメディアで記事書いてるの。」

うちのケンジさんだった。

なんでよ。

彼が驚いた顔をする。

「えっ。ケンジさんが?」

「そう。」

「文章書いてるんですか?」

「書いてるわよ。」

「へえ……それはちょっと読んでみたいな。」

「恋愛の記事よ。」

「恋愛?」

彼が笑った。

「それはますます読みたい。」

…………。

ちょっと待って。

わたしは話の内容がほとんど入ってこなかった。

この人。

ケンジさんまで知ってるの?

ユウカも耐えられなくなったらしい。

「すみません。」

会話に割って入る。

「ケンジさんって、私たちと一緒に書いてるケンジさんですよね?」

マリさんが頷く。

「そうよ。」

「知り合いなんですか?」

ユウカが小説家に聞く。

「ええ。昔、少し。」

…………。

お前もか。

なんなのよ。

この世代の人たちは全員「昔、少し」で過去を処理する決まりでもあるの?

「マリさん。」

「何?」

「ケンジさんと昔から知り合いなのは、知ってます。」

「うん。」

「そこじゃないんです。」

「うん?」

「なんで、この方までケンジさんを知ってるんですか?」

マリさんが少し考える。

「昔からの知り合いだからじゃない?」

「それは今聞きました。」

「じゃあ解決ね。」

「してません。」

ユウカも身を乗り出す。

「三人で何かやってたんですか?」

「別に。」

「同じ仕事とか?」

「さあ。」

「このお店で知り合ったとか?」

「どうだったかな。」

「マリさん。」

「何?」

「絶対わざとやってますよね?」

「何が?」

笑っている。

絶対わざとだ。

小説家もそんなマリさんを見て、少し笑っている。

助けてくれる気配はない。

むしろ。

この人も「そっち側」なのね。

「まあ。」

彼がグラスを持ちながら言った。

「ケンジさんにも、また会いたいですね。」

マリさんは穏やかに頷いた。

「今度伝えておく。」

「お願いします。」

それだけ。

それ以上、昔の話にはならなかった。

彼も説明しない。

マリさんも説明しない。

わたしとユウカだけが。

情報をほとんど与えられないまま、謎を一個増やされた。

マリさんだけじゃない。

ケンジさんまで何なのよ。

編集部では普通にコーヒーを飲んで。

普通に原稿を書いて。

普通に若いライターたちとくだらない話をしている二人。

わたしたちは、その二人が昔からの知り合いだということくらいは知っていた。

でも。

それだけだった。

今日。

少しだけ扉が開いた気がした。

その向こうに何かありそうだった。

だから覗こうとしたら。

マリさんに静かに扉を閉められた。

……何なのよ、もう。

結局、何ひとつ分からなかった

店を出て歩くマリ、ついていくミサキとユウカ。

店を出た頃には、夜もだいぶ深くなっていた。

外の空気が少し気持ちいい。

あれだけ緊張して入った会員制BAR。

終わってみれば、楽しかった。

小説家とも話せた。

編集者とも話せた。

普段なら接点のない世界の人たちとも話せた。

小説を書いてみたいという気持ちも、少し強くなった。

収穫は十分。

……のはずなのに。

わたしとユウカの頭を占領しているのは。

一人のライターの過去だった。

「マリさん。」

店を出て十秒。

ユウカが口を開いた。

早い。

でも。

わたしも聞こうと思っていた。

「何?」

マリさんは何事もなかったように歩いている。

「結局、昔何してたんですか?」

「まだ聞くの?」

「だって何も分かってないですもん。」

その通り。

今日判明したことを整理してみよう。

マリさんは、あの店に昔来たことがある。

マスターと知り合い。

有名な小説家とも知り合い。

しかも、その小説家から「お世話になった」と言われている。

さらに。

なぜかケンジさんまで、その小説家と知り合い。

以上。

肝心なところが全部抜けている。

推理小説なら返品したいレベルである。

「マリさん、昔この辺で働いてたんですか?」

ユウカが聞く。

「どうだったかな。」

「何か書いてたとか?」

「さあ。」

「あの作家さんとはどこで知り合ったんですか?」

「昔。」

「場所を聞いてます。」

「色々。」

「場所に『色々』って答える人初めて見た。」

ユウカが笑う。

わたしも横から聞いた。

「じゃあ、ケンジさん。」

「ケンジ?」

「あの人まで何なんですか?」

「何って?」

「なんであの小説家がケンジさんを知ってるんですか。」

「知り合いだから。」

「それは聞きました。」

「じゃあいいじゃない。」

「よくないです。」

マリさんが笑う。

「ミサキちゃん、今日ずっとそれ言ってるね。」

「今日ずっと答えてもらえてないからです。」

「そうだった?」

「そうです。」

……ダメだ。

この人。

本気で話す気がない。

でも。

不思議と腹は立たなかった。

隠しているという感じとも、少し違う。

昔の自分を格好よく見せたいわけでもない。

「昔はいろいろあったのよ」なんて、意味深な顔をすることもない。

ただ。

今さら説明するほどのことじゃない。

そんな顔をしている。

「そんなに面白い話じゃないよ。」

マリさんが言った。

「それ、さっきも聞きました。」

「本当なのに。」

「有名な賞を取った、売れっ子の小説家が頭下げてましたけど。」

「頭なんて下げてないでしょ(笑)」

「気持ち的には下げてました。」

「何よ、それ。」

三人で笑った。

駅が見えてくる。

ユウカがまだ諦めきれない顔をしている。

「じゃあ最後に一個だけ。」

「何?」

「マリさんとケンジさんって、何者なんですか?」

ずいぶん大きな質問になった。

マリさんは少し考えた。

今度こそ何か言うのかと思った。

そして。

「今は、こいこと。のライターじゃない?」

…………。

ユウカが吹き出した。

わたしはため息をついた。

「もういいです。」

「あら。怒った?」

「怒ってません。」

「怒ってるじゃない。」

「呆れてるんです。」

マリさんは楽しそうに笑っている。

そのまま、少しだけわたしたちの前を歩いた。

わたしは、その背中を見ていた。

今日。

マリさんのことを少し知れると思った。

実際には。

何ひとつ分からなかった。

むしろ、分からないことが増えた。

マリさんは昔、何をしていたのか。

あの人たちと、どこで知り合ったのか。

どうして慕われているのか。

そして。

ケンジさんまで、何なのか。

でも。

歩きながら、ふと思った。

全部知らなくてもいいのかもしれない。

人の人生なんて。

聞けば全部説明してもらえるものじゃない。

わたしにも、わたししか知らない時間がある。

ユウカにもある。

マリさんにも。

ケンジさんにも。

きっとある。

それを全部プロフィール欄みたいに並べたところで。

その人を全部知ったことにはならない。

それに。

全部見せない大人って、ちょっと格好いい。

……悔しいけど。

「ミサキ。」

ユウカが横から顔を覗き込む。

「何?」

「今日、小説のネタ見つかった?」

「そうね。」

少し考える。

小説家にも会った。

アーティストにも会った。

面白い話もたくさん聞いた。

なのに。

今夜、一番書きたくなった人は。

少し前を歩いている。

「見つかったかも。」

「どんな話?」

「教えない。」

「なんでよ。」

「昔ちょっとね。」

前を歩いていたマリさんが振り返った。

そして。

声を出して笑った。

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